ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇佐市四日市は東本願寺・西本願寺の別院がある地 

2022年09月11日 | 大分県

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
                 1889(明治22)年の町村制施行により、四日市村、吉松村など5ヶ村が合併して四日
        市村が発足する。のち町制に移行して四日市町となり、さらに昭和の大合併で近隣の7ヶ
        村を合併して四日市町を継続する。1967(昭和42)年に四日市町、宇佐町、長洲町、駅
        川町が合併して現在の宇佐市となる。
         四日市は駅館(やっかん)川と伊呂波(いろは)川に挟まれた平野部に位置し、地名は四の日に
        定期市が開かれたことに由来するといわれる。(歩行約2.6㎞)

        
         JR宇佐駅から四日市行きのバス約25分、東新町バス停で下車する。

        
         バスの進行方向へ進むと、「四日市門前町 豊前日向街道」の案内がある。 

        
         次の分岐は参道に入らず右の道を進む。

        
         浄土宗の法然が「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽に行くことができると説く。こ
        の教えをさらに進めたのが弟子の親鸞であり、浄土真宗の開祖とされる。
         第11世の顕如の時代は織田信長と敵対する戦国時代で、延暦寺(天台宗)に寺を破壊さ
        れ、越前に逃れた後に京都山科に戻ったものの日蓮宗に敗れ、大坂石山の地に要塞ともい
        える巨大な寺院を建立する。ここで「石山10年戦争」といわれる織田信長との戦いは、
        やがて劣勢に陥り、「信長に従うか、反抗するか」で内紛する。顕如は和睦を選択するが、
        長男の教如は抗戦を主張したため、顕如は長男を廃嫡し、三男を跡継ぎにする。
         のち、豊臣秀吉の時代に本願寺の再興が許され、京都堀川に建てられたのが西本願寺(本
        願寺派)で、徳川家康の時代になると本願寺の勢力を分断するために、教如上人に目を付け、
        西本願寺のすぐ近くの烏丸に寺地を寄進して東本願寺(真宗大谷派)を建立する。これによ
        り、本願寺教団は東西に分裂することになる。

        

         東本願寺四日市別院には、真勝寺(東本願寺の末寺)という寺があった。1737(元文2)
        年寺の住職が東本願寺から隠居を命じられるが、それを不服として末寺11ヶ寺と門信徒
        1,300人とともに西本願寺派に転宗しようとしたため大騒動となった(別院騒動)。寺
        は幕府に没収され、その後の裁定で東本願寺に下付されることになり、東本願寺の別院と
        して今日に至っている。

         訴訟に敗れた西本願寺改宗派は、宇佐市川部にあった正明寺をこの地に移転させ、西本
        願寺別院を発足させたという。


        

         現在の本堂は、幕府の工事許可は修理及び建て増しであったが、新築を強行し、185
        9(安政6)年に落慶法要が営まれた。(19間4面、正面29.5m、奥行き31.5m、高さ
        21m)

        
         東別院参道と交差する路地。

        
         真宗大谷派四日市別院は、この地域に勢力を有した渡辺氏が、中世末期に建立した真勝
        寺を前身とする。1744(延亨元)年に本山の別院となり、九州御坊と称し全九州の寺院7
        16ヶ寺を統括する。
         1865(慶応元)年に建てられた山門は、幕末動乱の際には兵火を逃れる。九州にある寺院
        の二重門としては最大の規模だそうだ。

        
         1825(文政8)年に再建された東別院の本堂は、二層屋根であったが幕末の動乱で焼失
        し、1880(明治13)年に再建された。

        
         勝福寺(真宗大谷派)は、東別院となる前の真勝寺の塔頭だったとされる。

        
         東別院の土塀筋。

        
         大乗院の階段下に行くと「鬼のミイラ」についての案内がある。名家の家宝として伝わ
        ったが、ある事情で手放すと、大乗院の檀家が購入したが原因不明の病に倒れた。鬼の祟
        りと考え同寺に安置したところ病が治ったという。ミイラは仏様として祀られており、見
        学は可能であった。

        
         左に西別院、右に東別院が並ぶ。

        
         市章とツツジがデザインされた宇佐市のマンホール蓋。

        
         旧日向街道から見る太鼓楼。 

        
         東別院前の旧日向街道を左折する。(左折後) 

        
         横町通りは石畳。

        
         江戸期には黒田氏、細川氏に続いて小笠原氏の領地であったが、その所領半分が召し上
        げになると、1700(元禄13)年この地に幕府の代官所(四日市陣屋)が置かれ、幕府天領
        として明治まで続いた。
         1868(明治元)年の御許騒動(討幕派の志士たちが陣屋を襲撃し、御許山に陣を構えた)
        で陣屋は焼失したが、この陣屋門は免れ、以後、宇佐郡役所、宇佐郡高等小学校、郡立農
        学校、県立四日市高等女学校、四日市高等学校へと変遷する中、それぞれの正門として使
        用されてきた。

        
         桜岡(さくらがおか)神社は室町期の1558(永禄元)年地頭職の渡辺氏が、旧居城だった肥
        前国鬼子嶽城から蛭子宮を遷座させたのが始まりという。市屋敷に祀られた後に細川氏の
        お茶屋跡に社殿が造営され、神社前に市を開いたのが「四日市」の起こりとされる。

        
         祭神は蛭子・稲荷・天神で、4月の稲荷祭りには子供神輿、9月の天神祭りには山車と
        神輿、12月のえびす祭りには御供物行列・神楽奉納されるという。(山車などの格納庫)
         四日市バス停よりJR宇佐駅に戻るが、往路はここまで乗車した方がベストだった。