この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
堀越・末田は防府平野の東端に位置し、大平山の南麓と江泊山に囲まれ、東は周防灘に
面する。
地名の由来について、堀越は低い丘陵を切り開いて道を通した所の意とか。末田は地下
(じげ)上申によると、陶氏の合戦があったことにより陶田となり、のちに末田となったとし
ている。(歩行約5㎞)
JR防府駅北口から防長バス徳山駅行き15分、堀越入口バス停で下車する。
バス停から旧国道を徳山方面に進み、手押し信号機で旧国道を横断すると踏切の先が堀
越集落である。
かってはこの付近にも窯があったようだが、その痕跡は残されていない。
堀越三神社参道の途中には「堀越焼創業当時の窯跡」の碑がある。
神社由来によると、1788(天明8)年佐野村の内田善左衛門は、堀越地方が窯業に適す
ることに着目し、徒弟の林治右衛門および大島郡小松村の宮本亀治郎を連れて堀越に新窯
を開いた。
その後、1793(寛政5)年には窯業不振に遭い、善右衛門は佐野村に引きあげたが、治
右衛門と亀治郎は牟礼村の秋山正右衛門から融資を受けて再興した。その創業と共に窯業
の守護発展の守り神として、1793(寛永5)年に創建された。祭神は、火の神・土の神・
竈の神である。
高さ56㎝の狛犬が円筒形陶製の上に置かれているが、三神社創建200年事業として
地区住民が寄進したものである。阿吽形ともに陶製で、尾は2峰が縦に重なった立ち尾の
形である。
目の前に堀越防波堤。
堀越防波堤は、1898(明治31)年山陽鉄道が徳山ー三田尻(現防府)間の鉄道工事中に
防波堤を構築して地元に寄付したものである。
当時、中国地方でも有数の陶器土管の生産地で、移出入貨物は船便に依っていた。その
後、陸上輸送の発達によって出入船も少なくなり、堀越焼の衰退と共に商港機能はなくな
り、現在は漁船の船溜めとなっている。
左の道に入る。
「陶のこみち」と銘打ってある。
堀越窯は、1882(明治15)年登り窯を築造して窯業を創めたという。最盛期には十数
軒の窯元があったようだが、昭和になって日用品としても価値を失うに至り、次第に廃業
するものが増して現在は2軒の窯元だけである。
末田浜踏切を過ごすと末田地区。以前に比べ空地が目立つなどすっかりと様変わりして
いる。
若い人がタコ壺作りの技を引き継いだと聞いていたが、タコ壺が並ぶので多分この窯と
思われる。
この窯で一時は多くのタコ壺を生産されていたが、プラ用タコ壺の出現などタコ漁の技
法も変化したため生産量は落ち続け、 2016(平成28)年に生産を中止されたという。
末田には10軒の窯元があったようだが、次々に姿を消して通りから見える窯はここの
みであった。
窯入口には「やわらかな海を感じ、そよ風に気づく 末田にあるのはそんな登り窯」と
ある。
末田の防波堤は、1913(大正2)年に中国土管㈱が設営し、土管運送船舶の船溜りとし
て使用されたが、陸上輸送に移ると利用されなくなり、防波堤も台風災害などで破壊され
て姿を消したという。
末田焼の登り窯跡だが窯元はわからず。この地で焼物が盛んになったのは、江泊浜と関
係するといい、塩浜では火抜湯瓶、谷瓦、水壺などを大量に必要としたためともいわれて
いる。
堀越・末田は「焼き物の里」が代名詞で、「壺まつり・陶器市」も行われてきたが、2
016(平成28)年4月に66回も続いた壺まつり(春と秋)を終えたという。
1875(明治8)年佐波川に新橋が架けられ、旧山陽道が一部変更された。これと前後し
て富海から海岸伝いに末田を通り、堀越を経て神ノ原を横断して、前町から岸津を過ごし
て旧街道に交流する国道が開通する。
のち、新国道建設が着工され、富海から茶臼山トンネルで江泊に出る新ルートが竣工す
る。今は国道筋だった頃の賑わい、窯業が盛んだった頃の賑わいが失せて寂しい通りとな
っている。(正面に茶臼山)
「美しい自然」ということで、右田ヶ岳、佐波川の鮎、エヒメアヤメがデザインされた
マンホール蓋。
T字路を左折して県道の函渠を潜って山手に向かう。
山手側より海が見えていたと思えるが、末田は旧国道により二分されている。
石柱が見えるので加藤一郎陶房の入口を上がってみると猿田彦大神だった。
国道高架を潜ると、その先の分岐は右にとって旧山陽道に合わす。
合流地点を右折するとわずか程で浮野峠改修碑が見えてくる。1871(明治4)年にショ
ートカットされた旨の説明(碑文)と絵図が案内されている。
約30mの石畳み道が当時の面影を残す。
下って行くと上流に砂防堰堤があって、小さな小川に飛び石が置かれている。おこん川
(観音原川)という川だそうで、源流は大平山で茶臼山の西岸に流れ、江戸期には橋が架け
られ、萩本藩領(牟礼村)と徳山藩領(富海村)の村境でもあった。
近世の農業にとって下草刈りは、たい肥、牛馬の飼葉などにするための重要な仕事であ
った。この下草刈りを巡ってたびたび紛争が起こった地でもある。
石祠から約50m登ると〒マークの付いた建物があるが、昭和の初めに東京から敷設さ
れた「長距離市外電話ネットケーブル」の中継基地と思われる。「装荷用ケーブルハット」
といい、全国でも数個しか残っていない珍しい産業遺構とされる。
棚田に2つの石祠が鎮座するが、それぞれの石祠の屋根には大内菱が刻まれており、祠
には自然石が安置され、奥の壁には「大内霊神」とある。
1867(慶応3)年、波戸の鼻の住人・池永直左衛門(祠には施主・汜屋直左エ門とあり)
が付近を開墾した際、刀剣を掘り出すと精神に異常をきたすようになる。
かくて1869(明治2)年に石祠を造り、大内霊神として刀剣発掘の地に祠を建てたとい
われている。
茶臼山古戦場の案内板が立つこの地は、厳島合戦で陶晴賢を破り、大内氏の旧領を手中
にした毛利軍は、筑前立花城の攻撃にかかる。豊後の大友宗麟に寄宿していた大内義興の
弟である高広の子・大内輝弘は、この時が大内家再興の好機と、1569(永禄12)年10
月12日秋穂浦に上陸し山口へ攻め込む。
毛利軍の追撃が始まると大内軍は次第に輝弘軍から離散し、輝弘は秋穂浦に撤退する。
すでに軍船はなく三田尻、浮野峠を越えてこの地まで逃げたが、富海の椿峠に毛利軍、後
方にも毛利軍が迫り、最後の抵抗を試みたが壊滅する。
古戦場の案内板と左手は茶臼山への登山口。
入口は笹薮だったが一歩中へ入ると明確な登山道が現われる。ほぼ直登といった道に赤
や青の目印テープがあるので、これを頼りに休みながら頂上を目指す。
前方と後方に兵が待ち受けていたため、輝弘は右手の小山に駆け上がり、ここで防戦し
たが力尽きて10月25日自刃して動乱は鎮まったという。
後の人がその処を切腹岩と名付けたが墓らしいものはない。多数の戦死者を埋めた千人
塚が、茶臼山の麓である末田集落にあるというが、その所在ははっきりしないという。(岩
は登山道8合目の右手)
茶臼山というから城山のようにみられるが、頂上に平地はなく、また何らかの軍防上の
施設もない。1740(元文5)年3月の富海村庄屋の報告によれば、「往古大内輝弘居城と
計申伝う、外に由緒存不申候、山8ぶんめ程に切腹岩と申岩有之候へ供委敷由緒存不申候
事」とあるようだが、居城というのにはあたらないようだ。
この山は富海湾を見渡せることから、頂上にイワシの群を見つけて漁船に合図する魚見
台があったという。1955(昭和30)年代はじめ頃まで富海ではイワシ漁が盛んで、浜に
も活気があったというが、この石組みが台であったかどうかは確証を得ていない。
富海の橘坂から浮野峠に至る旧山陽道は、旧態の姿を色濃く残す区間である。
眼下に周防灘、左の八崎岬から大津島、野島が一望できる場所である。古代から長い間
親しまれてきたこの峠道は、1877(明治10)年海岸部に新たな道が新設されて役目を終
える。
旅人は坂を登り詰めると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足を止め、石に手を懸け
て休んだという。そこからこの岩は手懸岩と言い伝えられている。
尾張の菱屋平七が、1806(文化3)年にまとめた「筑紫紀行」の中で、この辺りの風景
が東海道薩埵(さった)峠(静岡県由比町と静岡市の境)によく似たりと紹介している。
富海の町と湾が見えてくる。
橘坂は急な下りだが、上り道は旅人の足を疲れさせたという難所であった。
鉄道開業当時から踏切遮断機を上げ下げする踏切番(交通保守掛)が常駐していたという。
ここに小さな小屋があって飲料水などの水を確保するポンプが置かれていたという。
JR富海(とのみ)駅は、1898(明治31)年山陽鉄道の徳山駅ー三田尻(現在の防府)間が
開通したと同時に開業し、以前はレトロな木造駅舎と丸型ポストが出迎えていたが、ポス
トは撤去されていた。