この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
新別名(しんべつみょう)・河原(かわら)は、掛淵川河口左岸及び同支流・大坊川流域に位置
する。この流域の沖積平野に耕地が開け集落が散在し、域内を東西に国道191号、JR
山陰本線が走る。
1889(明治22)年町村制施行により久富村、新別名村、河原村、伊上村が合併し、各
旧村の一字をとって菱海(ひしかい)村となる。(歩行約7.7km)
JR人丸駅は、1930(昭和5)年長門古市駅ー阿川駅間延伸時に開業する。単式・島式
の2面3線を持つ交換可能な地上駅。駅舎前には「元乃隅稲荷神社」玄関口を示す赤鳥居
が設置されている。(10:13長門市駅より)
駅前通りを左折して長門方面へ直進する。
久富八幡宮は「防長寺社由来」によると、勧請年代はわからないが永禄年中(1558-1570)
に社を造立したと棟札にあったと記す。風土注進案は、室町期の1479(文明11)年宇佐
神宮より勧請したと伝えられると記す。
境内に薬師如来が祀られ、石祠には天明四甲辰六月(1784)と刻字されている。長く放置
されていたようだが、1993(平成5)年に各位の寄進により修復された。
神社前から街道に出ると左手に、1879(明治12)年に開校した啓廸(けいてき)小学校
(創立時は久富小学校)があったという。1961(昭和36)年に廃校となり、跡地は町営住
宅、グランドは稲石農村公園となった。
街道を引き返すと門を構えた平入りの民家と、その奥にある浄泉寺(真宗)は、1634
(寛永11)年に寺号が免許され、1701(元禄14)年現在地に移転する。
長安寺(浄土宗)のある地には、往古、真言宗の人丸寺があり、人丸社の社坊であった。
天正年中(1573-1592)浄土宗に改め、大願寺と称して人丸社を兼務した。
1871(明治4)年の神仏分離・廃仏毀釈の風潮の中で、当時の住職は大願寺を廃し、人
丸社専任の神職となる。
一方、大願寺の末寺・長安寺が伊上にあったが、本寺の廃寺と共に、一応廃寺となった
が、檀家の人たちの復興の願いによって、本寺跡に長安寺として復興された経緯を持つ。
1907(明治40)年新別名八幡宮と人丸神社が合祀されて八幡人丸神社と称する。
神社下に大きな民家が並ぶ。(Ⅿ家と空家)
街道は右手の道(下の写真は左)だが、途中で消滅しているため掛淵川土手までは別ルー
トを歩く。
国道を横断して中心部へ入って行く。
油谷郵便局前の四差路を右折して、山陰本線新別名踏切を横断する。
次の三差路で街道と合わし、掛淵川左岸を西進する。
土手は桜並木となっているが見るべきものはない。
川と線路の間は田園地帯で、近世、この一帯は農地もしくは沼地であり、街道が迂回し
たものと思われる。(左手にJR人丸駅)
溜池を思わすような掛淵川の先に蔵小田集落と雨乞岳。
大坊川に架かる見返橋を渡り、左岸を川上に進むとJR大坊踏切。
街道は大坊橋前で右折して西下すると、この一帯の中心だった河原集落。
電気屋さんの真向かいに猿田彦と三体地蔵尊。その傍には悪霊除けの御幣が立てられて
いる。
萩と赤間関を結ぶ赤間関街道には3つの往還道があり、萩から秋吉宿を経る中道筋、深
川~俵山~小月に至る北道筋、日本海の海岸沿いに約24里余の北浦道筋があった。この
北浦道筋は3路線の中で行程が最も長かったため、萩と赤間関を結ぶ交通に利用されるこ
とは少なかった。
しかし、毛利一門・阿川毛利氏の陣屋まで行くには、この道筋を通らなければならなか
った。
街道筋の民家は更新されて見るべきものは残されていないが、地蔵尊など石仏が往時の
名残をとどめている。ここには庚申塔、安政7年(1860)と刻まれた三界萬霊塔、右に地蔵
尊が祀られている。
少し右にカーブする地点に三体地蔵が鎮座する。三体地蔵の由来はわからないが、病気
平癒の時、頭巾腹掛けなどを布で作り、地蔵の体に取り付けてお願い果たしをするそうだ。
工場跡なのか煙突と思しきものに蔓が巻き、緑の十字架を思わせる。
菱海村役場跡には現在、河原公民館と河原消防団ポンプ庫が建っている。やがて街道は
国道191号と合流するが、その手前に庚申塔。
江戸期には菱海中学校グラウンド内に、現在の油谷町、日置町と豊北町の一部を統括す
る先大津宰判の勘場があり、その横に本陣であった久保本家の屋敷があったという。
河原八幡宮は久安年中(1145-1150)宇佐神宮より勧請。ご神体を乗せた船が河原浦の笠岩
で着岸し、亀山に鎮座していたが、室町期の1490(延徳2)年現在地へ移転する。
久保家は藩政初期より日置下村に在住して町野姓を名乗り、代々庄屋・大庄屋を勤めて
いた。1826(文政9)年に河原に移住して久保姓を名乗り、ここでも大庄屋などを務める。
現在の住宅は、1890(明治23)年の設計図が残っているとのことで、その頃の建築と思
われる。(当日は工事中であった)
大坊橋まで戻って旧道を人丸駅へ向かう。
橋から駅までは見るべきものはなかった。
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
粟野(あわの)は豊北町の北東部に位置し、北は油谷湾に面している。中央を粟野川が流れ、
沖積性の平野が開ける。
地名の由来は、往古、粟・稗を第一に作り、広野もあることから名付けられたとしてい
るが、青野と記したものもあるという。(歩行 約7.5km)
JR長門粟野駅は、1930(昭和5)年長門古市駅と阿川駅間延伸時に開業。島式ホーム
1面1線の地上駅。(13:32人丸駅より移動)
駅前はJAの建物ほか元商店らしき建物が線路に沿う。
三差路を左折すると赤間関街道北浦道筋。
路傍に地蔵尊が祀られているが詳細不明。
この集落もほとんどの家屋が更新されている。
右手に「汗かき地蔵」と呼ばれる高さ約1.3mの地蔵尊がある。1879(明治12)年
の大火で焼失したが再建され、言い伝えによると、1937(昭和12)年7月地蔵尊がした
たるほど汗をかいたので、村の人たちは危機が訪れたのではと不安にかられた。火災では
なく日中戦争の始まりだったという。
右手に金比羅社の鳥居。
細い路地を進むと浦第二踏切(警報機や遮断機のない第4種踏切)があり、横断すると右
手に長い急階段がある。造った人も参拝する人もこの参道のみで大変であっただろう。
漁業や航海の守護神である金毘羅宮。
参道から見る油谷湾と家並み。
民家が続く。
この先街道は線路を横断して山手に入るため、ここで引き返す。
河口に開けた粟野港は入口が狭く、風待ち港として海運業に適していた。江戸期には長
府藩の御用蔵もあって年貢米や薪炭などの輸送基地となる。
出発地の三差路に戻り、粟野踏切を渡って街道を南下する。
駅構内は島式ホームの駅舎側線路が取り除かれている。この先、街道は豊北病院付近で
三辻となり、殿様専用の高瀬舟を使用した舟橋渡しの道と、一般の人達の舟渡場道に分か
れていたようだ。
一般人の舟渡場道は、がにあぶら・おそのや堤土手の道から対岸の渡場に下るが、堤沿
いの道に庚申塔が残るという。
粟野橋を渡ると街道は、滝部~二見を経る道と、阿川を経る海岸線の道とに分かれてい
た。(滝部道を進む)
県道粟野二見線を南下すると、正面に白滝山の風力発電用風車が見えてくる。
粟野は田耕とともに長府藩に属し、米、薪炭、竹材を移出していたが、廻船または川舟
が入れるよう運河を造った。道路の改修で一部だけ残っているとされるが見落とす。
神社の多くは参道を上がることになるが、粟野八幡宮は道路敷が高くなったなったよう
で下った場所にある。
粟野八幡宮は室町期の1492(明応元)年創建と伝えるが、室町後期と1824(文政7)年
の火災で由緒等を焼失している。
昌泉寺(浄土宗)は古文書によると、粟野小迫に曹洞宗「瑞光寺」という寺が破壊してい
たので、1679(延宝7)年頃単信という浄土宗の道心者が小庵を建てた。
粟野には他に寺はなく参詣に難儀をしていたので、この小庵を寺にしていただきたいと
百姓衆が願い出て、1699(元禄12)年許可された。その際に現寺号に改称する。
1874(明治7)年に開校した粟野小学校は、146年の歴史を持つ学校であったが、2
020(令和2)年少子化による学校の再編統合で役目を終える。
小迫から粟野川右岸に移動すると、「椿道」と銘打った道になっている。すでに開花時
期を終えているので感じ取れないが、多くのヤブ椿が現存するのであろう。
粟野川の往来は舟渡しであったが、両岸の住民は不自由を感じ土橋が架けられたが、幾
たびかの水害で流された。その都度、復旧し再構築されたという歴史を持ち、今でもその
跡が残されている。
また、春の粟野川では風物詩「粟野川青海苔採り」が行われる。
堤防の片隅に碑があるが、風化して刻字を読み取ることはできないが、舟渡しのことか
土橋時代の度重なる流失に関するものかわからないが、この地にドラマがあったことは確
かだ。
再び粟野橋の袂に出て、JR長門粟野駅に引き返す。(16:29長門市行きに乗車)