いわき・うぶすな広場だより

セカンドライフの生き方を書いています。

小川江筋と澤村勘兵衛・・・この用水は誰が造ったのだろう?

2011-03-08 13:02:08 | いわきの歴史

いわき・小川江筋が描かれた絵巻・・・澤村神社


こんな貴重な資料があったのですね。


始めてみる史料です。


参加者の指先は知り合いのところか?


ぶれてみにくいところも。


現在の四倉まで。
農民にとり澤村勘兵衛は神様です。


澤村神社宮司の金賀先生は、小学生が来ますと紙芝居で、
澤村勘兵衛のことを語るそうです。
これが一番わかりやすいと。

  
歓順和尚の返歌。

小学生用の史料です。


澤村勘兵衛のことが簡潔に。


唱歌にされて生涯が語られています。
これはすごい!!



草野公民館主催
いわきの歴史再発見講座

「小川江筋と澤村勘兵衛ゆかりの地を訪ねる」ということで、
澤村神社を訪れました。

講師は樫村友延先生(いわき市考古資料館館長)
澤村神社 宮司 金賀元彦先生
でした。

小川江筋と澤村勘兵衛のお話や紙芝居や
上記写真の絵巻を見せてもらいながら、
澤村勘兵衛の業績を学ぶことが出来ました。

大宝寺に切腹させられた澤村勘兵衛の
「沢村勝為公自刃之跡」の石碑を以前に見ていまして、
澤村勘兵衛のことを知らねばと思いながらいたものですので、
今回の講座は貴重でした。

江戸時代の慶安年間(1650年)のころ、
いわき地方は大干ばつに見舞われて、
一滴の水の降らず、米が実らなかった。

平城主の内藤忠興公が澤村勘兵衛に管内の田畑の検分をさせ、
光明寺の住職歓順奉仕を訪れその示唆を受け(上記の写真参照)、
江筋開削を拝命し、小川村の夏井川から引水開削を始めました。

最終的には32年の月日を費やして、
大小の水門17か所、延長30キロメートルの水路を完成させ、
水田1200ヘクタールを耕せるようになりました。

この途中に
澤村勘兵衛はねたむ者により
明暦元年(1655年)7月14日割腹し43歳で果てました。

この翌年の命日に
いわきで初めての「じゃんがら」が行われたことが、
最近古文書によりわかりました。

明治9年(1876年)小川江筋の2000名をこす住民により
草野下神谷に「澤村神社」が建てられ、霊を祀られました。

現在のいわき市民も
飲料水として、
3万6千トンの清流が供給されているそうです。

樫村先生・金賀宮司先生
貴重なお話しありがとうございました。

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3 コメント

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連絡とれず (鶴巻裕明)
2011-03-12 20:41:05
昨日から電話でTryしましたが、不可でした。
美穂経由でかなからHPを知ってアクセスしましたが、いわきは近いだけあてひどいですね。
こちらは全員兄貴の家族を含めて無事です。
福島の第一原発が心配です。
日本原発の世界一の安全性にひびが入ること。
原発反対の馬鹿どもの声がせり上がる。

以上 
返信する
Unknown (いのしし)
2011-03-13 11:14:37
連絡とれず様

メールありがとうございます。

昨日は
パソコンのインターネットはつながらず、ブログも書けずじまいでした。
昨日(12日)1日掛けて妻とがれきの片づけ。
腰を痛める。
13日今朝から、塀のひびのところにセメントで流す作業をしているところです。
最終的には、業者に解体を頼むようになるでしょう・・・・・
電気・ガス(プロパンなのでOK)。
水道は12日のAM11時ごろから泊まりました。
情報では、10日間以上復旧は無理のようです。
原子炉は放射能が漏れだしているようですね。
あれだけ安全であっても
完全ではなかった。
返信する
Unknown (いのしし)
2011-03-13 11:17:38
連絡とれず様

電話はまだ駄目です。
北茨城市の
義姉の家は津波で少し残っただけのようです。
家族は勿来に安全にしています。
まだ家には入れないようです。
返信する

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