ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府は種田山頭火の故郷・句碑巡り 

2023年03月03日 | 山口県防府市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         種田山頭火(本名は正一)は1882(明治15)年山口県の現防府市に生まれ、大地主の長
        男であったが不幸は母の自殺から始まり、父の遊蕩が原因で、先祖代々の屋敷を売却して
        酒造場を営むが倒産する。一家離散、離婚、出家などを経て、1926(大正15)年に行乞
        流転の旅に出る。
         句友に支えられながら漂泊の旅と、一時の定住を繰り返した山頭火は、1940(昭和1
          5)
年松山の一草庵で58年の人生を終えるが、不思議なことに明治、大正、昭和と15年
        が重なる。(歩行約7.9㎞)

        
         種田山頭火のふるさとに句碑が設置されているというので散歩する。種田家の人々は、
        1㎞離れた三田尻駅(現防府駅)まで他人の土地を踏まずに歩けたという伝聞もある。 
         観光案内所で頂いたマップを見ながら歩くと、地元の方がマップに2ヶ所追加して、1
        ヶ所は寺に移転していると教えていただく。(原文の句に濁点は
ないが、濁点入りで句を
        読む)

        
         JR防府駅天神口(北側)に出るとバス停方向に交番があり、その前に托鉢姿の山頭火像
        がある。山頭火は普段歩くときは右に杖を持っているが、お布施を受ける際は右手に鉢を
        持ち替えて受け取ったとされ、修行僧であったことを示す像とされている。

        
                   「ふるさとの水をのみ水をあび」
         1933(昭和8)年7月28日小郡の其中庵を出立し、山口、仁保を行乞して佐波川上流
        の小古祖(徳地)にある河野屋に投宿する。「宿前にある水は自慢の水だけあってうまかっ
        た。むろん二度も三度も飲んだ」とある。

        
         駅前を東へ向かうと防府市地域交流センター(アスピラート)入口に句碑がある。

        
                   「ふるさとや少年の口笛とあとやさき」
         1933(昭和8)年9月11日、其中庵から尾道地方に旅立つ日は中関町(防府)で行乞。
        湧き上がる懐旧の念を抑えがたく、この句を詠んだものと思われる。夕方、三田尻の松富
        屋という木賃宿に泊まった時の日記に書かれた句。

        
         さらに駅通りを東へ向かうと「喫茶エトワル」前に句碑。

        
                   「あさせみすみ通るコーヒーをひとり」
         1938(昭和13)年7月、当時としては貴重なコーヒーをもらった山頭火が、さわやか
        な早朝のコーヒーの味と、朝蝉のすきとおるような鳴き声に託して作った句。
         即興でつくった句は句友に手渡されたが、その頃の日記にはコーヒーが度々登場するが、
        句がなかったため幻の句とされた。
   
        
         旧国道2号線の佛光堂前に句碑。

        
                   「生きて伸びて咲いている幸福」
         1934(昭和9)年5月18日其中庵での作。日記には「木曽路句作の糸口がようやくほ
        ぐれかけてきたが、飯田で病んでいけなくなった。そして帰来少しづつほぐれる」と書い
        ている。
         あこがれの俳人・井上井月(いいげつ)の墓参りのため、長野県の伊那まで行こうとしたが、
        木曽路からの峠越えに残雪があって失敗。風邪をひいて肺炎となり引き返している。

        
         歩道橋を越えると松崎小学校。

        
                   「ふるさとの学校のからたちの花」
         山頭火は1896(明治29)年3月、松崎尋常小学校を修了。1935(昭和10)年4月2
        3日の頃に母校を訪ねたようで其中日記に書かれた句。

        
         句碑の左に「からたち」の垣根。松崎小学校は芦樵寺を仮校舎としていたが、1876
        (明治9)年天満宮下の天神町に移転し、松崎小学校と改称する。山頭火はここで学んだため、
        山頭火の小径と称する道は「欄干橋」がある所が終起点となっている。現在の松崎小学校
        は、1911(明治44)年現在地に移転している。

        
         昭和7年(1932)11月11日、頂いたゲルト(金銭)で白船居を訪ねる、(中略) 夜は質
        郎居で雑草句会、引留められるのを断つて2時の夜行列車で防府まで、もう御神幸はすん
        でゐた、夜の明けるまで街を山を歩きまはった、此地が故郷の故郷だ、一草一木一石にも
        追憶がある。佐かた利園はやつぱりよかつた、国分寺もよかつた」とある。

        
         「山頭火」という俳号は、本命星にある納音(なっちん)からとったもので、自分の生まれ
        た年からとったものでなく単に音の響きがよいので決めたようである。
         ちなみに師である荻原井泉水(せいせんすい)が、生年の納音から俳号を付けていたので、
        山頭火はこれに倣ったとされる。

        
                   「晴れて鋭いふるさとの山を見直す」
         1932(昭和7)年5月6日久保白船居を訪ねた後、5月9日の行乞記には「文字通りの
        一文なし、という訳で、富田、戸田、富海を行乞、駅前のお土産屋で米を買うていただい
        て小郡までの汽車賃をこしらへて」とある。往路も嘉川から汽車に乗って故郷は歩いてい
        ないので車窓から見た句であろう。(碑は本殿東側の社務所と駐車場の間に設置されている)

        
                   「ふるさとは遠くして木の芽」
         1932(昭和7)年新年を福岡で迎え、長崎、島原、佐世保などを行乞。3月21日は彼
        岸の中日、この日は早岐の町を行乞していたが、「晴れて風が吹いていて孤独の旅人を寂
        しがらせた」とある。
         しかし、彼岸の中日に萌え出る木の芽をみて、望郷の切なる想いがあったものと思われ
        る。この碑は生誕百年を記念して大山澄太氏が建立。(碑は駐車場の山側にある天神山公園)

        
         旧山陽道に出ると山頭火ふるさと館がある。

        
         旧山陽道沿いに「日の落ちる方へ 水のながれる方へ ふるさとをあゆむ」の句がある。
        1934(昭和9)年防府天満宮御神幸祭の日に詠んだ句とされる。

        
         正一少年が生家から松崎尋常小学校まで通った道は「山頭火の小径」と呼ばれ、草鞋跡
        が刻まれて迷うことなく歩くことができる。

        
         民家の壁には「ふるさとの山はかすんでかさなって」の句板がある。1933(昭和8)
        5月13日其中庵から室積へ行乞の旅に出る。汽車賃が足りないから、幸いにして、或は
        不幸にして歩くほかない、大道ープチブル生活のみじめさをおもひだす、佐波川の瀬もか
        はってゐた (中略) 大道、宮市、富海―あれこれとおもひでは切れないテープのやうだ
        よと記す。

        
         川遊びをしたであろう佐波川から流れ出る遊児(ゆうに)川。句板は薄れてはっきりと読め
        ないが「ほうたるこいこいふるさとにきた」と書かれているようだ。
         1932(昭和7)年6月1日の行乞記に書かれた句。川棚温泉で庵を結ぼうとし、6月1
        日から8月26日まで長期滞在するが結庵できなかった。 

        
         趣のある路地裏歩き。 

        
                   「草は咲くがままのてふてふ」
        1928(昭和3)の「層雲」に発表された句。

        
                   「育ててくれた野や山は若葉」
         1932(昭和7)年5月4日下関で行乞し、厚狭、船木、嘉川から汽車に乗り久保白船居
        へ。5月7日は富海から小郡まで列車を利用しているが、「防府を過ぎる時はほんたうに
        感慨無量だった」とある。
                   「晴れきった空はふるさと」
         1932(昭和7)年6月1日結庵すべき川棚温泉に到着すると「だんだん晴れてーきれの
        雲もない青空となった (中略) 新しい日、新しい心、新しい生活」とあり、句は6月4
        日に書かれている。

        
         山頭火の小径から通りに出て左折すると生家跡。ここが敷地850坪あった種田家の正
        門で、そこを入ると中門があったという。

        
                   「うまれた家はあとかたもないほうたる」
         山頭火は58歳で亡くなる2年前の1938(昭和13)年7月11日に防府を訪れ、その
        夕方、妹(町田シズ)を訪ねているが、そのついでに生家跡を見たと思われる。(立ち寄った
        記述はないが、この年の「層雲」に発表)
         「ほうたる」とは物を投げるという方言でなく、「ほたる」すなわち母と見た蛍のこと。
        山頭火の句すべてが「ほうたる」となっている。

        
                   「へうへうとして水を味ふ」
         向かい側の森重クリーニング店にあるが、1927(昭和2)年から翌年にかけて山陰、山
        陽、四国と九州を当てもなくさまよっている。たいてい酒をたらふく飲んだ翌日に、
清水
        のうまさを満喫したと思われるが、この句作の年月はわからない。
         1928(昭和3)年3月には四国八十八ヶ所札所を巡拝し、句友であった尾崎放哉(ほうさ
          い)
の墓参に小豆島を訪れている。
         荻原井泉水は季語を捨てた自由律俳句として「層雲」を創刊。山頭火はこれによって世
        に出られた。 

        
                   「分け入っても分け入っても青い山」
         山頭火の小径の出入口向い側に句碑がある。1926(大正15)年4月10日熊本の味取
        観音堂(堂守として1年間)を去って、行乞放浪の旅に出る。この句は熊本から高千穂、日
        向に向かう途中の高千穂に分け入った時の句とされる。(45歳)

        
         萩往還道を北上し、光山医院前を左折して道なりに進むと右手に護国禅寺がある。同寺
        には18句あってすべてが山頭火の肉筆で、誰もがすぐに拓本できるような大きさとなっ
        ている。

        
                   「風の中おのれを責めつつ歩く」①
         山門の「護国禅寺」と刻まれた標石の笠に句があるが、1939(昭和14)年作とされる。

                
                   「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」②
         1930(昭和5)年10月7日そこここを行乞して目出津へ、南郷町の木賃宿に泊
        まったが、一度宿に入りながらまた外に出て、どこかで飲んで酔いつぶれて野宿す
        る。真夜中にふと気づくと、あたりはこおろぎの鳴く声が満ちていたのであろう。
        (刻まれた石碑は旧多々良高校の校門だったとか)

                
                   「濁れる水の流れつつ澄む」➂
         旧山陽道と萩往還道が交わる所に、句碑とビジネスホテルがあったが、更地化されて碑
        は同寺に移設されている。
         山頭火晩年の句で、流転生活の人生であったが、山頭火が歩んできた想いがこの句に詰
        め込まれているといわれる。1940(昭和15)年9月8日、松山の一草庵で詠まれた句だ
        が、翌月の11日心臓麻痺で帰らぬ人となる。
         句碑は「道しるべ」として、あかりを灯せるよう頭部に穴が設けてある。

        
        山門右手に周防の自由律俳人三ツ星(萩原井泉水が名付けた)の句が並ぶ。
                 「雨ふるふるさとははだ
してであるく」(山頭火)④
                  「貯水池へ行く道とわかれて暮れて行くに萩」(久保白船・佐合島)
                 「耳に口よせて首がうなづく」(江良碧松・田布施)  

        
         山頭火の句友であった近木圭之介(黎々火)句碑
                  「一鉢は仏陀の耳に似るサボテン」
         1970(昭和45)年護国禅寺で行われた山頭火法要の折の句。

        
                   「こんなにうまい水があふれてゐる」⑤
         1930(昭和5)年10月8日南郷町榎原(よわら)で詠まれた句。荻原井泉水への葉書に
        は「山の中を歩いてさへいれば、そして水を味うてさへをれば、私は幸福であります」と
        ある。(土台はグランド用ローラー石)

        
                   「ほろほろ酔うて木の葉ふる」⑥ 
         この句は山頭火自身が、1927(昭和2)年の秋、広島県三次から庄原という静かな山の
        町を行乞し、そこから東城へ行く途中、雑木紅葉が降ってくる中をわたし一人で歩いた。
        造り酒屋の店先に腰かけてコップに2つやったのでとてもよい気分となり、歩きながらで
        きた句という。

        
                   「木の芽草の芽あるきつづける」⑦
         1930(昭和5)年「層雲」(1月号)の句。山頭火が詠んだ植物で圧倒的に多いのが「草」
        である。

        
         自由律俳人子弟の句
                 「てふてふうらからおもてへひらひら」(山頭火)⑧
                                 てふてふとは蝶々。 
                 「水鳥群るゝ石山の大津の烟」(川東碧梧桐)        
                 「はるさめの石のしつくする」(荻原井泉水)

        
                   「落葉ふる奥ふかくみ佛をみる」⑨
         1932(昭和7)年11月3日の日記に書かれた句だが、「ひさしぶりに飲んだ、酔うて
        歩いた、歩いてまた飲んだ、(中略) 独身者は気軽でもあればみじめでもある、おそくかへ
        ってきてお茶漬けをたべる、櫨(はぜ)の葉の美しさはどうだ、夜更けてそこはかとなく散る
        葉の音、をりをり思い出したように落ちる木の実の音、それを聴き入る時とき、私は御佛
        の声を感じる」とある。

        
                   「涸れきった川を渡る」⑩
         1930(昭和5)年福岡県を行乞。放浪化した山頭火が一人、徒歩禅に具し行乞の途中、
        自然のいとなみの流れの中での葛藤を描写したものとされる。
                   「分け入れば水音」⑪
         1929(昭和4)年日田から英彦山に向かう途中の句とされる。

        
                   「枝に花が梅のしづけさ」⑫
         1940(昭和15)年春の句、松山市の一草庵時代に書いた色紙が残っているとされる。

        
                   「うしろすがたのしぐれてゆくか」⑬
         1931(昭和6)年12月25日、福岡県八女福島を行乞した時の作とされる。哀韻と自
        嘲を込めて「しぐれ」の句が多いが、日記には「昨夜は雪だった、山の雪がきらきら光っ
        て旅人を寂しがらせる。思い出したように霙が降る。気がすすまないけど11時から1時
        まで行乞をする。それから泥濘の中を‥」とある。

        
                   「母ようどん供えてわたくしもいただきまする」⑭
         1938(昭和13)年3月6日其中庵での作。日記には「亡き母の47回忌、かなしい、
        さびしい供養、彼女は草葉の陰で私のために泣いてゐるだろう。今日は仏前に供へたうど
        んをいただいたけれど、絶食4日でさすがの私もひょろひょろする」とある。

        
                   「おたたも或る日は来てくれる山の秋ふかく」⑮
         1940(昭和15)年10月8日没する3日前、大きい字としては最後のものとされる。
        「おたた」とは松山地方の方言で桶を頭に載せ、魚の行商する女性のことのようだ。

        
                   「銭がない もの(物)がない は(歯)がない一人」⑯
         1940(昭和15)年終焉の地である松山「一草庵」で詠まれた句と思われる。濁点がな
        いため「果敢ない」と読んでしまったが、「ない」が続くようなので読み誤る。

        
                   「なむ(南無)からたんのうみ佛のもちをいただく」⑰ 

        
                   「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」⑱
         お地蔵さんの顔をよく見ると個性的な表情をする。見る人の気持ちにしたがって表情も
        いろいろと変化する。山頭火は「天気晴明、心気も明朗」と記す。 

        
         国道262号線の新橋町筋、I宅の玄関先に碑がある。

        
                   「うれしいこともかなしいことも草しげる」
         1934(昭和9)年其中庵に詠まれた句とされる。 

        
         アパホテル前に句碑。
       
        
                   「あたたかく人も空も」
         1930(昭和5)年2月10日福岡県糸田の木村緑平氏を訪ね、その後、後藤寺~伊田~
        神湊~津屋崎~福間~荒尾を経て熊本に帰っている。句は3月1日福間で詠んだとされる。
         木村緑平(緑平は俳号)は内科医で、山頭火を物心両面で支えた人物で、山頭火は14回
        も彼の元を訪れている。彼がいなかったら山頭火は存在しなかったともいわれる。

        
         戎ヶ森児童公園。

        
                   「雨ふる故里ははだしであるく」
         1932(昭和7)年川棚での結庵に失敗した山頭火に、句友の国森樹明が小郡に庵として
        ふさわしい茅屋を見つけてくれる。9月4日はあいにくの雨だったが、小郡の家を検分し、
        喜びを隠しきれぬように故郷の感触をはだしで確かめる。「足裏の感触が少年の夢をよび
        かへす」書き留めている。句碑は1954(昭和29)年友人有志により建立されたもので、
        防府市内で最初に建てられた。揮毫は大山澄太氏で、氏が山頭火を世に出した人物である。

        
         戎ヶ森児童公園から東への路地。

        
         和菓子店であったことから「まんじゅうふるさとから子が持ってきてくれた」という句
        があったそうが、廃業されたため撤去され、次の句のみが残る。
                  「ふるさとの水をのみ 水をあび」(駅前に同句) 
         
         足の方が悲鳴をあげてきたようで、教えていただいた方に感謝しながら駅に戻る。