ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井市阿月は神明祭で知られる地

2020年01月10日 | 山口県柳井市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         阿月(あづき)は周防灘に突出する室津半島の東部に位置し、西に山塊があり、海岸に沿っ
        て南北に長く、小瀬上関往還道に面して集落が形成されている。(歩行
約6㎞)

           
         JR柳井駅から防長バス宇積行きがあるが、便数が少なく帰路を考えると利便性が悪い
        ため車対応とする。(バス停近くに駐車)


           
         バス停から県道72号線(柳井上関線)柳井方面へ歩くと円勝寺がある。この地方では最
        も古い浄土真宗の寺で、境内にはホルトノキがあるとのことだが、平賀源内がこの木をオ
        リーブの木と勘違いして「ポルトガルの木」して紹介してしまった木である。どの木かわ
        からず拝見できなった。


           
         さらに柳井方面へ引き返すと伊保庄と阿月の境に小池峠があり、左手の旧街道に長石が
        建っている。表面に「祝凱旋」「阿月尚武会」その裏に「明治38年(1905)10月建之」
        と刻まれた日露戦
役凱旋門がある。柳井津駅(現柳井)から歩いて帰った兵士が、村を挙げ
        て迎えら
れた名残りとされる。

        
         道は旧小瀬上関往還道。

           
         青木バス停を右折して無動寺へ向かう。

           
         琳聖太子の創建と伝えられる無動寺(真言宗)は、鎌倉・室町時代に栄えた。その後、
        利氏の祈願所となり、堂宇の鬼瓦には毛利本藩の家紋がある。


           
         寺から引き返すと左手に防護柵が見え、柵に沿って最上部に上がる。(急坂に葛の蔓が
        繁茂)


           
         国行雛太郎(1843-1866)は阿月に生まれて「克己堂」で学び、第二奇兵隊に入隊する。第
        二小隊長として幕長戦争大島口の戦いに参加するが戦死する。(享年23歳)


           
         車庫付き住宅の先を左折する。

           
         白井小助(1826-1902)は
萩に生まれ、26歳の頃に阿月へ移住して浦靱負(ゆきえ)の家臣
        となる。第二奇兵隊の創設に尽力し、幕長戦争では大島口の戦いで総督として、戊辰戦争
        では討幕軍の参謀として
活躍した。維新後は明治政
府に出仕せず、平生町田布路木で私塾
        「飯山塾」を開いて子弟の教育に努めた。


           
         阿月郵便局の先を左折して山方向へ向かうと、曹洞宗だった岩休寺がある。開基
につい
        て何ら伝えるところがないが、もとは「心岳寺」という寺号であったが、浦氏が上関から
        移封された際に同家の菩提寺となり、1648(慶安元)年に寺号を改称する。
         その後、後ろ盾を失ったことや門徒も少なく衰退の途を辿り、無惨な姿となっている。

           
         境内地には浦家の墓所がある。

           
         寺向い側の山手を上がって行くと墓地があり、その最奥部に坂田昌一(1911-1970)の墓碑
                がある。湯川秀樹、朝永振一郎と共に日本を代表する素粒子物理学者で、湯川秀樹の求め
        に応じて協力者となる。正面は日本に留学した中国の学者・郭沫若の漢詩、側面に湯川秀
        樹の撰文がある。
         坂田は東京生まれであるが、ここに墓碑がある理由について、先祖が阿月出身であると
        いう以外、根拠を見つけることができなかった。

           
         芥川義天は秋良敦之助の妹の子として円覚寺(真宗)に生まれ、克己堂に学び、赤禰武人
        に誘われて奇兵隊に入隊する。第二奇兵隊では書記を務め、幕長戦争では大島口の戦いに
        参戦する。明治以降は阿月の教育に尽力する。(門右に出生の石碑)

           
         1644(正保元)年上関から阿月に給領地替えとなった浦就昌が、阿月の東西2ヶ所に神
        明宮を奉斎したとされる。ちなみに東神明宮は
天照皇大神を祀る。

           
         旧往還道は円覚寺前を南進する。

           
         小瀬上関往還道と旧県道が合流する所に旧阿月郵便局が残されている。

           
         ここから松浦橋まで旧県道と旧往還道が重なる。

           
         左手に市出張所と公民館。この付近が阿月の中心部のようだ。

           
         克己(こっき)堂は、1842(天保13)年浦靱負(ゆきえ)が家臣の子弟教育のため作った学
        塾である。
秋良敦之助を筆頭に、赤祢武人、白井小助、世良修蔵など多くの人材を輩出す
        る。
         1872(明治5)年に廃校となり、1902(明治35)年に建物は解体され、小学校の校
        地となるが、浦氏居館旧表門一棟(克己堂の門)が現存する。

        
         1889(明治22)年町村制施行により伊保庄南村なるが、1901(明治34)年に阿月村
        と改称し、役場は体育館がある場所にあったとのこと。

           
         1811(文化8)年この地で生まれた秋良(あきら)貞温(敦之助)は、浦靱負を補佐して浦氏
        の財政立て直しに注ぎ、維新戦力を蓄積するなど人材育成に努める。

           
         西神明宮には豊穣を象徴する豊受大神が奉祀されている。

           
         毎年、2月11日には東西神明宮前の海岸で火祭りの「神明祭」が行われる。災厄除け
                や病気除け、その年の豊かな収穫を願う行事で、1644年以来の歴史を持つ伝統行事で
        ある。(国の重要無形民俗文化財)
         神明祭の由来について、「左義長(さぎちょう)」という宮中の行事が、民間に伝えられた
        俗称「どんど」と神明信仰、そこに小早川家の軍神祭が習合した祭りである。
         祭りは神明の「起こし立て」に始まり、「神明踊り(武者踊り)」があり、「ハヤス(燃や
        す)ことで終わる。(説明より)

           
         もとは真言宗で浄土宗に改宗した願成寺は、江戸から明治にかけて防陽88ヶ所霊場の
        札所とされた。

           
         願成寺の山上にある石風呂は、いつの時期に利用されたのか説明書きもなく、詳細は不
        明である。

           
         阿月の町並みと海を挟んで対岸は周防大島。

           
         阿月バイパスが完成するまで、この小瀬上関往還道が主要道であったが、今では静かな
        通りとなっている。(右手に看板建築)

           
         赤禰武人(1838-1866)は瀬戸内海に浮かぶ柱島の島医者・松崎家の次男として生まれ、海
                僧・月性や克己堂、松下村塾に学ぶ。
         1857(安政4)年浦家の家老・赤禰家の養子となる。その後、奇兵隊の総督となり下関
        で外艦と戦ったが、長州征伐をめぐる意見が対立し、1866(慶応2)年幕府に内通したと
        の罪で処刑される。

           
         赤崎神社は伊保庄の賀茂神社の末社で、1854(嘉永7)年3月に今の地に移転したとさ
        れる。

           
         長い石段を上がれば社殿。水の神・海の神とされる市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)
        祀る。

           
         赤禰武人の墓へは阿月バイパスで掘割されたため、急峻な道を辿らなければならない。

           
         墓碑銘は「赤禰武人是一墓」となっているが、生まれ故郷の柱島にも分骨された墓があ
        る。裏切り者扱いされ処刑されたためだろうかひっそりとした場所にある。他の墓碑は判
        読できない。

           
         松浦地区の町並み。

           
         山手から海へ出ると阿月漁港。

           
         小瀬上関往還道は松浦橋手前から川上へ向かい、山中を巡って宇積へ出る。

          
         世良修蔵(1835-1868)は周防大島の庄屋の家に生まれ、浦家の家臣・世良家を継ぐ。奇兵
                隊書記、第二奇兵隊の総督などを務め、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀となり、先兵隊と
        して会津に進撃するが捕らえられて斬首される。(旧宅跡)


          
         阿月には商店や食堂はないが、歴史ある域内が堪能できる町であった。旧街道を


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