この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
大嶺(おおみね)は四方を山に囲まれ、厚狭川の上流域に開けた大嶺盆地に位置する。地名
の由来は、国行村の彦山という岩山に山伏が「大峰入り」と称して群がり来たことから起
こったという。(歩行約6.3km)
JR重安駅は、1916(大正5)年美祢軽便鉄道が現南大嶺駅から当駅まで開業。後に国
有化により美祢線に改称され、石灰石を輸送するための積込み施設があったが撤去された。
島式ホームの列車交換可能駅である。(10:55下車)
重安の町並みに沿って重安小学校付近まで歩く。
今年3月に144年の歴史を閉じた重安小学校。
善立寺(真宗)の寺伝によると、開基は伊予国の浪人・河野新左衛門光利の末孫である四
郎左衛門が、1676(延宝4)年に建立したとある。
瀬戸崎往還道は山裾に沿いながら南下する。
化石「アンモナイト」がデザインされた美祢市のマンホール蓋。
異様な山肌をした石灰石鉱山が見えてくる。
現役の鉱山のようで、太平洋セメント㈱の関連会社が採掘しているとのこと。
かっては栄えたであろう通りもひっそりしている。
道路沿いに太平洋セメントの巨大な石灰焼成用竪型石灰窯があったようだが、2011
(平成23)年駅の積込み施設と共に姿を消した。
遠くに宇部興産伊佐セメント工場の煙突が聳える。
最初の民家手前が大嶺町北分と東分との境付近。
宝泉寺(真宗)の地は、もともと上領八幡宮の社坊があったという。室町期の1538(天
文7)年の八幡宮棟札に「社僧権師亊□性院」とあるが、□は読み取れないそうだ。
境内にヤマグワの巨木がある。案内によると根本より二又になっており、根囲は5.85
mの雌雄同株であるとされ、400年相応の樹齢と推測されるとのこと。
往還道に戻って南下すると、中領八幡宮参道前で赤間関街道中道筋と合わす。
赤間関街道中道筋は萩往還道の明木から絵堂、秋吉宿、河原宿を経て、厚狭川を渡って
上領八幡宮の参道下に至る。
上領八幡宮の社伝によると、石清水八幡宮より勧請したが、1616(元和2)年と175
3(宝暦3)年の火災で焼失し、勧請の時代が明らかでないが、室町期の1538(天文7)年
建立の棟札が記録にあるとする。
街道を進むと左手に八幡磨能峰宮(やはたうすのみねぐう)(下領八幡宮とも)の森が見えてく
る。上領八幡宮の距離は300m程であり、祭礼も同日に催する「兄弟社」であるという。
八幡磨能峰宮について風土注進案は、石清水八幡宮よりの分霊を祀ったが、建立の年月
縁起などわからないとしているが、縁起おぼしき虫食いの破本に室町期の1499(明応8)
年6月建立と記す。
碑は風化して刻字を読み取ることはできないが、傍らに「憂国の志士廣岡浪秀(なみほ)」
の説明板がある。
この神社の宮司の長男であった浪秀は、周防徳山で修行して国学などを学び、尊皇攘夷
思想を持つ。1862(文久2)年京都に出て、憂国の志士として国事に奔走する。186
4(元治元)年6月5日、諸藩の志士たちが京都三条の池田屋に集まったが、長州側の志士
として吉田稔麿と共に参加。これを察知(同志古高俊太郎が新選組に捕縛され自白)した新
選組が急襲され全員が同じ運命をたどった。浪秀は24歳であったが1915(大正4)年従
五位が贈られたとある。
八幡宮に続いて大嶺小学校の校舎と運動場、少し下った所で尾其上川の小さな流れに出
合う。
新四国美祢市八十八ヶ所63番霊場。
家々は更新されて街道だった面影は残っていない。
中村地区に入ると道は分岐する。左は美祢線を渡り美祢駅へと続くが、街道は直進して
左手に変電所を過ごす。
街道は右側の道だが、直進してJR美祢駅へ向かう。
線路に沿うようになると前方に跨線橋が見えてくる。
美祢駅構内には3本の線路があるが、ホーム側の線路のみが使用されている。
美祢駅は無人駅で駅前はひっそりとしている。
単線化した美祢駅(14:09乗車)