ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市夜市は若山城跡から集落内を散歩 

2023年01月04日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         夜市(やじ)は夜市川と同支流である的場川の流域に位置する。
         地名の由来は、貝籠(かいこもり)という小村の山王社を普請していた折、矢の根を掘り出
        したことから矢地と称していたが、矢地は地を失うに似ているため忌避して、いつ頃か弥
        地あるいは夜市の字をあてるようになったという。(歩行約7㎞、🚻若山
) 

        
         JR福川駅は、1898(明治31)年山陽鉄道の徳山-防府間が開通したと同時に開業する。
        駅舎はあるものの現在は無人駅である。

        
         旧国道2号線(現在は県道下松新南陽線)を横断して、国道2号線に通じる道へ入ると、
        周辺は近代建築で面目を一新している。旧山陽道は「福川」で散歩しているので、福川本
        陣から散歩する。

        
         1721(享保6)年幕府が随行員制限令を発すると、その前後から陸路による通行が激増
        する。長州藩の場合も、1725(享保10)年を境に海路併用から総陸路利用へ転換する。
         当初はお客屋と称して藩主の領内巡視や参勤交代の西国大名たちの休憩所に当てられた
        が、のちに御茶屋と改称する。1741(寛保元)年福田宇右衛門に管理を委託し、山陽道の
        本陣を兼ねることになった。本陣の名残をとどめる本陣門は、1838(天保9)年福田四郎
        兵衛の代に建て替えられたものである。

        
         本陣門から引き返し、正面に見える若山に向って川筋を進む。若山は福川の北にあり、
        標
高217mの山頂には若山城があった。
         陶氏の城砦について「地下(じげ)上申」は、矢地(夜市)村の項に「矢地の伊賀の上にあり、
        ただし大手は南の福川村にて御座候」とある。

        
         筋にはこのような建物は1軒のみだった。

        
         地蔵尊と宮灯籠。

        
         国道2号線の函渠を潜ると左折して国道筋に上がるが、域内は国道で分断された形とな
        っている。

        
         国道を防府方面へ進むと若山城跡への案内がある。

        
         登山口には地蔵尊や記念碑などが並ぶ。

        
         こちらの登山道は舗装路で単調な道だが、こんな看板が車道終点まで掛けてあるので読
        みながら歩ける。

        
         登山道からの展望は期待できない。

        
         自転車を漕いで上がってくる3人組や、ウオーキング中の数組に出会い、挨拶しながら
        登ること35分程度で二の丸・三の丸に到着する。

        
         若山城は通称「若山」とよばれる山体の頂部を本丸とし、稜線上に支郭が造られている。
        本丸の西に続く稜線上に西の丸及び蔵屋敷とよばれる郭があり、本丸から南東に下る尾根
        筋には二の丸、三の丸が連続して配置されている。

        
         三の丸跡から見る福川の町並みと徳山湾。

        
         ここから山頂まで徒歩5分。(ここに🚻)

        
        
         鳥居を潜れば山頂。鳥居は「明治33年旧4月1日 福川講中」とあり。

        
         陶氏は吉敷郡の陶(現山口市)を本拠地とした大内氏の一族であったが、南北朝期の陶弘
        政の頃、鷲頭庄(現下松市)を本拠とした鷲頭氏に対するため、居館を現在の周南市下上の
        武井付近に移した。若山城はその後に築かれて陶氏の城砦となったが、築城年代は不明と
        のこと。

        
         典型的な中世山城の形態をしており、空濠などを備えた防御に優れた山城であったと思
        われる。
         しかし、1555(弘治元)年10月厳島の戦いで、陶弘護の孫にあたる陶晴賢が毛利軍に
        敗れた後、杉重輔に攻められて落城する。その後、大内氏を滅ぼして防長2州を手中した
        毛利氏は若山城を廃城にする。(石鎚神社の詳細は知り得ず) 

        
         大きな桜の木の片隅に「海軍省・徳山要港境域標」がある。海軍燃料廠があった徳山港
        は、1938(昭和13)年に要港指定を受け、軍港に次ぐ重要な港に位置づけられた。要港
        になったため海上および陸上に境界線が引かれ、域内における船舶や人の行動に制限が設
        けられた。

        
         三の丸から見た風景とあまり変わらないが、福川の町を夜市川が湾に向って蛇行し、湾
        の正面に黒髪島、その右前方に大津島が浮かぶ。

        
         西に細長く夜市の集落。

        
         本丸から下って行くと石組みされた西の丸が見えてくる。

        
        
         西の丸は標高196mで本丸より21m低い。この敷地は東西は長い長方形で、東端を
        高さ2.3m余り、長さ14mばかりの石垣とし、西側は削崖によって郭の敷地を壇状に
        築いている。

        
         化学工場群の先に要港だった徳山港、浮かぶ島は仙島、遠くの高い山は太華山。

        
         蔵屋敷は西の丸より西方に位置する。

        
        
         蔵屋敷から伊賀コースを下るが、登山道は土砂で潰れているが微かな踏み跡を辿り、途
        中は倒竹もあって登山の素人には不向きなルートであった。

        
         中電鉄塔付近から明瞭な道となり、安堵を覚えるとJRの変電所用フェンスがある場所
        に出る。

        
         墓地を過ごすと夜市の町並みが間近に見えるようになる。

        
         夜市の伊賀集落に出る。

        
         幟旗がある所が若山観音堂で、大内弘世が京洛文化の1つ西国霊場をこの地に勧請し開
        創する。
         はじめは若山の法蓮寺にあったが、若山城落城後に荒廃したため
普春寺が、1695(元
          禄8)
年現在地に遷座させたという。普春寺(曹洞宗)の創建年は不明だそうだが、陶隆房(晴
        賢)創建と伝わるという。

        
         従来は農家を中心として構成されてきたと思われるが、現在は混住化地域である。(若山
        方向)

        
         小さな亀甲模様に旧徳山市の市章が入ったマンホール蓋。

        
         域内を北から山陽新幹線、国道2号線、山陽本線、旧山陽道が横断するが、集落は国道
        2号線以北に形成されている。

        
         新幹線高架に並ぶ理容院。

        
         鷹飛原(たかとびはら)八幡宮は、室町期の1596(永正3)年火災にかかり、旧記を焼失し
        たため創建年など不明とされる。神社名は神霊が豊後国宇佐の方より金色の鷹と化して飛
        んで来たことによるという。

        
         参道を上がると石祠が2基鎮座しているが、一丈六尺の岩室を設けたので丈六様(石宮八
        幡宮)と呼ばれている。


        
         現在の社殿は、1876(明治9)年に造営された。

        
         本殿裏手に若宮八幡宮があるが詳細は知り得なかった。 

        
         夜市小学校裏手の道はほぼ一直線だが、以前は農地と思われるが新興住宅地となってい
        る。

        
         山裾に大きな屋敷地を持つ家が並ぶが、その並びに妙栄寺(真宗)がある。創建年は不明
        だそうだが元は真言宗で、1612(慶長17)年に改宗したという。

        
         
壁の大きな家(原田邸)を右に廻り込むと旧山陽道に合わす。

        
         この一帯が矢地市と呼ばれる所だが、「戸田市」歩きの際に散歩したのでカットしてJ
        R戸田駅へ向かう。
         矢地市は山陽道に沿ってできた町であるが、東の福川や西の戸田市に比べ規模は小さく、
        茶屋はなかったという。