この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
1889(明治22)年の町村制施行により、長洲村と金屋村が合併して長洲村が発足する。
のちに町制施行して長洲町、昭和の大合併で柳ケ浦町、和間村と合併して長洲町となるが、
1967(昭和42)年宇佐町、駅川町、四日市町と合併して宇佐市に移行する。
その長洲は中津平野の東部、駅館(やっかん)川の河口右岸に位置し、北は周防灘に面する。
地名は駅館川の本支流に挟まれ中洲であったことに起因するという。(歩行約4㎞)
豊後高田から大分交通四日市行き15分、長洲支所前バス停で下車する。
県道中津高田線を避けて裏道を歩く。
鳥居が見えたので立ち寄ると、長洲神社境内は長洲葵保育園と共用になっている。
賀茂大神宮、賀茂宮などと呼ばれ、地元では流れ勧請と伝えるが、賀茂皇大神宮由来に
よると、奈良期の731(天平3)年賀茂別雷神が住江に流れ着き、満潮時に現在の本殿があ
る中小路に着いたという。
当地の産土神として崇敬され、5月3~5日の執り行われる葵祭りは、江戸中期頃に豊
前国に疫病が流行、これを鎮めるため始まった祭りだそうで、山車が長洲の町を練り歩く。
神光寺の突当り左折すると天満宮。
もとは真言律宗だったそうだが、鎌倉期の1326(嘉暦元)年象山禅師の再興と伝える曹
洞宗の神光寺。
正面の壁に「賀久酒場」の文字入り鏝絵。
当地にはいろんな神社が存在するが、ここは八坂神社。
とよきん醤油付近の小路。
四ッ谷酒造がある通り。1919(大正8)年四ッ谷酒造場として四ッ谷兼八が創業する。
創業者の名前を商品名とした麦焼酎「兼八」を中心に焼酎造りをされている。
鳴海製麺工場付近の民家。
製麺工場の向い側に春日神社。この付近にもう一軒製麺工場もあるが、長洲麺の起こり
は江戸期とされ、宇佐平野の小麦と海岸沿いの塩、駅館川による水が潤沢だったことで製
麺作りが盛んになったという。
製麺工場から淡島神社への通り。
この地は、奈良期の740(天平12)年頃移住民の永住の地となり、小彦名命(薬学神)と
事代主神(海上・漁業の神)を勧請し、洲の小高き処(高杜)に祀った。鎌倉中期に比売大神
(宇佐神宮三女神)を合祀し、文久年間(1861-1864)に淡島神社と改称したという。
1789(寛政元)年創業の久保酒造は、もとは酒造業を長くされてきたようだが、現在は
麦焼酎「久保」をメインに焼酎造りをされている。
久保酒造の酒蔵を見ながら直進すると貴船神社。鳥居がないのでこの石柱が注連石だろ
う。
三角洲及び浜に家が密集していたため、火災は大惨事になることが多かったという。
1703(元禄16)年には寺社在家5~6軒を残す大火、1732(享保17)年には宮社3ヶ
所を残して全焼するという大火に見舞われている。
1868(明治元)年創業の小松酒造は、途中で製造を中止されたそうだが、2010(平成
22)年に製造を再開されている。白麹仕込みの純米酒「豊潤」という銘柄は、さっぱりと
切れの良い酒だそうだ。
小松酒造から豊前長洲駅と柳ヶ浦駅までは同距離にあると思えたが、長洲に来たので長
洲の名がある駅に戻ることにする。
鹿児島本線に長洲駅があるため、こちらは豊前長洲駅といい、1911(明治44)年に開
設された。
「ギャラリーのある無人駅」と銘打って、駅舎内にはいろんなものが展示されている。
島式ホーム1面2線を有する地上駅だが、跨線橋のみの乗車方法である。