ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

萩市の浜崎は伝統的建造物保存地区

2019年10月27日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         浜崎は萩市街地の北にあって松本川河口の左岸に位置し、西は菊ヶ浜に面する。浜崎は
        築城以前から
の漁村であり、海上交易の中継地であったと思われる。城下町成立後は漁港
        であるととも
に、商港として萩城下に開かれた海の玄関口となった。(歩行約4㎞)

           
         新山口駅から防長バス東萩駅行き約1時間30分、萩バスセンターで東回りの循環まあ
        ーるバス(松陰先生)に乗り換える。定額の100円で雁島バス停までは約5分で行くこと
        ができる。

           
         左手の路地に入ると新堀川に出会い、左折すると芳和(ほうわ)荘が見えてくる。

           
         旅館「芳和荘」は大正時代初期に建てられたもので、この界隈は明治期から花街として
        賑わい、当旅館も「梅木」という遊郭だった。

           
         建物は外から見ても味わいがあり、屋敷塀も美しい。

           
         萩藩御船倉は藩主の御座船や軍船を格納していた。このような船倉が4つ連続していた
        とのことだが、現存するは1基で、屋根を葺いた旧藩時代の船倉としては全国唯一の遺構
        とのこと。(国指定史跡)

           
         内部を見学する機会を得て中に入ると、奥行き27m、間口8.8mの三方を玄武岩で
        壁を築き、上部に瓦屋根を葺いている。(ときにコンサート会場になるとか)

           
         前面は木製扉だったとのこと。

           
         問屋町筋の右手が旧小池家土蔵、左手に西村、中村家住宅。

           
         小池家は穀物商で港から荷揚げした荷物を保管した蔵とのこと。その後は材木商に転身
        され、蔵は住吉祭りに関する展示場となっている。

           
         昔は船宿だった中村家。

           
         問屋町筋を抜けると正面に魚市場があり、少し右に行くと対岸の鶴江への渡しがある。
        午前7~11時、午後1~3時、午後4~6時に運行され、ボックス内の連絡ボタンを押
        すか、大きく手を振れば迎えに来てくれる。(無料)

           
         浜崎のメインストリートである浜崎本町筋に入ると、東棟と西棟が連なる藤井家がある。
        海産物問屋・魚問屋を営み、1851(嘉永4)年築の西棟、1820年代(文政年間)築の東
        棟は
、どちらも厨子
(つし)二階建てである。
         戸自体がはずせる蔀戸や跳ね上がり大戸があり、この蔀戸を開けて、ここに商品を並べ
        て売っていたとされる。

           
         左へ曲がる所にある大嶋家は、白壁の虫籠窓が目立つ。

           
         1856(安政3)年築の斉藤家は、切妻造り厨子二階建てで、二階外壁は貫を通した真壁
        造りとし、手摺りを巡らしている。

           
         家前には旧式の丸ポストと、目の細かい格子戸が風情を感じさせる。

           
         斜め向かいには明治中期に建てられた三層構造の池部家。蒲鉾製造を営んできた家で、
        1930(昭和5)年道路拡張のため、表側2間が斜めに切り取られた珍しい形をしている。

           
           
         明治時代の看板が目を引く中村船具店は、江戸期の建物で古い漁具などが展示してある。

           
         村田荒物店付近から見返る。

           
         旧山村家は江戸時代に建てられた商家で、道路側に店、その奥に居住用の建物を別々に
        にする表屋造りである。一旦室内(土間)に入り、再び外(中庭)に出ると玄関があり、商売
        の領域と私的領域を分けるという商家の建て方がなされている。

           
         かっては山村船具店として商いをされた山村家の仏壇と神棚。神棚の両脇に微笑む恵比
        寿様と大黒様が置かれている。

           
         通りに面して3つの格子があるが、表玄関側から太格子、親子格子、平格子と組み方・
        作り方が違う。

           
         当時の引札(取引先が宣伝のために使用した広告チラシ)を見ることができる。

           
         1931(昭和6)年築の旧山中家は、本二階建てで店間と座敷を有する。海産物を扱う商
        いをされていたとのこと。

           
         うなぎの寝床とされる奥行きの長い商家。

           
         北国問屋を営んだ浜崎の豪商・須子家の建物は、1700年代後期に建てられたとされ、
        馬繋ぎ棒が残されている。

           
           
         1652(承応元)年浜崎の商人が大坂へ向かう途中、時化(しけ)にあって住吉大明神に祈
        ったところ、浜崎の船だけが無事だったことから、1656(明暦2)年大坂の住吉社より鶴
        江に勧請する。1659(万治2)年現在地に社地を拝領して遷座する。

           
         玉垣に沿って左へ進む。

           
         中島治平(1823-1866)は、1856(安政3)年32歳で長崎に留学し、英蘭語を学び、西
                洋理化学を修め、コレラの予防法を伝えたため士籍に列せられる。萩に戻ると製鉄、製茶、
        ガラス製造の必要を建白し、1866(慶応2)年に舎密局(せいみきょく)総裁となったが、同
        年この地で病没する。

           
         田中家は夏みかんや鮮魚の商いを行っていた商家で、立派な門が特徴。

           
         梅屋七兵衛は幕末の商人で、代々、浜崎で北国問屋を営む家に生まれ、七兵衛の代には
        酒造業を始め、藩の武具方の用達も行っていた。藩の密命を受け、命がけで長崎に鉄砲千
        丁を買い付けに行くなど明治維新に貢献する。

           
         この旧宅は七兵衛が晩年を過ごした隠居屋で、ここでお茶やお花を楽しんだと思われる。
        (2015年撮影。現在は一般公開されていない)

           
         この先、徐々に標高が高くなるが、海からの風が当たる場所され、「吹上通り」と呼ば
        れている。

           
         江戸から明治期にかけて油屋・蝋屋を営んでいた林家。

           
         大嶋家は明治期、呉服屋を営んだ後に醤油製造元となる。

           
         泉福寺は、1641(寛永18)年毛利家から橋本に寺領を拝領して創建されたが、何度も
        水害を受けたので願い出て現在の地に移転したという。

           
         当寺は吉田家の菩提寺で「松陰21回猛士」と記する位牌が安置されている。また、戦
        後日本共産党のリーダーとして活躍するも、晩年には旧ソ連のスパイだったことが発覚し、
        除名された野坂参三の菩提寺でもある。

           
         藤山家は大正時代「藤山商店」として雑貨商を営む。(この付近までが伝統的建造物群
        保存地区)

           
         保福寺跡には「身代わり地蔵」があり、古くから庶民の信仰を集めていたが、明治初年、
        海潮寺に合併したという。寺の墓地には吉田松陰と密航を企てた金子重輔の墓がある。

           
           
         住宅街の中に「野山獄跡」があり、道を隔てて庶民が入る「岩倉獄」がある。元々は長
        州藩大組藩士・岩倉孫兵衛が酒に酔い、同じ大組藩士・野山六右衛門の屋敷に切り込むと
        いう事件が起きた。喧嘩両成敗ということで両家は取り潰しとなり、長州藩はその屋敷跡
        に牢獄を建てた。切り込んだ岩倉側に非があるとし、士分以外の庶民の牢が岩倉獄とされ
        た。(上段が野山獄) 

           
         常念寺は毛利輝元が萩城の築城時に宿舎にした寺。表門は京都の聚楽第の裏門として建
        てられたものを輝元が豊臣秀吉から拝領し、1633(寛永10)年に寄進、移築したとされ
        る。

           
         唐樋町に位置する高札場跡。萩と三田尻(防府)結ぶ萩往還道の起点となる場所である。

           
         高札場跡を南進すると萩バスセンターがある。


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