いわき・うぶすな広場だより

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いわき・2つの「じゃんがら」禁止令とは?・・・いわき地域学會

2010-09-24 07:20:25 | いわきの歴史

いわきの「じゃんがら」の昔の姿を
夏井先生がスケッチしました。

「じゃんがら」を学ぼう・・・3回シリーズ
      主催
いわき地域学会(代表幹事 吉田 隆治)

講師は夏井芳徳先生(いわき明星大学人文学部非常勤講師)

第1回目は、
9月22日(水)PM6:30~ いわき文化センターにて
95名の参加で、熱気があふれました。
市民の皆さんが、「じゃんがら」の歴史を知りたいのがわかります。

第1回目・・・2つの「じゃんがら」禁止令

1)1873年(明治六年)の禁止令


・・・すべて禁止の為、効果は絶大で壊滅的になり、
明治25年ごろから少しずつ復活する。

磐城国ノ風俗、旧来念仏躍ト相唱へ、夏秋ノ際、仏名ヲ称へ、太鼓ヲ
打、男女打群レ、夜ヲ侵シテ遊行シ、中ニハ如何ノ醜態有之哉ノ由、
文明ノ今日有間敷幣習ニ付キ、管内一般本年ヨリ右念仏躍禁心申付候
条、少年児女ニ至ル迄兼テ相達置可事。
明治六年一月        
磐前県布告

この禁止令から読みとれことができるのは、
昔からの念仏踊りだ・太鼓を打つ・男女が夜遅くまで遊びあるっている姿
→近代国家では有るまじき姿だと。

江戸時代の「じゃんがら」とは?
初めのころの「じゃんがら」は今よりエネルギーが2倍ほどあったのではないか。
男・女・老・幼、一緒に「じゃんがら」をやっていた。  
今は青年を中心に行われ、女・老・幼は一部参加にとどまっています。

2)1671年(寛文十一年)の禁止令

一.ふき花火之儀、其以前之通可仕候、たま火流星からくり鼠火は可 
  為無用事。

一.念仏おとり百堂参不苦。但大勢を催し美麗尽候儀可為無用。口腕 
   口かたく可致停止之事。

一.神事祭礼之場、相撲不苦。但侍分扶持人は可致無用。於所々勧進 
  相撲辻相撲可為停止事。

  寛文十一年亥の年七月九日寛文十一年
 磐城平藩 覚

この禁止令から読みとれることができるのは、 
 ①ふき花火(手でもってする花火)は今まで通りOK。
    たま・からくり(打ち上げ花火)・鼠花火(動き回る花火)は禁止。

 ②相撲の禁止令・・・お祭りや神前ではOK。それ以外は禁止。

 ③念仏踊り=じゃんがら・百道参はやってよい。

   大勢で美麗を尽してはいけないと。

大勢でやる念仏踊りとは?
「じゃんがら念仏踊り」を囲むように男・女・老・幼が輪になってやられていた。
輪になって踊るのは禁止と。

美麗で踊られる「じゃんがら」とは? 

記録に残っていると?・・・昔の姿が。

・・・上記写真のスケッチのような姿
→現在でも長崎県平戸の「じゃんがら」はその姿のようです。

いわきに入った時の「じゃんがら」は現在の平戸のような姿だった。
しかし寛文十一年の禁止令以降、花笠や布をたらす事や
「たっつけ(ズボンのようなもので、浴衣の上にはくもの。)はなくなり、
ハチマキ・タスキに変わられ、現在の姿になったのではないかと。

3」そもそもいわきへ「じゃんがら」が伝えられたのはいつか?

今まで諸説がありましたが、
はっきりした資料が見つかりました。
穂高家 「御内用古実書」・・・内藤家の家老が、延岡に行ってから書きました。
その中で、1656年(明暦二年)に沢村彦左衛門(勘兵衛)の理安寺での一回忌に理安寺で奉納されたのではないかと。
その形は
今のじゃんがらと同じく「じやぐわらじやぐわらと鉦をたたき・・・」となり、
ほうさい念仏と呼ばれて始まったと。
それから約一五年後に 2)の禁止令がだされるほど盛んになったようです。

ほうさい念仏は江戸から、
いわき・長崎の平戸等に伝わったようです。

一六七一年に禁止令が出されてからの形
が今の「じゃんがら」かと?


4)「ほうさい念仏」については
喜多村筠庭の「嬉遊笑覧」に書かれています。
その中に菊岡沾涼の「世事談」に「葛西」の土人(土地の人)、鉦、太鼓に笛をまじへ踊念仏」にて江戸の大路を廻る。
これを葛西念仏という。と書かれています。 

また、水戸の松羅館所蔵の「絵巻物」には「花を作りてかさにさし、太鼓、かねのひやうしをうち、踊りとびまわる姿をみる人おかしく、腹すじをかかへ、大ぜいこぞりてみ侍りけり。
と書かれています。

これらが、「じゃんがら」の原型で、
美麗とされいわきでは禁止されたのではないか。
禁止以降は質素・武骨になっていったが、
「じゃんがら」は隆盛を誇った。
すなわち笠を取りたっつけを取り質素になっていった。

上記写真から今の姿に・・・平戸では今も、昔の姿で踊られているすです。 
 ぜひ一度見てみたいと思います。

またその当時は、歌の部分はなくて、
江戸後半に(一八〇〇年くらいから)
「歌」が追加されたと。
歌については3回目で詳しく話されるそうです。

一口に「じゃんがら」といいましてもこのように変遷してきているのですね。
また「禁止令」によりまして変化してきていますが、
今まで良く続けられてきたと思います。  
これからもいわきの伝統として続けていきたいですね。

2つの禁止令は知っていたのですが、
今回初めて文章を読みました。
そこで、
2つの禁止令の文章も載せてみました。

夏井先生、
貴重なお話ありがとうございました。

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3 コメント

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初めまして (上平窪じゃんがら保存会)
2010-09-24 22:27:57
大変興味深く、拝見させて頂きました。自分がやっているじゃんがらのルーツを少しでも知っておきたかったので、良かったです。ところで、「理安寺」では無く「利安寺」ではないのですか?
返信する
Unknown (いのしし)
2010-09-25 09:18:09
上平窪じゃんがら保存会様

コメントありがとうございます。

「じゃんがら」を常日頃から保存され、
継続していますことに感謝いたします。

夏井先生の「じゃんがら」に関するお話は
面白くまた刺激的でもあります。
昨年の1月に「じゃんがら」が
いついわきに伝えられたかの史料が見つかり、それ以降、夏井先生はそのことに関して、
積極的に講演されて、
正確に伝えられたことを話されています。

「利安寺」ではとのことですが、
史料及び夏井先生のお話では、
「理安寺」となっています。
正確な開山時期は不明のようです。
何か資料が出て
開山時期がわかるといいのですが。

「じゃんがら」の継承を
よろしくお願いします。
返信する
ありがとうございました (上平窪じゃんがら保存会)
2010-09-25 13:33:33
「じゃんがら人」として、がんばっていきます。
返信する

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