ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

北九州市の黒崎は長崎街道の宿場町だった地

2023年03月22日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         黒崎は洞海湾南岸に位置し、江戸期には長崎街道の宿駅であり黒崎宿と呼ばれた。小倉
        から長崎へ向かう最初の宿駅であり、対馬や五島を除く九州西域の大名や多くの旅人が利
        用したという。(歩行約5.4㎞)

        
         JR黒崎駅は、1891(明治24)年九州鉄道の駅として開業する。1984(昭和59)
        橋上駅舎となり、のち駅前デッキが完成し商業施設と接続される。

        
         1979(昭和54)年「黒崎そごう」として開店したが、そごうグループの経営破綻を受
        けて、2000(平成12)年に破産する。2001(平成13)年井筒屋が移転してきたが、入
        居する運営会社が経営破綻したことから、2020(令和2)年撤退する。(左手のビル)

        
         車道に見える横断歩道が長崎街道。

        
         黒崎宿の案内板がある田町東交差点を散歩のスタートとする。

        
         同地には黒崎湊の常夜灯と開作成就の碑がある。
         常夜灯は、1849(嘉永2)年航海安全を守る灯台として黒崎湊の入口に設置されたが、
        今は消滅した黒崎湊の存在を示す歴史遺産とされる。
         城石村(しろいしむら)開作成就の碑は、JR黒崎駅北側の城石村に建てられたものだが、
        洞海湾が深く入り込んでいる浜を埋め立てて水田を作るために、1687(貞亨4)年から大
        規模な工事が数回行われた。堤防には城山(黒崎城)の石垣が使用されたことから地名の由
        来となる。碑には「元文三年(1738)午五月城石村開立成就」と記され関係者の氏名が刻ま
        れている。

        
         黒崎城は福岡藩初代藩主・黒田長政の命により、1604(慶長9)年隣国である豊前との
        国境沿いに6つの城(筑前6端城)の1つとして築城された。
         1615(元和元)年の1国1城令により破城されたが、関ケ原の戦い後の不安定な政治情
        勢を物語る遺跡とされる。ちなみに筑前6端城とは、この黒崎城をはじめ若松城(中島城)、
        大隈城、鷹取城、小石原城、朝倉市の左右良(まてら)城である。

        
         新田開発のための護岸に石垣が使用されたため、現在はわずかに石垣が残る程度である。

        
         山頂部からの眺望は最高だが、あいにくの黄砂でご覧の有り様だった。(3月10日撮影)

        
         城山に再挑戦しようと思ったが、階段と時間の関係もあってこの地から山頂を眺めて城
        巡りを終える。

        
         1615(元和元)年黒崎城を廃した際、城の南側にあった堀を埋めて構口が開かれた。番
        所を設けて通行人を監視したのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある
        構口で検問を受けなければならなかった。(江戸側が東で長崎側が西とされた) 

        
         海蔵庵(浄土宗)の寺伝によれば、平安期の延喜年中(901-923)に聖武天皇が九州巡拝の折、
        山寺に立ち寄られ一宇を建立されて海蔵庵観音寺と号された。1683(天和3)年芳譽傳廊
        上人という人が、田町に火災、病人が多数出たこともあり、住人の要請もあって山寺にあ
        った観音寺を廃し、海蔵庵と改称して現在地へ移転したと云われている。 

        
         海蔵庵の向い側に自在院という寺があるが詳細不明。

        
         長崎街道は次の四ツ辻を左折する。 

        
         田町の案内板によると、左折した右手一帯にかけて御茶屋があったとされるが、現在は
        何も残っていない。

        
         黒崎バイパス高架下と鹿児島本線を横断するが、左手のフェンスには、地域の大切な道
        として「お茶屋通りの憲章」が掲げてある。

        
         線路を横断すると右手の一角に歌碑2基が建てられている。桜屋の離れ屋敷の庭にあっ
        た主人古海東四郎正顕と5卿にまつわる歌碑である。勤皇の志が厚い正顕は、和歌にも造
        詣が深く、5卿に和歌を献上した云われている。その時の三条実美・正顕の和歌が石碑に
        刻まれている。

        
         右手の句碑は
        「きかまほし大内山の鶯の こころつくしにもらす初音を」(正顕)
        「九重の春にもれたるうくひすは 世のことをのみなけきこそなけ」(実美=三条実美)
          正顕が宮中の鶯の鳴き声にたとえて京都の様子をたずねたことに対し、実美が「自分は
                帝のお側にも仕えられない。世のありさまを嘆き悲しんで見ているほかない」と答えた。
                左手の句碑は
        「さすらひし昔の跡のしるしとて 植し小松の千代に栄えよ」(東久世通禧(みちとみ)
         1909(明治42)年東久世通禧が太宰府天満宮の帰路、京を追われ、苦しい逃避行を続
        けた当時の証として、この地に松を植え生い茂るようにと詠んだ句で、松は枯れたので句
        が建立された。 

        
         桜屋は黒崎宿にあった旅籠屋の1つで、1808(文化5)年頃の創業と伝えられ、薩摩藩、    
        熊本藩の御用達や佐賀藩の定宿を務めた。桜屋と呼ぶ前は薩摩屋と称していたが、幕末期
        には西郷隆盛や坂本竜馬などの志士たちをはじめ、三条実美ら五卿が宿泊する。(跡地には
        マンション)
         桜屋の「離れ座敷」は、1840(天保11)年築といわれ、明治維新の歴史を伝える貴重
        な建物として八幡西図書館内に復元されているという。(見落としてしまう) 

        
         国道3号線を横断すると、春日神社の鳥居が見える片隅に「黒崎宿人馬継所跡」の碑が
        ある。問屋場ともいい、輸送を担当する宿場の主要な施設で、人足や馬が常備されており、
        参勤交代に必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた。当時は神社の参道
        口付近にあったとされる。

         
         春日神社の創建年は不詳とされるが、中世には領主・麻生氏が代々崇敬してきた神社で、
        もとは花尾山(現在は花尾城公園)の麓にあったという。1604(慶長9)年黒崎城が築かれ
        た時に遷座された。

        
         拝殿正面には「國祖黒田大明神」「二十四騎霊神」の扁額が掲げられている。

        
         春日神社の入口右手に東光寺のお堂がある。浄蓮寺の末寺で麻生氏によって建立された
        といわれるが、由緒・創建年代は不詳とされる。

        
         長崎街道を西進する。

        
         正覚寺(真宗)は門司家の家臣であった三尾就定が、室町期の1561(永禄4)年大友氏に
        城を囲まれ、就定は戦わずして現在の芦屋町山鹿に逃れた。その後、「三清」と改めて現
        在の正覚寺のある辺りに小庵を結んで隠遁生活を送ったという。黒崎宿が整備された後の
        1632(寛永9)年に寺号を得たとされる。

        
         代官所跡には石碑のみ。

        
         アーケード入口の広場は案内板のみで街道だった面影は見られない。

        
         くまで通りはアーケード商店街で、入口には長崎街道の大きな看板が設置されている。

        
         地方のどこでも見られる商店街の風景である。1889(明治22)年町村制施行により、
        前田、藤田、熊手、鳴水村が合併して黒崎村となるが、のち町制に移行する。1926(大
          正15)
年八幡市に編入され、現在は北九州市八幡西区である。

        
         興玉神は商店街の通りに面して鎮座しているが、室町期の1565(永禄8)年熊手街道の
        守護神として、伊勢国の猿田彦大神総本社から分霊を勧請したとある。関の神、賽の神、
        庚申興玉神として崇敬されているという。 

        
        
         岡田神社の由緒によると、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が祖先神を祀ったのが始
        まりとされ、この一帯を「熊手」と号したという。「古事記」に神武天皇が東征の折に逗
        留したと記載されている古社で、天・地・人の三ノ宮を有する。
         黒崎城が築城され黒崎宿が整備されると、山手町から現在地に遷座される。

        
         西構口跡。

        
         乱橋は地名であった説や、黒崎の俳人関屋沙明が「ほたる飛ぶ松のはずれや乱橋」と詠
        んだことから、ホタルの群舞が橋に邪魔されて乱れ飛ぶ様子から乱橋(みだればし)と名付け
        られたという説もある。 

        
         街道は乱橋で左折して正面に見える松林へ向かう。 

        
         乱橋から山手通りという大通りを渡ると、曲里(まがり)の松並木の出入口に出る。

        
        
         曲里の松並木は、江戸期から残る松で「街道松」と呼ばれ、1955(昭和30)年代には
        57本残っていたが、 現在、当時の松は2本だけになったという。

        
         松並木から見える皿倉山。

        
         約1㎞の松並木というのでここで引き返すが、道幅4mほどの街道筋には昔ながらの土
        塁も残る。

        
         北九州市の市の花であるひまわりがデザインされたマンホール蓋。

        
         西構口まで戻って駅への道。


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