この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
吉田は可愛(えの)川が南北に流れ、その支流多治比川が東南流して町の中心である吉田で
合流する。この両河川に沿って町が開けている。
1889(明治22)年町村制施行により、可愛・郷野・高原・丹比・吉田の5ヶ村が合併
して吉田村が発足する。のち、町制施行して吉田町になるが、昭和初に年分割して消滅す
る。昭和の大合併で新たな吉田町を経て。現在は高田郡の全6町が合併して安芸高田市と
なり、市役所は旧吉田町に設置されている。(歩行約6㎞)
JR向原駅からバス便があるものの便数が少なく、JR吉田口駅からだと6~7㎞ほど
歩かなければならない。JR横川駅(9:50)から広電バス広電吉田出張所行き1時間30分、
安芸高田市役所前バス停で下車する。
麓から眺める郡山(標高402m)
3本の矢羽根の上に、毛利元就の有名な逸話「百万一心」の文字、町の花木であった「
ツツジ」と「モクセイ」がデザインされたマンホール蓋。
「おはか道」の石碑を見て坂道に入る。
旧少年自然の家の敷地は、毛利元就の居館であった御里屋敷跡との伝承がある。
この敷地には1968(昭和43)年に廃校となった大江中学校があり、元就臨終に際し、
3本の矢の訓えを論じたという逸話にちなんで、1956(昭和31)年中学校生徒会の手で
碑が建立された。
長男の隆元は元就よりも先に亡くなっているので史実ではないが、子供たちに向けて書
いた「三子訓戒状」が元ネタのようで、子供たちの結束を大事に考えていたのは事実であ
る。
敷地内の一段上に毛利元就の像。
道を隔てて左側の「青教吉師の跡」の碑は、この地に広島県青年学校教員養成所があり、
卒業生が当時を偲んで建立したとされる。
大通院谷川(内堀?)の橋を渡ると、毛利元就火葬場跡とされる地がある。元就は157
1(元亀2)年6月14日御里屋敷において、75年の波乱人生を閉じた。遺骸は翌15日に
大通院に移され、戒名を洞春寺殿日頼洞春大居士とし、初七日の法会を営んだ後、この火
葬場で荼毘に付されたという。
大通院谷公園から眺める吉田の町並み。
公園の上部に毛利輝元墓所への案内を見て石階段を上がる。
毛利隆元(元就の長子)は、1563(永禄6)年九州の大友氏との和議が整い、帰陣して尼
子氏との戦いに援軍として向かう途中、佐々部(安芸高田市高宮)にて急死する。(41歳)
翌年には菩提寺の常栄寺が建立されたが、関ケ原の戦い後に毛利氏が長州に移封させら
れると、山口にあった国清寺(大内盛見の菩提寺)を常栄寺とした。隆元の急死後、元就は
孫の輝元を後見とする。
隆元の墓所から引き返すと、正面に元就墓所への参道がある。
鳥居の左手辺りに洞春寺があったとされるが、1573(天正元)年元就の三回忌にあたり、
孫の輝元が菩提寺として創建した。輝元の広島移城の際に広島城下へ移り、毛利氏防長二
州に移封されると山口へ移転、さらに萩城下に移されたが、1869(明治2)年再び山口に
戻された。
石段を上がって行くと右手に「毛利一族墓所」があるが、1869(明治2)年郡山城内や
城下にあったものを、この洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものである。
左側に3基の墳墓が並ぶが、左から毛利興元(元就の兄)、中央に興元の子・幸松丸、右
に隆元の正室・尾崎局(大内氏の重臣内藤興盛の三女)と、一角の右側には郡山城初代城主
毛利時親から八代豊元までの合墓である。
「百万一心礎石」の由来によると、この文字を分解すれば、一日・一力・一心となるが、
日を一にし、力を一にし、心を一にして事にあたれば何事も成し得るという共同一致の精
神を示すものとされる。
郡山城の搦め手に設けられた毛利元就の墓標には「はりいぶき」が植えられている。
「本丸800m」「しろあとのぼり口」の道標に従うと、右手の苔生した宝篋印塔は、
元就葬儀の導師で洞春寺開山の嘯岳(しょうがく)禅師の墓とされる。師は1599(慶長4)年
10月に没するが、この墓は1788(天明8)年山口の洞春寺によって建立された。
遊歩道には距離標もあって歩きやすいが、木々の生長で展望を得ることはできない。
やがて二の丸下の御蔵屋敷跡に上がる。城内の要所にあることから当主に近い家臣屋敷
跡と考えられるとか。
釣井の壇は御蔵屋敷より1段下った本丸の西にあり、現在は枯れて水はないが、深さ4
m、直径1.5mの石組みの井戸が残っている。
二の丸跡。
1523(大永3)年に宗家の郡山城を相続した元就は、郡山の南東にあった城(本城)を郡
山全山に拡張する。本丸に城主の屋敷があったと思われ、北側の山頂部には櫓台が設けら
れた。
清神社への道を下ると右手に勢溜の壇があるが、御蔵屋敷の下段を堀切(人工的な堀)で
区画した大小10段からなる郭群で、軍勢が集い出陣を待つ場所とされる。
下って行くと満願寺跡分岐。由緒は不詳とのことだが奈良期の740(天平12)年行基菩
薩が当地を訪ね、郡山に寺を建立したと伝える。この寺も毛利氏の移動を共にし、広島城
下、萩城内に移転、現在は山口県防府市にある。(寺跡は訪ねず)
隆元の居所だったとされる尾崎丸跡入口を過ごすと、カメラスポットの案内があるので
立ち寄ると、吉田の町並みが一望できる。
本丸まで600mの道標からの上りは階段状であり、上りも大変だが下りも膝に負担が
増す。
市街地を見下ろす展望台には、布で毛利家の家紋が掲示されている。
大師堂と88体の石仏。
1915(大正4)年興禅寺跡(臨済宗)を郡山公園として整備されたもので、寺は毛利氏が
広島に開府したのに伴い、城下の竹屋村(現広島市中区)に移ったが、その後も江戸期を通
じて広島に留まった。
清(すが)神社は郡山城築城以前から存在し、祇園社と称していたという。
変則交差点を直進すると徳栄寺筋。寺(真宗)は三上土佐守の次男が各地の合戦で殊功を
あげていたが、足を負傷したことで出家を志す。のちに光明坊と称す一寺を開基したのが
始まりとする。
安芸高田署を右折すると、可部と三次を結ぶ約46㎞の雲石街道筋である。
商店が立ち並んでいたと思われるが、シャッターやカーテンで閉じられている。
路地奥の福泉坊(真宗)は、平安期の長元年中(1028-1037)天台宗の寺として創建されたが、
兵火に遭い甲立郷(甲田町)に再建された。
室町期の1532(天文元)年に覚正(俗称村上氏)が、吉田村内に寺を移して真宗に改め、
のちに毛利氏の広島移城・防長二州への移封などがあったが、吉田に帰り現在地に寺を建
立したとされる。
いろは旅館は江戸末期の創業とされ、道に面した建物の一部は築300年を経ていると
いう。街道はここで右折して多治比川へ向かう。
右折する角には「土生玄碩(はぶげんせき)生家」の看板と、歴史を感じる建物がある。玄
碩は代々医家の家に生まれ,大坂などで外科や内科を学んだ後、帰郷して開業する。18
03(文化5)年広島藩の藩医となり、江戸において藩主の6女(南部利敬の正室)の眼病を治
療して名声をあげる。
1810(文化7)年幕府の奥医師となったが、シーボルトから瞳孔を広げる薬を貰い、お
礼として将軍拝領の紋服を与えたことが発覚して財産没収・禁固となるが、後に赦免され
る。
袖卯建も現存する。
新旧2つの看板と袖卯建がある商家。
これも看板建築の一種だろう。
街道沿いの一角に商業の神である恵美須社が祀られているが、由緒によると広島市中区
胡町にある蛭子神社は当社を移したものされるが、現在もこの地にある経緯は不明とのこ
と。
見飽けることのない建物が続く。
多治比川に架かる稲田橋で引き返し、恵美須社の角を左折して高林坊前の通りからバス
停に戻る。
高林坊(真宗)は、室町期の天文年中(1532-1555)高田原(旧甲田町)に創立されたが、吉田
にも当寺を開基して同号を用いた。本寺との紛争を経て独立したという歴史を持つ。