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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

美祢市美東町絵堂‥明治維新のスタート地と江戸期に銭座

2020年01月21日 | 山口県美祢市

           
                 この地図は、国土地理院の承認を得て、2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         絵堂は瀬戸内海の周防灘に注ぐ厚東川の支流・大田川の上流及びその支流の絵堂川、銭
        屋川流域に位置し、丘陵性に山地と谷底平野に立地する。
         地名の由来について風土注進案は、昔、この村から赤村へ入る所に、地蔵菩薩を安置し
        た絵馬堂があったので、これに因んで絵堂と称したという言い伝えがあると記す。(約8㎞)


           
         新山口駅から防長バス東萩駅行き約45分、絵堂バス停で下車する。

           
         バス停から引き返すと県道は左へカーブするが、右手の車道を山手に向かう。

           
         絵堂宿西外れの地は、1865(元治2)年1月6日夜半に諸隊の斥候隊が最初の砲撃を行
        った地である。10数日間にわたって大田・絵堂の戦いが繰り広げられたが、
白山神社入
        口に明治維新の導火線となった絵堂戦跡記念碑が建立されている。


           
         萩政府の諸隊鎮圧軍は、1864(元治元)年12月26日萩城下を出立し、28日から絵
        堂宿の酒屋・柳井弥伝次邸(幕末頃は藤井邸)を本陣として、18
65(元治2)年1月7日未
        明まで絵堂宿に駐留した。この柳井邸の門がこの地
に移設されている。

           
         門の右柱に弾痕跡。

           
         引き返すと法香院観音堂への案内がある。子授け・乳授けに霊験あらたかな聖観音が安
        置され、長門三十三観音霊場第16番札所にもなっている。


           
         観音堂から絵堂の町並み。正面に城前山が聳える。

           
         観音堂は法香院境内の一角にある。

           
         境内の板碑は、豊臣秀吉の朝鮮の役に出兵した毛利輝元が、朝鮮から連れてきた僧尼の
        供養塔と伝えられている。総高183cmの正面上部中央には、阿弥陀
仏如来を示す「キリ
        ーク」が刻印され、その下に「妙善、追善、閑誉妙林禅定
尼、慶長5年(1600)6月37日」
        とある。


           
         法香院(浄土宗)は法然寺と称していたが、明治維新の頃に長登村の妙香院と合併して法
        香院と改めた。


           
         右カーブする左手に萩政府軍が本陣を置いた柳井邸があった。戦書を届けた後に諸隊の
        斥候隊が銃撃を開始すると、慌てた政府軍が赤村まで退却する。


           
         養泉寺は絵堂宿の西北山裾にあり、絵堂開戦時には萩政府軍側の荻野隊宿陣地となる。
        諸隊の隊員とも親交があって、諸隊からの要請で門前の松に「荻野
隊」の提灯を掲げてお
        り、諸隊は襲撃を避けた。荻野隊は、元来諸隊の一隊で
あったが士分の者が多く、その後
        離反して政府軍側に付いたのである。


           
         街道に面して軒を連ねていたようで、人家の裏手は耕作地となっている。

           
         絵堂宿は赤間関街道と大津郡の要港である瀬戸崎(仙崎)街道の分岐点でもあった。16
        65(寛文5)年頃に新設され、貞亨年中(1684-88)に取り立てとなった。風土注進案による
        と、宿の規模は長さ185間(約336m)で53軒の家が並び、馬6疋
と人夫10人を備
        えたという。繁盛した宿場
であったようだ。

           
         新しい家屋には黒瓦もあるが、赤い石州瓦の家屋が多くみられる。

           
         上ノ町を右折して赤地区へ向かう。

           
         碇集落を経由して正岸寺(しょうがんじ)を目指すと、地区内を小郡萩道路が横断している。

           
         短い距離だが遠くに感じられる。

           
         1月6日絵堂から退却した政府軍は、赤村の正岸寺を陣所とした。1月16日の夕刻に
        諸隊が攻撃して1時間余りで戦いは終結し、政府軍は山田村
(現萩市山田)に陣を引いた。

           
         荻野隊士であった堀越松三郎は、伊佐村徳定出身の農民で、16日の戦いで戦死する。
        墓碑は石灰岩塊製で刻銘が読める。 


           
         立石、植畠集落内を過ごすと地区の中心である鍔(つば)市が見えてくる。人家は少ないが
        赤郷村の中央部に当たるようだ。


           
         村役場が廃止されて美東町出張所が新築されると、赤郷公民館として活用されてきた。
        平成の合併で美祢市になると、公民館を含む新たな建物ができて解
体されてしまう。(現
        警察官駐在所付近)


           
         1665(寛文5)年に銭屋千軒が焼き払われたが、焼け残ったとされる銭屋のハゼの木。

           
         銭屋集落は絵堂宿の北半里(約2㎞)にある小集落。


           
         1637(寛永14)年幕府は貨幣経済流通のため、全国8ヶ所に「寛永通宝」を鋳銭する
        ための銭座を設けた。その内の1ヶ所が萩藩銭座で、藩は幕命によりこの地を選んで鋳造
        を開始した。鋳造事業は1ヶ年の更新契約であったが、3年後に幕府は新銭過剰のため諸
        藩に製造中止を命じる。しかし、銭貨鋳造は利益が多いため、停止令後も藩の黙認のもと
        に私鋳が続けられた。

           
         銭屋銭は白銅色で文字に特徴があり、判別が容易であったため幕府の探索が厳しくなる
        と、藩は責任を村民に転嫁し、1665(寛文5)年郡代官が銭屋千軒を焼き払ったと伝える。


           
         集落の間を抜けると国道490号線に銭屋バス停がある。ここで乗車すれば新山口駅に
        戻ることができる。


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