この地図は、国土地理院の承認を得て、2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
絵堂は瀬戸内海の周防灘に注ぐ厚東川の支流・大田川の上流及びその支流の絵堂川、銭
屋川流域に位置し、丘陵性に山地と谷底平野に立地する。
地名の由来について風土注進案は、昔、この村から赤村へ入る所に、地蔵菩薩を安置し
た絵馬堂があったので、これに因んで絵堂と称したという言い伝えがあると記す。(約8㎞)
新山口駅から防長バス東萩駅行き約45分、絵堂バス停で下車する。
バス停から引き返すと県道は左へカーブするが、右手の車道を山手に向かう。
絵堂宿西外れの地は、1865(元治2)年1月6日夜半に諸隊の斥候隊が最初の砲撃を行
った地である。10数日間にわたって大田・絵堂の戦いが繰り広げられたが、白山神社入
口に明治維新の導火線となった絵堂戦跡記念碑が建立されている。
萩政府の諸隊鎮圧軍は、1864(元治元)年12月26日萩城下を出立し、28日から絵
堂宿の酒屋・柳井弥伝次邸(幕末頃は藤井邸)を本陣として、1865(元治2)年1月7日未
明まで絵堂宿に駐留した。この柳井邸の門がこの地に移設されている。
門の右柱に弾痕跡。
引き返すと法香院観音堂への案内がある。子授け・乳授けに霊験あらたかな聖観音が安
置され、長門三十三観音霊場第16番札所にもなっている。
観音堂から絵堂の町並み。正面に城前山が聳える。
観音堂は法香院境内の一角にある。
境内の板碑は、豊臣秀吉の朝鮮の役に出兵した毛利輝元が、朝鮮から連れてきた僧尼の
供養塔と伝えられている。総高183cmの正面上部中央には、阿弥陀仏如来を示す「キリ
ーク」が刻印され、その下に「妙善、追善、閑誉妙林禅定尼、慶長5年(1600)6月37日」
とある。
法香院(浄土宗)は法然寺と称していたが、明治維新の頃に長登村の妙香院と合併して法
香院と改めた。
右カーブする左手に萩政府軍が本陣を置いた柳井邸があった。戦書を届けた後に諸隊の
斥候隊が銃撃を開始すると、慌てた政府軍が赤村まで退却する。
養泉寺は絵堂宿の西北山裾にあり、絵堂開戦時には萩政府軍側の荻野隊宿陣地となる。
諸隊の隊員とも親交があって、諸隊からの要請で門前の松に「荻野隊」の提灯を掲げてお
り、諸隊は襲撃を避けた。荻野隊は、元来諸隊の一隊であったが士分の者が多く、その後
離反して政府軍側に付いたのである。
街道に面して軒を連ねていたようで、人家の裏手は耕作地となっている。
絵堂宿は赤間関街道と大津郡の要港である瀬戸崎(仙崎)街道の分岐点でもあった。16
65(寛文5)年頃に新設され、貞亨年中(1684-88)に取り立てとなった。風土注進案による
と、宿の規模は長さ185間(約336m)で53軒の家が並び、馬6疋と人夫10人を備
えたという。繁盛した宿場であったようだ。
新しい家屋には黒瓦もあるが、赤い石州瓦の家屋が多くみられる。
上ノ町を右折して赤地区へ向かう。
碇集落を経由して正岸寺(しょうがんじ)を目指すと、地区内を小郡萩道路が横断している。
短い距離だが遠くに感じられる。
1月6日絵堂から退却した政府軍は、赤村の正岸寺を陣所とした。1月16日の夕刻に
諸隊が攻撃して1時間余りで戦いは終結し、政府軍は山田村(現萩市山田)に陣を引いた。
荻野隊士であった堀越松三郎は、伊佐村徳定出身の農民で、16日の戦いで戦死する。
墓碑は石灰岩塊製で刻銘が読める。
立石、植畠集落内を過ごすと地区の中心である鍔(つば)市が見えてくる。人家は少ないが
赤郷村の中央部に当たるようだ。
村役場が廃止されて美東町出張所が新築されると、赤郷公民館として活用されてきた。
平成の合併で美祢市になると、公民館を含む新たな建物ができて解体されてしまう。(現
警察官駐在所付近)
1665(寛文5)年に銭屋千軒が焼き払われたが、焼け残ったとされる銭屋のハゼの木。
銭屋集落は絵堂宿の北半里(約2㎞)にある小集落。
1637(寛永14)年幕府は貨幣経済流通のため、全国8ヶ所に「寛永通宝」を鋳銭する
ための銭座を設けた。その内の1ヶ所が萩藩銭座で、藩は幕命によりこの地を選んで鋳造
を開始した。鋳造事業は1ヶ年の更新契約であったが、3年後に幕府は新銭過剰のため諸
藩に製造中止を命じる。しかし、銭貨鋳造は利益が多いため、停止令後も藩の黙認のもと
に私鋳が続けられた。
銭屋銭は白銅色で文字に特徴があり、判別が容易であったため幕府の探索が厳しくなる
と、藩は責任を村民に転嫁し、1665(寛文5)年郡代官が銭屋千軒を焼き払ったと伝える。
集落の間を抜けると国道490号線に銭屋バス停がある。ここで乗車すれば新山口駅に
戻ることができる。