三函座(みはこざ)・・・常磐です。
1983年(昭和58年)閉館。
建物は平成19年(2007年)国の登録文化財に指定されましたが、
3.11で全壊し、現在は取り壊されました。
一番記憶に残る名作です。
改装なった「聚楽館」
オードリーへップバーン主演「ローマの休日」の封切りがかかった写真。
昭和28年(1953年)長谷川達雄氏撮影
いわき市生涯学習プラザに
今も飾られていますのでご覧いただけます。
懐かしい写真やポスターが。
観た映画もあり
懐かしいポスターたちです。
パンフレット。
いのししも映画・演劇等のパンフレットがありましたが、
3.11で全壊扱い後、処分しました。
懐かしいのがたくさん。
きちんと保存しないと
資料が散逸してしまいますね。
講演中の小宅先生です。
貴重な資料・お話、ありがとうございました。
福島民報の
ハイー!!みんぽう
2017年11月号より
本宮映画劇場が紹介され、
館主・田村修司さんが話された記事がありましので
載せてみました。
映写室が載っていましたので。
建物は1914年(大正3年)に建てられた。
娯楽の王様「映画」の記憶
いわき地方の豊かな映像文化を生み出した背景を考える
講師は
小宅幸一先生(いわき明星大学地域基盤型客員教授)でした。
P14のレジメで
いわき地方の映画の歴史を話していただきました。
1.映画の登場
1)映画の誕生・・・日本では1896年(明治29年)12月25日神戸にて上映。
映画館は1903年(明治36年)東京浅草にて。
2)大衆演劇から映画館へ
いわきでは1905年(明治38年)に平駅前に「平座」が劇場として開場。
大正時代末期から昭和時代初期にかけ
いわき市泉町出身の鈴木傳明という絶大な人気俳優がいました。
演劇の合間に映画を上映。
3)サイレント映画からトーキーへ
音声技術がいない無声映画(トーキー)であったので
解説役として活動写真弁士(活弁)が活躍。
昭和4年(1929年)トーキーが導入。
いわきでは昭和7年(1932年)頃には平館で「音の出る映画」=トーキーを上映。
芝居小屋専門の「聚楽館」は専門映画館に模様替えに。
2.映画全盛期と映画館
1)トーキー映画の登場
1931年(昭和6年)松竹蒲田製作の「マダムと女房」が初めての発声映画に。
2)第一次全盛期の映画館
3.戦時下の映画
4.戦後の映画復活と第二次全盛期
1)娯楽の王様「映画」
昭和21年(1946年)には戦前のピーク数を超える。
筋書きは二の次でいかに受けるかの時代に。
子供に人気のあったのはチャンバラ映画(25年解禁)。
昭和30年代、テレビが家庭に入るまでの20年から30年代にかけ
映画は第二次全盛期。
2)いわき地方の映画館
昭和29年(1954年)には16館
昭和32年(1957年)には30館
昭和34年(1959年)には46館と増加に。
平市と磐城市には各10館ずつ。
炭鉱住宅があった川部村と旅人村にも映画館が誕生!!
全国の映画入場者数は
昭和33年に約11億2.745万人がピークに。
国民一人当たり年間約12回弱観ていたと。
いわきの平税務署の入場者調査では
432万2.460人で入場料金収入は2億6.000万円でしたと。
3)ニュース映画
4)全盛期の映画館あれこれ
5.苦堺に立つ映画と、減少する映画館
いわき地方では
昭和39年(1964年)の映画入場者数は145万3.000人
昭和40年(1965年)には114万3.000人
昭和48年(1973年)には54万6.000人まで減少・・・映画館もも22館へ。
平成4年(1992年)には11館に→現在は平のみと。
6.いわき地方の映画・映画館文化
明治38年(1905年)に最初に上映された映画。
現在では一握りになってしまったが
小宅先生は
歴史は
記憶と記録から成ると話され、
芳醇な映画・映画館文化は
今のいわきのベースを創った
という事は忘れてはならないと強調
されました。