ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇佐市の長洲は漁師町、酒蔵と神社を巡る

2022年09月10日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長洲村と金屋村が合併して長洲村が発足する。
        のちに町制施行して長洲町、昭和の大合併で柳ケ浦町、和間村と合併して長洲町となるが、
        1967(昭和42)年宇佐町、駅川町、四日市町と合併して宇佐市に移行する。
         その長洲は中津平野の東部、駅館(やっかん)川の河口右岸に位置し、北は周防灘に面する。
        地名は駅館川の本支流に挟まれ中洲であったことに起因するという。(歩行約4㎞)

        

         豊後高田から大分交通四日市行き15分、長洲支所前バス停で下車する。

        
        
         県道中津高田線を避けて裏道を歩く。 

        
         鳥居が見えたので立ち寄ると、長洲神社境内は長洲葵保育園と共用になっている。

        
         賀茂大神宮、賀茂宮などと呼ばれ、地元では流れ勧請と伝えるが、賀茂皇大神宮由来に
        よると、奈良期の731(天平3)年賀茂別雷神が住江に流れ着き、満潮時に現在の本殿があ
        る中小路に着いたという。
         当地の産土神として崇敬され、5月3~5日の執り行われる葵祭りは、江戸中期頃に豊
        前国に疫病が流行、これを鎮めるため始まった祭りだそうで、山車が長洲の町を練り歩く。

        
         神光寺の突当り左折すると天満宮。 

        
         もとは真言律宗だったそうだが、鎌倉期の1326(嘉暦元)年象山禅師の再興と伝える曹
        洞宗の神光寺。
        
        
        
         正面の壁に「賀久酒場」の文字入り鏝絵。 

        
         当地にはいろんな神社が存在するが、ここは八坂神社。 

        
         とよきん醤油付近の小路。

        
         四ッ谷酒造がある通り。1919(大正8)年四ッ谷酒造場として四ッ谷兼八が創業する。
        創業者の名前を商品名とした麦焼酎「兼八」を中心に焼酎造りをされている。

        
        
         鳴海製麺工場付近の民家。

        
         製麺工場の向い側に春日神社。この付近にもう一軒製麺工場もあるが、長洲麺の起こり
        は江戸期とされ、宇佐平野の小麦と海岸沿いの塩、駅館川による水が潤沢だったこと

        麺作りが盛んになったという。

        
         製麺工場から淡島神社への通り。

        
         淡島神社は奈良期の740(天平12)年頃移住民の永住の地となり、宇佐神宮の護神であ
        るえびす神を勧請し、洲の小高き処(高杜)に祀ったという。

        
         1789(寛政元)年創業の久保酒造は、もとは酒造業を長くされてきたようだが、現在は
        麦焼酎「久保」をメインに焼酎造りをされている。

        
         久保酒造の酒蔵を見ながら直進すると貴船神社。鳥居がないのでこの石柱が注連石だろ
        う。 

        
         三角洲及び浜に家が密集していたため、火災は大惨事になることが多かったという。
        1703(元禄16)年には寺社在家5~6軒を残す大火、1732(享保17)年には宮社3ヶ
        所を残して全焼するという大火に見舞われている。

        
        
         1868(明治元)年創業の小松酒造は途中で製造を中止されたそうだが、2010(平成2
          2)
年に製造を再開されている。白麹仕込みの純米酒「豊潤」という銘柄は、さっぱりと切
        れの良い酒だそうだ。

        
         小松酒造から豊前長洲駅と柳ヶ浦駅までは同距離にあると思えたが、長洲に来たので長
        洲の名がある駅に戻ることにする。

        
         鹿児島本線に長洲駅があるため、こちらは豊前長洲駅といい、1911(明治44)年に開
        設された。

        
         「ギャラリーのある無人駅」と銘打って駅舎内にはいろんなものが展示されている。

        
         島式ホーム1面2線を有する地上駅だが、跨線橋のみの乗車方法である。


豊後高田市に昭和30年代の町並み 

2022年09月10日 | 大分県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         豊後高田は周防灘に面する国東半島西部の基部にあり、東を桂川が下る。(歩行約2.8
        ㎞)

        
         1909(明治42)年に開業した宇佐駅。

        
         駅前から大分北部バス13分、豊後高田バス停で下車する。

        
         バスターミナルに到着すると乗降場は鉄道の旧豊後高田駅ホーム跡である。国東半島の
        玄関口であった豊後高田から宇佐駅を経て、宇佐八幡駅まで結ぶ8.8㎞の大分交通宇佐参
        宮線があった。
         1916(大正5)年に開通したが、1965(昭和40)年8月にバス路線と競合するため廃
        線となる。(ここで活躍した機関車は宇佐神宮境内に保存)

        
         「JRの駅もなければ、マックも無え!」というが、鉄道があった証として駅通り商店
        街のアーチが輝く。(先に昭和ロマン蔵を見学) 

        
         バスターミナルを出ると右手に昭和ロマン座という一画があり、昭和ロマンが漂う施設
        である。
         その一角にある長い建物は、野村家が小作米を収蔵するために、1937(昭和12)年に
        設営した米倉倉庫である。

        
         有料の東館には駄菓子屋の夢博物館、チームラボギャラリーがあり、北蔵の無料ゾーン
        には昭和の商店街、夢町小学校がある。

        
         ボンネットバスで昭和の町商店街や桂川沿いをミニ周遊できる。ここが出発地で料金は
        無料だそうで、1957(昭和32)年製造の昭和生まれのバスである。

        
         無料で足湯が楽しめる「ぶんごたかだ温泉座」と、隣は昭和の懐かしい学校給食が味わ
        えるカフェ。

        
         朝が早いこともあって人がまばらな駅通り。

        
         突き当りを右折すれば新町商店街。

        
         外灯や店の構えなど正に昭和の商店街。

        
         ウエガキ薬局や隣の漬物屋「こうこう屋」さんは右書き看板


        
         旧豊後高田市の市章と蜘蛛の巣状がデザインされたマンホール蓋。

        
         「肉のかなおか」さん付近の町並み。

        
         1933(昭和8)年に旧共同野村銀行として建設されたが、その後、買収合併を経て、1
        993(平成5)年まで西日本銀行高田支店として使用された。現在はホテル清風別館の展示
        施設に活用されているが、2階建てに見えるが銀行に多い吹き抜け平屋建てで、2階壁面
        に沿って窓を開閉するための回廊が設けてある。

        
         野村財閥屋敷跡を挟んで擬洋風建物が並ぶが、右手の佐田屋さん
はこの町で最も古いお
        店だそうで、16
94(元禄7)年創業という。

        
         大正期から続く千島茶舗と手造りの店・和楽天。

        
         変則四叉路から桂川に至る道が中央商店街。 

        
         昭和の町展示館は、1933(昭和8)年築の大分合同銀行(現大分銀行)の建物で、木造平
        屋一部2階建てである。
         のち、高田信用組合(現大分県信用組合)が使用したが、2004(平成16)年に銀行業務
        を終えて展示館として活用されている。


        
         金庫も健在。

        
         旧中津信用金庫の建物。

        
         1915(大正4)年創業の亀屋呉服店は、1929(昭和4)年建築の木造3階建て店舗。

        
         1788(天明8)年創業の瓦屋呉服店は、明治期には珍しい瓦屋根だったことから、地元
        では「瓦屋さん」と呼んだことがそのまま店名となったという。(左隣は釘屋金物店)

        
         桂川橋袂にある煉瓦造2階建ての建物は、1921(大正10)年築の旧共立高田銀行だっ
        た。廃業後、様々に転用されたようで、現在はパン屋さんが入居されている。

        
         下駄と木製サンダルを履いた愛らしい像は、昭和の町のシンボルと思われる。

        
         桂橋の先は玉津商店街。

        
         商店街に入るとシャッターも目立つが、そば処の看板も目立つ。豊後高田は蕎麦の産地
        で、生産ー加工ー手打ちが同じ土地で行われているため、おいしい蕎麦が味わえるとのこ
        と。

        
         玉津プラチナ通りまでは観光客が来ないためか、ちょっと寂しい通りとなっている。

        
         通りに背を向ける北野神社は、室町期の大永年間(1521-1528)京都の北野天満宮から勧請
        されたという。

        
        
         高田城は1632(寛永9)年に入部した松平重直が、1639(寛永16)年(一説には入部
        後まもなく)幕府の許可を得て、当地を城地として高田藩が成立する。
         しかし、1645(正保2)年木付(杵築)に移封となり、この城は廃城となる。その後、島
        原藩領となったが飛地支配のため、旧本丸に陣屋が設けられた。

        
         桂川の右岸、周防灘に面する美和台地の舌状部に位置し、西方は10mほどの断崖、南
        方は桂川に臨む10~20mほどの崖、東と北は台地に接して堀や土塁で構成されている。
        堀は農業用ため池として活用されてきた。(跡地には桂陽小学校や公民館) 

        
         敷地内に「従是東南嶋原領」の石柱が立っているが、どこからか移設されたものと思わ
        れる。

        
        
         左手の計(はかり)屋醸造元は、カネオトの商標で知られる醤油・味噌の老舗で歴史を感じ
        る。

        
         昭和時代の宮町警察官立寄所。

        
         映画のポスターがあるので元映画館だったのだろうか。

        
         銭湯もそのまま残されている。

        
         飲食街を過ごしてバスターミナルに戻る。