ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市秋穂の秋穂浦 <大内時代のお上使道玄関口>

2020年01月31日 | 山口県山口市

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         秋穂半島の南東部、長沢川の左岸に位置し、南は周防灘に面する。北に大海山があり、
        この山地がそのまま南へ続いているため、町域は二分され、中心は西側にある。地名の由
        来は「秋の穂の満ち渡る郷」の意という。(ルート約4㎞)

           
         新山口駅10時38分発の秋穂荘行きのバスに乗車して、下村バス停で下車する。

           
         バス停から引き返すと、現在の西中国信用金庫秋穂支店地に旧秋穂村役場があった。1
        879(明治12)年に秋穂東本郷村(大海、青江村合併)と秋穂西本郷村が存立したが、1
        889(明治22)年に合併して秋穂村が誕生する。

           
         かっては商店が軒を連ねていたようだが、その面影は残されていなかった。

           
         商店街として機能しなくなったことや、海岸線に道が新設されたこともあって、時に車
        が通る程度である。

           
         路地奥には秋穂座という映画館があったようだが、その後はスーパーマーケットに移行
        したが、これも時代に波に押し流されて看板だけが証を残している。

           
         大内氏の時代、秋穂浦は山口の表玄関として栄えた地で、ここから山口に入る道は高貴
        な人たちが往来するので「お上使道」と呼ばれた。その町筋の江の川(現在は道路下)に髪
        解橋があった。
         船で来た旅人はここで髪形を整えたといわれ、山口の地には旅装を解き、服装を正した
        場所として袖解橋があった。(説明板より)

           
         お祇園様として親しまれ、昭和時代のお祭りには、近郊から多くの人が訪れたとされる
        八坂神社参道。

                   
         室町後期の1563年に「下村疫神社」として遷座する。1711(正徳元)年に疫病が
        流行し、疫神の傍に祇園牛頭天王を祀ったところ疫病が退散したされる。1871(明治
        4)年に八坂神社と改称する。

           
         藤田勉強堂さんから山口銀行のある通りも閑散としている。

           
         本町には秋穂霊場第26番札所があり、地蔵堂は別棟に移されて「北向地蔵尊」として
        祀られている。
         今もお大師参りでは、地元の方による御接待があるとのこと。札所の東側道筋に高札場
        があったようだ。

           
         通りに戻って直進し、三差路を右折すると加茂地区に入る。ここも同じような光景が続
        く。

           
         左手の秋穂霊場25番札所に石風呂への案内がある。

           
         加茂石風呂は2つの部屋を合体したもので、1887(明治20)年代に造られたとされ
        る。施浴後の体の洗い清めは、敷地内の井戸水を利用した新しい習俗の風呂とされる。使
        用目的は案内されていないが、塩田労務者などの保養に利用されたと思われる。

           
         秋穂街道(お上使道)を歩く場合、屋戸入口バス停が最も近い。

           
         秋穂港と大内氏のいた山口を結ぶ秋穂街道が、山口への一番の近道であった。室町末期
        の1569年に大内輝弘が、山口の毛利氏を攻めるために兵船を率いて上陸した地でもあ
        る。

           
         古い港があったあたりは埋め立てられて面影はないが、案内によると重ね岩に船を繋ぎ、
        山口へ向かったとある。

           
         秋穂街道を辿れば善城寺前に出ることができる。

           
         掘割の道を進む。

                  
         掘割を抜けると右折して丸山の南山麓を辿る。

           
         この風景を見るまでは良かったが、この先はカヤトと竹の繁茂で道は遮断されている。

           
         引き返して右折した地点を直進すると、寺跡と思われる展望地に出る。

           
         秋穂湾を囲むように長浜の地から岩屋の鼻。

           
         秋穂市街地を見て善城寺へ向かう。

           
         下ってくると右手に丸山へ向かって秋穂街道が延びている。

           
         街道の右手奥に真言宗の善城寺という古刹がある。

           
         新堂された寺の前に天然記念物のタブノキがあり、根元の空洞には弘法大師が祀られて
        いる。

           
         参道を下って先ほどの道を直進すると、民家の左を巻いて下村新池の土手を通って県道
        に出る。

           
         寄り道して幕末期に八幡隊が駐屯した菩提寺(今の禅光寺)に立ち寄る。ここにも秋穂霊
        場がある。

           
         吉岡新太郎は秋穂に陣営があった鋭武隊の小隊長で、1868(明治元)年1月の戊辰戦
        争の際、吉岡の隊は大坂に駐屯する。その時に難波くろがね橋にあった商家の娘・山村マ
        サと恋仲になる。 
         同年4月、命により秋穂に戻った吉岡をマサが迫った。このため隊中規則を乱してしま
        い、6月9日に秋穂の宿屋で心中する。不憫に思った秋穂の人々が墓碑を建てる。

           
         はっきりしないが菜の花がモチーフされたマンホールのようだ。
         秋穂街道を中野集落まで歩くことにしていたが、山尾庸三生誕の地を訪ねるため、下村
        バス停14時37分発のサンパークあじす行きのバスに乗車する。

           
         黒潟バス停(14:42)で下車して黒潟海岸に立ち寄ると、海岸から秋穂市街地と串山連峰
        が望める。

        
         長浜入口バス停まで約850mの距離を歩いて、山尾庸三生誕の宅周辺をぐるりと巡る。
        この付近は旧山口市秋穂二島と旧秋穂町の市町境であるが、現在は山口市であるが行政区
        域は別である。

           
         長浜集落に入ると一角に広い屋敷地が見えてくる。

           
         当邸は幕末期に密航留学した長州ファイブの一人・山尾庸三の生家である。山尾家は藩
        重臣の繁沢家の給庄屋(給領地にある庄屋)であった。

           
         山尾庸三は高杉晋作らと横浜・品川の外国公館の襲撃に加わり、翌年伊藤俊輔(博文)、
        井上聞多(馨)らとイギリスに留学する。
         帰国後、工部大学校(現東京大学工学部)を設立し、また、日本で最初の聾唖学校も設立
        する。]

        
         2003(平成15)年に長州五傑顕彰碑が海岸通りに建立されたが、現在は二島中学校     
        に移転されている。(1013年撮影)

           
         長浜バス停までわずかな距離で、15時30分の県庁行きに乗車できる。

           
           
         秋穂街道(秋穂浦~四辻間)のルートが不明朗ではあるが、丸山の切貫道から善城寺前に
        出て、中野、天田から幸田、梅ノ木峠を経て四辻に出る。
                   


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