あけましておめでとうございます。
久しぶりに上達法についての話を書きます。
「一年の計は元旦にあり」で今年の抱負を考える手助けになれば。
上達方法を書くのは「楽に強くなる方法を教える」ためではなくて、「正しい努力の方法を教える」ために書いています。昔の自分に教えられたら良かったのになあ、という自戒を込めて書いています。
残念ながら、多くの将棋愛好家はそういう努力、ほんの少しでも良いのですが、ちゃんとした努力をしません。
努力をしないのにも理由があって、「ちゃんと努力しても強くならないこと」が怖いのです。だから「楽をして強くなりたい」なぜなら失敗しないなら怖くないもの。「将棋なんてただのゲームではないか」「努力していないだけだから負けてもいいんだ」と言い訳を考えたり、逆に負けを取り返したくて次から次へと対局だけ重ねたり。
恐怖心が意識の底に眠っています。と私が書くと、そんなことはないよ、何を言っているのか?とそっぽを向かれそうですが、これが人間の深層心理です。
私にももちろん当てはまりまして、ここ1,2年勝てなくなっていました。すると将棋を指すのが嫌だと思いますし、負けた将棋を振り返りたくなくなります。棋譜をつけたのに検討しないで1,2か月放っておいたりもしました。スランプはどうやら終わったようで、やる気は戻りました。こういう時にも名南将棋大会や東海団体リーグなどで指す、ブログを書くという習慣があってよかったです。精神論だけでは続かないときがあります。
話はもどりますが、大多数の人は努力をしません。その裏で、少し努力すれば(ある程度までは)簡単につよくなります。
大多数の人=級位者
努力をする一部の人=段位者
さらに努力を続ける人=アマ強豪からプロまで
という構図です。
プロになっても努力して負けるのが嫌で逃げてばかり(遊んでばかり)の先生もいるようですが、心の底では怖いのですから仕方ないといえば仕方ないことです。立場が変わっても同じようなことをするのが人間です。
これは将棋に限らず、ほぼすべてのこと、趣味でも仕事でも一定以上のスキルを必要とすることに共通です。
子どもは速く強くなる、というのもこれに関係しているのでしょう。学校の勉強は嫌かもしれませんが(劣等意識があると逃げたくなる)、楽しいと思えば自分から将棋を学ぶからです。大人だって楽しければ強くならないわけがありません。それを子供たちが強くなるから大人の自分は弱くなってもよいのだ、と恐怖心からの逃げ道を用意してしまうと、ただ弱くなるばかりです。
気が付きましたか?楽しければ恐怖心は消えてしまうのです。
将棋で勝とうとすることは、(勝つことが目的のゲームですから逆説的ですが)負けることから逃げることになっているかもしれません。これでは恐怖心に支配されています。
学ぶこと自体を楽しめることのほうが良いのです。将棋を好きになって、努力すればした分だけ自分の技術が向上した。良い手が指せるようになった、指している手の意味が理解できた。ということを目標にするほうがよほど楽しいともうのです。
学校の勉強はつまらない、仕事はつまらない、のではなくてあなたの目標が間違っていたんです。なにか勉強したら、昨日よりも知らないことが理解できたはず。小学校の頃まで戻らないといけないかもしれませんが、勉強が楽しい時もあったはずです。人間の脳は新しい刺激に快感を得るものですから。それが周りの人との比較とか、人に認められないとか、そういうつまらないことでゆがめられてしまうのです。
勉強がわからないとしか思えなかったり、仕事が毎日同じことの繰り返しだとか、成果だけを目標にしていたりとか。将棋ならこっぴどく負かされて折れてしまうのならば、(究極的には)目標設定の間違いです。
「将棋が好きだからもっと楽しむために強くなる」と声に出してみましょう。
世の中の大抵のことは、正しい努力をすれば技能は向上します。才能という言葉で片付けられるようなものは少ないです。特別な才能がなければいくら努力しても無駄、なんてことは少ないです。もちろん物理的なこと(身体的理由など)で排除されてしまう場合、あるいは時間的に期限があるので無駄に終わってしまうということはありますが。
アマチュアで将棋を趣味にする限りにおいては、そういう制約からは解放されているはず。
藤井聡太先生の活躍を見ていると才能について考えさせられますが、彼には特別な才能があるから私には届かない、と考えてしまうよりは、「自分にも才能があるから、それを信じて努力する」というほうが良い結果を出せるでしょう。藤井先生に才能があったのでしょうが、かなりの努力があったのです。あまりにも若いのでその努力が小さく見えたりするので天才だ(だから他の人はかなわないのだ)とごまかすところもあるのでしょう。
長くなったのでまた明日。とりあえず心理面を書いてみました。
久しぶりに上達法についての話を書きます。
「一年の計は元旦にあり」で今年の抱負を考える手助けになれば。
上達方法を書くのは「楽に強くなる方法を教える」ためではなくて、「正しい努力の方法を教える」ために書いています。昔の自分に教えられたら良かったのになあ、という自戒を込めて書いています。
残念ながら、多くの将棋愛好家はそういう努力、ほんの少しでも良いのですが、ちゃんとした努力をしません。
努力をしないのにも理由があって、「ちゃんと努力しても強くならないこと」が怖いのです。だから「楽をして強くなりたい」なぜなら失敗しないなら怖くないもの。「将棋なんてただのゲームではないか」「努力していないだけだから負けてもいいんだ」と言い訳を考えたり、逆に負けを取り返したくて次から次へと対局だけ重ねたり。
恐怖心が意識の底に眠っています。と私が書くと、そんなことはないよ、何を言っているのか?とそっぽを向かれそうですが、これが人間の深層心理です。
私にももちろん当てはまりまして、ここ1,2年勝てなくなっていました。すると将棋を指すのが嫌だと思いますし、負けた将棋を振り返りたくなくなります。棋譜をつけたのに検討しないで1,2か月放っておいたりもしました。スランプはどうやら終わったようで、やる気は戻りました。こういう時にも名南将棋大会や東海団体リーグなどで指す、ブログを書くという習慣があってよかったです。精神論だけでは続かないときがあります。
話はもどりますが、大多数の人は努力をしません。その裏で、少し努力すれば(ある程度までは)簡単につよくなります。
大多数の人=級位者
努力をする一部の人=段位者
さらに努力を続ける人=アマ強豪からプロまで
という構図です。
プロになっても努力して負けるのが嫌で逃げてばかり(遊んでばかり)の先生もいるようですが、心の底では怖いのですから仕方ないといえば仕方ないことです。立場が変わっても同じようなことをするのが人間です。
これは将棋に限らず、ほぼすべてのこと、趣味でも仕事でも一定以上のスキルを必要とすることに共通です。
子どもは速く強くなる、というのもこれに関係しているのでしょう。学校の勉強は嫌かもしれませんが(劣等意識があると逃げたくなる)、楽しいと思えば自分から将棋を学ぶからです。大人だって楽しければ強くならないわけがありません。それを子供たちが強くなるから大人の自分は弱くなってもよいのだ、と恐怖心からの逃げ道を用意してしまうと、ただ弱くなるばかりです。
気が付きましたか?楽しければ恐怖心は消えてしまうのです。
将棋で勝とうとすることは、(勝つことが目的のゲームですから逆説的ですが)負けることから逃げることになっているかもしれません。これでは恐怖心に支配されています。
学ぶこと自体を楽しめることのほうが良いのです。将棋を好きになって、努力すればした分だけ自分の技術が向上した。良い手が指せるようになった、指している手の意味が理解できた。ということを目標にするほうがよほど楽しいともうのです。
学校の勉強はつまらない、仕事はつまらない、のではなくてあなたの目標が間違っていたんです。なにか勉強したら、昨日よりも知らないことが理解できたはず。小学校の頃まで戻らないといけないかもしれませんが、勉強が楽しい時もあったはずです。人間の脳は新しい刺激に快感を得るものですから。それが周りの人との比較とか、人に認められないとか、そういうつまらないことでゆがめられてしまうのです。
勉強がわからないとしか思えなかったり、仕事が毎日同じことの繰り返しだとか、成果だけを目標にしていたりとか。将棋ならこっぴどく負かされて折れてしまうのならば、(究極的には)目標設定の間違いです。
「将棋が好きだからもっと楽しむために強くなる」と声に出してみましょう。
世の中の大抵のことは、正しい努力をすれば技能は向上します。才能という言葉で片付けられるようなものは少ないです。特別な才能がなければいくら努力しても無駄、なんてことは少ないです。もちろん物理的なこと(身体的理由など)で排除されてしまう場合、あるいは時間的に期限があるので無駄に終わってしまうということはありますが。
アマチュアで将棋を趣味にする限りにおいては、そういう制約からは解放されているはず。
藤井聡太先生の活躍を見ていると才能について考えさせられますが、彼には特別な才能があるから私には届かない、と考えてしまうよりは、「自分にも才能があるから、それを信じて努力する」というほうが良い結果を出せるでしょう。藤井先生に才能があったのでしょうが、かなりの努力があったのです。あまりにも若いのでその努力が小さく見えたりするので天才だ(だから他の人はかなわないのだ)とごまかすところもあるのでしょう。
長くなったのでまた明日。とりあえず心理面を書いてみました。