ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市牟礼の阿弥陀寺から旧山陽道 

2023年01月11日 | 山口県防府市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         牟礼(むれ)は防府平野の東、大平山の西南に位置する。北部を山陽新幹線、山陽自動車
        道と国道2号、南を山陽本線が走る。
         地名について、奈良期の713(和銅6)年までは
牟々礼であったが、郷名を2字に制限
        する好字二字令により牟礼になったと伝える。(歩行約6.5㎞、🚻阿弥陀寺とスーパー)

        
         JR防府駅から防長バス阿弥陀寺行きに乗車すると、中学校前や団地内など予想外の道
        を走行して終点の寺前に到着する。(バスは駅に引き返す) 
        
        
              阿弥陀寺の惣門で仁王像を安置するから通称を仁王門という。「禁葷酒入山門」の石柱
        を見て仁王門を潜ると、門の左右に金剛力士像がある。
         往古の門は、室町期の1565(永禄8)年に崩壊して120年間再興されなかったが、1
        685(貞亨2)年右田毛利家の毛利就信が原型にならって再興した。 

        
        
         金剛力士像は檜の寄木造りで玉眼(ぎょくがん)が入り、表情は忿怒のすさまじい形をして
        いる。製作年代は阿弥陀寺が創建された鎌倉初期とされる。(国指定重要文化財)

        
         阿弥陀寺創建にあたり、念仏の道場と湯を浴びて身を清める湯屋が建てられたが、寺は
        戦国期に衰えた後、江戸期の延宝年中(1673-1681)に湯屋が再建された。覆い屋は何回か建
        て替えられているそうだが、左手側から釜場、洗い場、脱衣場の3部からなる建物である。

        
         釜場には焚口と鉄湯釜があり、建物裏側の石水舟に溜めておいた水を鉄湯釜に入れて沸
        かす仕組みで、湯釜と湯船が別々に設けた鎌倉時代以降の様式とのこと。

        
         右手が脱衣場で左手が洗い場に区分され、鉄湯釜で沸かした湯を石製の湯舟に汲み取り、
        石敷の洗い場で浴びる。現用の鉄湯釜と石製湯舟は文政年間(1818-1830)の刻銘があるが、
        別に鎌倉時代のものと伝えられる釜と湯舟(残欠)は保存されているという。

        
         湯屋の傍には水車が勢いよく回り、常緑シダ類のヒトツバが小屋の屋根を覆っている。

        
         鉛筆の恰好したものが置かれているが、東大寺再建のために杣地から伐り出した用材の
        レプリカで、曳く縄もセットされている。

        
         湯屋の隣にある石風呂は、後代に造られた石風呂で、今でも月1回焚かれている。(旧石
        風呂は近くにあり)

        
         本堂までの参道は途中で2手に分かれているが、右手の道は「男坂」といわれる念仏堂
        に通じる道だが、本堂に通じる古刹にふさわしい石段「女坂」を上がる。
         中門はもと国庁寺(周防国府が寺となる)の惣門で、国衙の解体にともない、1871(明
          治4)
年に東大寺から寄付されたものである。

               
         阿弥陀寺は平安期の1181年、周防国が東大寺再建の造営料国となったことから、1
        186年俊乗坊重源が周防国府の地に下向した。阿弥陀寺は重源上人が造った東大寺再建
        の7別院のひとつで、後白川法皇の安穏を祈願して建立された。
         本堂は、1731(享保16)年右田毛利家のよって再建されたもので、内部は内陣と外陣
        に分かれ、外部は向拝と右手に玄関を組み合わせたものとなっている。

        
         寺を創建した人物の像を祀るのが開山堂で、俊乗房重源上人の坐像が安置されていたが、
        現在は宝物殿に移されているとか。現在の建物は、1709(宝永6)年に再建された。

        
         念仏堂は念仏を唱えて心身浄化をはかる修行の場であったようだが、創建当時の建物は、
        室町期の1484(文明16)年に焼失する。現在の建物は、1903(明治36)年に再建され
        たもので、奥側に建つ経堂(蔵)も、1719(享保4)年に再建された。

        
         鎌倉期の1197(建久8)年造の梵鐘は失われてしまったとのことだが、今の梵鐘は、1
        953(昭和28)年寺が東大寺別院となったのを記念して、1958(昭和33)年東大寺六葉
        鐘を模造して、東大寺より寄贈されたものという。鐘の一番下にある駒の爪に6ヶ所の切
        込みがあるのが特徴のようだ。

        
         境内すべてを見歩きできなったが、あじさい寺としても有名で開花時期には多くの人が
        訪れるが、この時期は誰もいない静かな山寺を堪能できる。

        
         牟礼地区も団地などができて宅地化が進んでいる。

        
         仁王門の金剛力士像の手形と足形が原寸大で彫刻されているが、足形は何㎝なのかは記
        載されていない。

        
         春日神社境内に入ると猿田彦大神が祀られているが、入口の鳥居には額束はなく、石柱
        には明治41年(1908)9月8日建立とある。

        
         神社の略記によると、藤原氏ゆかりの官人が周防国庁に下向するにあたり、その祖神で
        ある奈良・春日大社の分霊を祀ったと伝えられている。鎌倉期の文治年間(1185-1190)阿弥
        陀寺の創建に伴い、俊乗坊重源上人が鎮守社として再建したという。

        
         大寒の日に冷水に入って心身を清め、無病息災を祈る行事「大寒みそぎ」が行われる禊
        (みそぎ)所。行は神話に由来し、水の霊力によって身を清める神事で、「身を削ぐ」ともい
        われる。

        
         農業大学校側に参道。

        
         農業試験場と林業指導センターを農業大学校に移転・統合する準備が進められている。
        (正面に新築中の新本館で供用開始は2023年4月)

        
         市営坂本団地も建築年から相当の期間が経過し、建物の老朽化などで空室も目立つ。

        
         昔ながらの生活道は拡張されないまま宅地化が進んでいる。

        
         瞬時にはわかりづらいが、中央に佐波川の鮎3匹と上部に右田ヶ岳、下部にはエヒメア
        ヤメがデザインされたマンホール蓋。 

        
         山陽自動車道と国道2号の大平山交差点の脇に、周防三十三観音霊場21番・木部観音
        堂が建ち、回向柱と地蔵尊が鎮座する。
         堂内は施錠されて拝見できないが、1870(明治3)年大光寺は極楽寺(元雲岩寺)に合併
        して廃寺となり、本尊であった十一面観音と脇士2軀は極楽寺に一時保存されたが、18
        89(明治22)年地区の方々によって、今日まで観音堂として祀ってきたという。

        
         国道や高速道、新幹線が域内を分断している。(地下道)

        
         大平山を背に南下する。 

        
         左手に秋山家の門と白塀が見えてくるが、毛利元就の7子である元政に従い、1600
        (慶長5)年熊毛郡の三丘に下り、元政の子・元俱(もととも)が知行替えより右田に移ると、牟
        礼村柳に居を構えたが、1695(元禄8)年秋山正右衛門光次が現在地に居を移す。代々、
        槍指南役として右田毛利氏に仕えたという。

        
         江戸末期の武家住宅として今もほとんど改造されることなく、旧街道に面して石垣と土
        塀に囲まれた棟門がある。内部は塀の隙間から垣間見ることができるが、式台らしきもの
        が見える程度であるが、全体として近世の地方武士の住宅配置をよくとどめている。

        
         住宅の傍に大きな老木。

        
         四差路の筋が旧山陽道で、左折して浮野峠方面へ少し進むと、左手に2.34mの花崗岩
        の大石柱が立ち、後方にエノキの木があったという場所まで往復する。
         小路が阿弥陀寺に通じるので土地の人は阿弥陀寺への道しるべといっているが、鎌倉前
        期の1187年、重源上人が阿弥陀寺創建にあたり、この地を開発して境界石を建てたと
        いう説もある。

        
         江戸期の旅籠「徳地屋」跡(立石家)で井戸が残されている。

             
         「こんぴらみち」「あじなみち」と刻まれた石柱(道標)は、いつ頃建てられたかはわか
        らないそうだが、「あじなみち」とは近くに阿品社があった道しるべとされる。

        
         浮野(うけの)市の中ほどにある四差路は、右手が阿弥陀寺への道で、角に春日宮と彫られ
        た高さ約2mの常夜灯がある。

        
         浮野峠を下った辺りからほぼ直線道。

        
         浮野公民館前に牟礼郷土誌同好会の方が、「浮野町」と題して江戸期の状況を説明され
        ている。
         これによると、浮野半宿として旅をするものに対し、人足と馬を用意し次の宿駅まで継
        ぎ送りをするため、人夫8人、馬10疋を昼夜交替で用意していた。また、継ぎ送りの駄
        賃を公示した高札場もあったという。町の長さは4町5間(約350m)街道に面して45
        軒の屋敷があった。

        
         浮野町地図によると、この辺りは往還松があった場所のようである。農家を中心として
        構成されてきた従来の村落的な社会構造が、混住化地域に変容しつつある地域である。

        
         柳川を渡ると今宿で、古い宿場が廃れてできた新しい宿場を意味する地名らしいが、ど
        この宿場が廃れたのかはわからない。国道2号に通じる環状道路が横断するなど周辺は様
        変わりしつつある。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、江泊村と牟礼村が合併して牟礼村となるが、1
        936(昭和11)年防府町などと合併して防府市に移行する。村立時代に牟礼幼稚園がある
        付近に村役場があったようである。

        
         この付近に一里塚があったとされるが遺構などはない。

        
         馬刀(まて)川の橋を渡るが、この付近の建物は更新されて見るべきものはない。

        
         馬刀川から約200mばかり西進すると四差路があり、西北角に「不許葷酒入門」の道
        標がある。極楽寺参詣道の名残りと思われるが、矢筈ヶ岳山麓にあった現観寺も大光寺同
        様に、1868(明治元)年に廃寺となり、極楽寺に合併されて観音堂も同寺に移された。

        
         岸津を過ごすと旧国道2号に合わす。

        
         この先が国衙地区のため国府中学校前バス停よりJR防府駅に戻るが、バス便は徳山駅
        と大平山からの便があって便数は多い。