ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊浦町の川棚は温泉と種田山頭火

2021年09月01日 | 山口県下関市

        
                         この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         川棚は狗留孫山の南麓より発し、日本海に注ぐ川棚川とその支流域及び沖積低地に立地
        する。平野の中央を南北にJR山陰本線と国道191号が並行して走る。
         地名の由来は、川棚河口で毎年6~7月に市が設けられ,両岸の茶屋が川の中に棚をか
        け、涼を求めたことから付けられたという。(歩行約6.4km) 

        
        
         JR川棚温泉駅は、1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業。温泉町の玄関口らしい
        木造駅舎だったが、2002(平成14)年コミュニティプラザと駅舎の複合施設として建て
        替えられた。(下段は旧駅舎)

        
         駅前からほぼ直線的に延びる道は、かって鉄道路線(温泉鉄道)として計画されたようだ
        が未完に終わり、その鉄道跡が青龍街道に転用された。(鉄道とバス時間はマッチせず) 

        
         青龍街道(駅~温泉)にあるマンホール蓋は、川棚温泉の守護神「青龍」がデザインされ
        ている。
         かって大きな沼地だった川棚に棲んでいた青龍が亡くなった際、住民が手厚く祀るとお
        湯が湧き出したという青龍伝説が残されている。

        
         毛利侯御殿湯街道と銘打った道。

        
        
         玉椿旅館は、1923(大正12)年十両力士だった山口県出身の玉椿関が引退後に創業し
        た旅館。

        

         川棚温泉縁起によると、再びこの地で日照りと疫病が襲いかかり、三恵寺の怡雲(いうん)
        和尚が祈り続けると、枕元に薬師如来が現れ、人々の病気を治した温泉の物語を告げる。

        温泉を掘り起こすことを決意し、薬師如来の霊告のとおり、再び温泉が湧き出て、湯を浴
        びた人々の病気が治癒したという。
二度と温泉が枯れないようにと村の守護神として湯明
        神を祀る。

         傍の狗留孫山献燈は、1849(嘉永2)年参詣道に建立されたもので、川棚温泉に宿泊し
        て参詣する人が多かったといわれている。

        
         旅館竹園と旅館小天狗の旅館街筋。

        
         狗留孫山八十八ヶ所5番札所の本尊は勝軍地蔵菩薩。

        
         温泉街の周辺部に民家。

        
         妙青寺の大きな鐘楼が見えてくる。1932(昭和7)年6月3日種田山頭火は寺に拝登し、
        お寺の土地借入と草庵建立を長老に懇願する。

        
         妙青寺(みょうせいじ)の寺伝によると、室町期の1416(応永23)年大内持世の弟・持盛
        が、叔父の盛見の菩提寺として創建し、法名をとって国清寺(臨済宗)と称した。
         その後、大内義隆の旧臣であった杉蓮緒が、義隆の菩提を弔うために修理し、曹洞宗に
        改め寺号を瑞雲寺とする。
         1604(慶長9)年長府藩主・毛利秀元が実姉の菩提寺とし、法名から現寺号に改称され
        た。

        
         本堂は間口9間の大きな建物で、「大慈宝殿」の扁額が掲げられている。

        
         種田山頭火は自らの体を休め、いずれ命を終えるための安住の地を求めて、嬉野温泉を
        発って唐津、小倉を経て川棚温泉に辿り着いたのは1932(昭和7)年5月24日だった。
        川棚温泉の地が気に入って、ここを終(つい)の棲家にしようとしたが、地元の人々が受け入
        れに難色を示したため、川棚での造庵は夢に終わり、100日間滞在した川棚を後にして
        いる。
             「湧いてあふれる中にねてゐる」は6月20日の行乞記に記載。

        
         本堂裏に池泉回遊式庭園があり、池の中に弁天堂が祀られている。水墨画家で禅僧の雪
        舟作とされ、池は「心」の形をしているという。

        
         裏山にある竜福稲荷。

        
         稲荷社より松尾神社までの山道は整備されている。

        
         松尾神社の由緒によると、天正年間(1573-1592)この地の守護神として、京都右京区にあ
        る松尾神社より勧請する。現在の社殿は1660(万治3)年に再建されたもので、当時、こ
        の地は疫病が大流行し、当社に祈願したところ疫病が平定したとされる。

        
         参道を下ってくると川棚温泉交流センター「川棚の杜」。

        
         交流センターから三恵寺(さんねじ)までは約1.6kmの上り坂だが、
山頭火も歩いた道と
        される。途中の駐車場には寺まで約70mの案内があり、その先に石段が見えてくる。

        
         種田山頭火行乞記(二)の5月24日には、「土地はよろしいが、温泉はよくない、人間
        もよくないらしい。妙青寺(曹洞宗)拝登、荒廃々々、三恵寺拝登(真言宗)、子供が三人遊
        んでゐた、房守(坊守)さんの声も聞える、山寺としてはいゝところだがー」とある。

        
        
             
         本堂左側に五百羅漢の石仏が、いろんな表情で並んでいる。

        
         川棚温泉バス停まで戻って、15時50分のサンデンバス下関行きに乗車する。


下関市豊浦町の小串は長州鉄道の終着駅だった地 

2021年09月01日 | 山口県下関市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         小串(こぐし)は響灘に面し、豊浦山地の北峰・狗留孫山から海岸に雁行する丘陵に挟まれ
        た地に位置し、その間を流れて海に注ぐ堂道川・稲荷川の沖積低地に立地する。
         地名は小牛を産したためこれが転嫁したとも、岬を串と称することから小串ともいう。
        (歩行約4.5km) 

        
         JR小串駅が終点で折り返し運転される便だった。(9:44)

        
         JR小串駅は、1914(大正3)年4月東下関(現下関南高校付近)から私鉄の長州鉄道と
        して開通した当時の終着駅。1930(昭和5)年頃に建てられた駅舎は、マンサード屋根に
        白亜の木造駅舎である。

        
         赤間関街道北浦道筋を北から歩くため、旧山口銀行小串支店前を左折して海岸線に出る。

        
         小串漁港は第2種漁港で、利用範囲が第1種(地元の漁業を主とする)より広く、第3種
        (全国的なもの)に属さないものとされる。

        
         海岸線側の通り。

        
         山口県漁協小串支店と小串漁業用海岸局の看板がある建物がある。漁業用海岸局とは、
        対漁船通信を目的として海岸に設置された地上無線局で、海域で操業する漁船の安全を確
        保するための情報が提供されている。


        
         漁港側の向かい側に大きな蔵。

        
        
         花崗岩の岩礁に石垣が築かれた小島神社。

        
         境内より小串漁港。

        
         旧豊浦町のマンホール蓋は、リフレッシュパーク豊浦に咲くコスモスが描かれている。

        
        
         大きな蔵が並ぶ。

        
         耕雲寺(曹洞宗)は、1600(慶長5)年大内氏の家臣・杉肥後守十良の祖母(法名・耕雲
        院殿)のため一宇を建立。1789(寛政元)年功山寺の尽力により現寺号に改称する。

        
         耕雲寺の総鎮守である金比羅大権現は、1746(延亨3)年お告げに従い、霊石を山上に
        安置したのが始まりとされる。
         その後、漁業関係者などから船中海上での安全を守護として崇敬されてきた。本尊は1
        2年毎に開帳されている。

        
         堂道川右岸を進むと赤間関街道北浦道筋に出会う。

        
         小串浦は藩政時代から漁業者とともに諸職人が多く、商業発展の素地が備わり、道筋に
        は職人や商家の家が並び、浦の幹線道であったようだ。

        
         妻入り民家と付属屋の屋根はあまり目にしない構造である。(煙り出し用?)

        
         海に通じる小路が幾重にも見られる。

        
         1つ目の大きな四差路。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、近世からの区域をもって小串村を形成し、19
        25(大正14)年小串町に移行する。1956(昭和31)年豊浦町に編入されるまで町役場が
        あった地。

        
         
町役場があった山手側に安楽寺(真宗)がある。大内氏の臣・井上藤左衛門正治が仏門に
        入り、川棚松谷に草庵を結んだのが室町中期の1449年であった。
         明治初期に本堂を再建する際して、小串門徒の要請に応じて、1910(明治43)年現在
        地に移転する。

        
         小串郵便局前には元醤油屋さんの煙突が残る。

        
         ほぼ直線的な道筋。

        
         2つ目の大きな四差路に山口銀行小串支店があったが、2008(平成20)年12月中旬
        頃に閉鎖された。町の中心的存在だったものが1つ1つ消え去ると、小さな町がさらに小
        さな町となって活気が失われてゆく。

        
         海岸線から川中神社へは、途中に山陰本線(秋葉踏切)と国道を横断しなければならない。
        海から見えるため北前船などは船上から航海安全を祈ったと伝える。

        
         川中神社は、1771(明和8)年紀伊熊野の新宮権現を勧請し、新宮大権現と称していた
        が、1882(文政5)年現在地に遷座する。明治になって川中神社に改め、1917(大正6)
        年に本殿が改築されたが、神職は常駐していないとのこと。 

        
        
         四差路に戻って南進すると稲荷川にかかる稲荷橋。

        
         狗留孫山八十八ヶ所札所のようだが何番かは不明。「ありがたや 高野の山の岩か
        げに 大師はいまも おはしまします」とある。

        
         光圀稲荷神社の石段は、65段と段数は大したことはないが、かなり急でスロープが設
        けてある。

        
         もともとは平安期に疫病が流行し、熊野新宮権現を勧請して祀っていたが、江戸期に新
        宮川上流へ移転する。
         その後、「薮神様」として祀ってきたが、1913(大正2)年伏見稲荷大社より勧請して
        現社名になったという。石祠と朱塗りの小社が存在するが、鳥居は石祠の方へ設置されて
        いる。

        
         境内から見る小串の町並み。

        
         稲荷山山頂に上がると、響灘沖合2kmに男島(左)、女島と2つの小さな島が浮かぶ。

        
         南の海岸線に山口県済生会豊浦病院があるが、1944(昭和19)年広島陸軍第一病院小
        串転地療養所として発足する。
戦後は国立山口病院と名称変更し、2000(平成12)年に
        当時の豊浦町に経営移譲する。済生会豊浦町立病院などの変遷を経て現在の病院名となっ
        た。

        
         北に小串漁港。

        
         海軍記念文庫なる建物があったが、手掛かりになるような表示もなく、地元の方にお会
        いできず通り過ごす。

        
         「はまぐち」の看板建築を見ると、その先がJR小串駅。