この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
三次(みよし)は標高170mの比熊山南麓に、東・西・南の三方を川に囲まれ舌状に張り
出す沖積平地に立地する。
地名の由来について諸説あるようだが、「水(み)」と古代朝鮮語の「村(すき)」が合わ
さって「みすき」となり、のちに「みよし」に転訛したという説が有力である。(歩行約
4㎞)
JR三次駅からくるるんバスで約15分、三次もののけミュージアムバス停で下車する。
(正面がミュージアム)
ミュージアム傍に86(ハチロク)の愛称で親しまれた機関車が展示されている。Cとか
Dなどのアルファベットをつける以前の機関車で、機関車は作った順に番号が付けられて
おり、この型の機関車第1号は8620で、下2桁を20から始め、99に達すると次は
「86」の前に1を繰り上げて再び20から始める80進法の付番法である。
ちなみに当機関車は「48650」であるので、4×80と末2桁が50なので合わせ、
それに1を加えたものが製造順(371番目)となる。1821(大正10)年に製造されて日
本各地を走り続け、1965(昭和40)年山口県小郡機関区から三次機関区に配属され、1
971(昭和46)年その役目を終えた。
比熊山の南麓にある鳳源寺(臨済宗)は、1633(寛永10)年中世の領主・三吉氏の居館
跡に、三次藩祖である浅野長治が先祖の菩提を弔うため当寺を創建する。
境内には阿久利姫の輿入れの際、三次に迎えに来た赤穂藩・大石義雄手植えの桜、神道
碑、本堂裏には愚極泉という池がある。
浅野長治の五女・阿久利は、幕府から赤穂藩主浅野内匠頭長矩との縁組が許可され、7
歳の時に江戸三次藩下屋敷に入り、14歳で長矩の許に嫁いだ。
1701(元禄14)年松の廊下における刃傷事件で長矩が切腹した後、剃髪して瑶泉院(よ
うぜんいん)と称し、三次藩江戸屋敷に引き取られる。生涯をかけて長矩と義士の菩提を弔う
一方、義士の遺族に心を砕き、その処遇に尽力したという。
45歳で没した後、夫が眠る泉岳寺に葬られ、遺髪はふるさと三次に持ち帰られ、遺髪
塔に葬られた。
吉祥院(真言宗)は平安期の834(承和元)年、弘法大師の勅命を受け秦氏の支援により開
基した寺で、三次町では一番古い寺とされる。その後、3度の戦禍で焼失し、4度目の本
堂は、1939(昭和14)年建て替えのため、仮本堂に移されたところで第二次世界大戦に
入り、戦後は財閥解体のため再建叶わず現在も仮本堂のままという。江戸期には浅野家の
祈祷寺院であったという。
妙栄寺(日蓮宗)の縁起によると、1648(慶安元)年三次藩主・浅野長治が、母・寿正院
の菩提供養のため創建した。その後、2度にわたる火災で焼失したが、浅野家の保護で復
興したとある。
稲生武太夫(1735-1803)は三次藩士の子で、16歳の時友人と肝試しに真夜中の比熊山に
登ったところ、平太郎(幼名)のもとへ毎晩のようにお化けが姿を変えて脅かしたが、少し
もひるまず三界の魔王も降参したという。
この物語は文学作品や絵巻物となって伝えられ、日本の代表的な妖怪物語の1つとなっ
ている。
臨済宗の西江(せいごう)寺は、もと天台宗で日叡尾山の麓にあったと伝え、中世、この地
方の領主・三吉氏が菩提寺として再建し高源寺と称した。1533(天文2)年山陰の尼子氏
に攻められた際、兵火に遭うが、のち三吉氏が比熊山城に入城したとき、寺も城内に移転
した。
福島正則の時代に当地方を支配した尾関正勝は、高源寺を菩提寺として現寺号に改め、尾
関山城近くの現在地に移したという。
卯建が似合う町の看板を見て石畳通りに入る。
風物詩「鵜飼」と市の花である花桜がデザインされたマンホール蓋。
行燈には「もののけ」の絵柄。
この敷地は「万寿乃井」の銘柄で明治初期から130年余り営み、2003(平成15)年
に幕を下ろした酒造蔵跡である。かってここに9棟の酒造蔵が建っていたが、この仕込み
蔵は明治前期に建てられ、昭和前期に増改築されもので桁行31m、梁間9.8mと長大な
蔵である。(説明板より)
竈(かまど)には地蔵尊が祀られており、右手にある高さ18mの煙突と竈が繋がっていた。
右手は茶房と宿泊施設、見える山が比熊山で、1591(天正19)年三吉広高が当山の東
方4㎞の地にあった比叡尾山城を比熊山城に移した。当初の山名は日隈山の字を当ててい
たが、日を比叡尾の比とし、山の形が熊の寝る姿に似ることから隈を熊に改めたという。
三次町は山陰と山陽を結ぶ交通の要地であり、広島城下からの雲石街道は現在の国道5
4号線とされ、街角に高さ110㎝の石柱道標がある。
しかし、ここは街道の分岐点ではなかったようで、示された方向の行先も当てはまらな
いという。他に尾道からほぼ現在の国道184号線沿いに三次に達する石見路(赤名越)、
三次からまっすぐ北に延びる雲伯路、庄原・東城を経て備中へ延びる備中新見路があった
とされる。
薬局前の道が尾関山・鳳源寺方面の道で、商家に袖卯建が見られるようになる。
屋号の入った袖卯建が並ぶ。
雲石街道筋であったため敵の侵入を防ぐ策として、カギ型道路(桝形)が2ヶ所設けられ
ており、ここは北からの侵入を防ぐもので、南の本通り南端にも設けられている。これは
三次小学校の北側辺りに、藩主の居館があったことによるものと思われる。
カギ型となった箇所にある三勝寺(浄土宗)は、天文年間(1532-1555)に松尾長門守三勝が
一族の菩提寺として創建する。その後、三次町に移転し、三次藩初代藩主・浅野長治が現
在地に再移転させて今日に至るとされる。
袖卯建はないが街路灯と犬矢来、「木綿兎(もめんと)」の看板が目を引くが、人形作家・
辻村寿三郎さんの工房とのこと。
袖卯建の町家が並ぶ先で上市・栄町通りから本通りに入る。
左右の建物に挟まれて窮屈そうにみえるのがえびす神社。由緒等がないので詳細は知り
得なかった。
専法寺(真宗)は室町期の永正年中(1504-1521)頃に創建された真言宗の寺であったが、の
ちに浄土真宗に改宗したというが、創建時は別の場所だったようだ。それにしても寺の多
い町で、すべての宗派が集まっているようにも思える。
万光小路の先に櫓のような三階建ての建物があり、所有者にお聞きすると、3畳半程度
と狭いが急階段を上がれば三次町が一望できるとのこと。
ちなみに小路は、三次藩居館の北東に浅野家の祈祷所として建てられた万光院観音寺へ
の参道であったという。廃寺となった後もその名が残されたという。
本通り(約1.4㎞)の町並み。
白蘭酒造は1904(明治37)年吉舎町で吉舎酒造として創業、1918(大正7)年に三次
に進出し、のち現社名に変更されたとか。カーテンは閉じられ人の気配が感じられないの
で廃業されたと思われる。
通りを1つ過ごすと、旧広島銀行三次支店の建物がある。1924(大正13)年広島県農
工銀行三次支店として建てられたルネサンス様式の洋風建物で、のち日本勧業銀行三次支
店となる。1950(昭和25)年から55年もの長い間、広島銀行の支店として使用された。
江戸期にはこの場所に堺屋という商家があり、「御客屋」として幕府の要人や藩主の休
憩・宿泊所を担う本陣であった。
町並み整備事業が行われたようで、2008年に訪れた時よりも様変わりしていた。
三次人形は美しい光沢が特徴で、現代でも節句人形として愛用されているようで、旧暦
の3月3日の初節句に男子・女子ともに人形を贈る風習があるとか。
1927(昭和2)年旧三次銀行本店として建てられたもので、洋風石積み建築を模した造
りとなっている。のち建物は芸備銀行中町支店となり、1951(昭和26)年から1977
(昭和52)年までは三次郵便局として利用される。さらに市歴史民俗資料館を経て、現在は
辻村寿三郎人形館となっている。
袖卯建と正面の鬼瓦に「正」の字が見られるが、民族美術館とされる建物のようだ。
本卯建のある建物と鍵型となった道路、その先に赤い巴橋が見える。
浅田薬店だった2階には大看板と袖卯建には「て」の文字が残る。1720(享保5)年三
次藩が広島本藩に合併され、1758(宝暦8)年には家臣団も広島城下に引き揚げると、城
下町から宿場町・在郷町となる。
照林坊(浄土真宗)の山門、本堂、鐘撞堂など8点が国有形文化財に指定されている。
住吉神社は西城川が馬洗川に合流する地の西岸に位置する。三次から高田郡吉田(現安芸
高田市吉田)へ通う川船が、三次勘定奉行支配から町方に払い下げになると、1758(宝暦
8)年川船の持主たちが摂津国の住吉神社より勧請したとされる。寺戸の福谷山麓に祀った
が、1814(文化11)年に現在地に遷座する。
くるるんバス巴橋バス停に赴くと、待ち時間が長いので距離にして1.1㎞程度なので駅
まで歩く。