小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

今年最初のブログ――AIは人類に何をもたらしてくれるのか

2021-01-05 05:30:37 | Weblog
2日の深夜、眠い眼をこすりながらNHKのBSスペシャルを見た。『私たちのデジタル医療革命2021』というタイトルで、久しぶりに三宅民夫氏の司会進行を見た。
医療の世界でもデジタル技術は急速に進んでいる。一つは医療機器の進歩に欠かせないデジタル技術。この分野でデジタル化が急速に進んでいるのが画像診断機器だ。私が若かった頃、画像診断機器はレントゲンしかなかった
レントゲン(X線撮影)装置を世界で初めて開発したのはドイツのシーメンス社で1898年である。が、レントゲンが医療機器に応用されるようになったの
は1930年代に入ってからである。主に骨折や肺結核の診断に使用され、今日では総合病院だけでなく、ほとんどの整形外科クリニックをはじめ内科クリニックや歯科クリニックなどに設置されている。

●AIが医療現場に入り込めない理由
医療分野における画像診断は約一世紀にわたってレントゲン機器しかなかった。が、1948年、ウィリアム・ショックレーらが、のちに「3本足の魔術師」と呼ばれることになるトランジェスタを発明したことで、「第2の産業革命」と呼ばれるデジタル革命が始まった。余談だが、このトランジェスタを初めて家電製品に応用したのがソニーで、世界初のトランジェスタ・ラジオの発明に成功し、それがソニーの源流となっている。パナソニックの場合は二股ソケットの発明が源流だ。
医療分野へのデジタル技術の応用は、まず画像診断機器から始まった。1967年、ソ-ンEMI研究所のハンズフイールドがCTを考案、71年に実用化され、脳の断層撮影に初めて成功したとされている。
CTの発明以降、デジタル医療機器の開発が急速に進み、当時のCTでは不可能だった3次元的な画像情報を得る機器として1973年、ランターバーらが初めてMRIを提案、1978年には初めて人体画像の撮影に成功、2000年代に入って急速に普及するようになった。また手軽な画像診断機器としては超音波による腹部(胃腸や肝臓など)や膀胱などの診察に使用されている。
医療機器のデジタル化はさらに進み、2007年には極めてコンパクトでクリニックでも設置できる(価格面のことではない)3次元CTが登場する。実際、3次元CTを「売り」にするクリニックも現れ出している。が、受診料がかなり高額で、保健医療の対象にはまだなっていないようだ。
また胃カメラや大腸カメラの分野でも、必ずしもデジタル技術の応用とは言えないが、小型化が急速に進んでいる。私が人間ドックで初めて大腸カメラによる診察を受けたのは今から40年近く前だが、気が遠くなるほどの激痛だった。ドックでの最後の検査で、看護婦(当時の呼称)いわく。「最初に大腸カメラをすると、患者さんが逃げ出してしまうので、最後にしている」との優しい心遣いによるという。ふざけるな!…と、心の中で叫んだ。
しかし、なぜか医療分野でのデジタル革命は、遅々として進んでいないように見える。手術やCT、MRIやカメラなどで得られる画像の診断といった医療行為の分野にはなかなか応用されないのだ。なぜか。
工業社会においてはデジタル化の波はどんどん押し寄せている。極端に言えば生産工程の無人化によって、工場には生産装置や機器類のメンテナンス要員しか必要ないといったケースも生じている。生産現場で働いていた工員たちの「既得権益」など、だれも考慮してくれない。
だが、医療の世界では医師や技師、看護師といった「資格取得者の既得権益」を守るために、彼らの「専門」分野でのデジタル革命は大きな壁で妨げられているのだ。いったい医療は誰のためにあるのか。ふざけるな…と心の中で私は叫び続けている。私も弱い人間だから、医師に向かっては正論を言えない。「命を預ける」という弱みがあるからだ。悔しい…けど、諦めざるを得ない。
実は医者の側にも、誤診をなくすことはできないことから、最近は「セカンド・オピニオン」を認めるようになった。
1963年、医療界に一つの激震が走った。名医中の名医とうたわれた東京大学医学部の沖中重雄教授が退官に際して行った講義で「自分の誤診率は14.2%だった」と公表したのである。もちろん当時はAIなんか影も形もない。だからもしAIが診断していたらなどという設問を立てることは無意味である。
ただ断言できることは画像診断に関しては、いかなる名医よりAIの方が優れているということだ。かつてテレビ(局は覚えていない)で自動車のナンバー・プレートを5度か10度くらいの角度で写した写真を、視力が抜群にいい人間とAIに読み取らせるという実験映像を流したことがある。人間にはまったく読み取れなかったが、AIは正確に読み取った。
画像診断機器がいくら発達しても、診断するのが人間の医者だったら、誤診は免れ得ない。が、医者の側は自分の「既得権益」を絶対手放そうとはしない。
ガースーよ、剥奪しなければならない「既得権益」の世界は学術会議だけではないよ。

●AIは人間に勝てるか――永遠のテーマ
ではAIには何ができ、何ができないのか、考えてみたい。AIの可能性について議論する場合、つねに問題になるのは、AIがいつの日か、人間の能力を超えることができるかというテーマである。
その場合、いったい人間のどういう能力をAIが超えるか、の基準をあらかじめ明確にしておかないと議論する意味がない。
よく言われていたのは、AIには感情がないということだが、すでに「疑似感情」を持つAIロボットが続々生まれている。飼い主と一緒に喜んでくれたり悲しんでくれたりするペット・ロボットや子供ロボットだ。コンピュータはもともとAIを搭載していなくても学習能力を持っており、AIロボットは飼い主と戯れている間に飼い主の言葉から感情移入の能力を有しており、かつ学習によって「疑似感情」能力を向上させている。
次に思考力だ。思考力は人間も学習によって培っていくが、AIが人間のように、自ら学習し思考力を高めることができるかという問題だ。とくにクリエイティブな能力をAIがもちうるかということが最大の問題だ。
史上最年少で将棋「二冠」を達成した藤井聡太君の場合、人間棋士を相手の練習よりAI相手の練習の方がはるかに多いそうだ。藤井君の相手をしている「AI棋士」は、おそらく将棋界で最強の実力をすでに持っているのではないか、と私は思っている。聡太君の相手をすることで、彼の「AI棋士」は相当学習して力をつけているからだ。
人間は、聡太君や不世出の天才と言われた羽生善治棋士でも、長時間の対局で思考力も次第に鈍っていくが、AIは思考力が鈍るどころか対局中にも思考力にさらに磨きをかけている。もし聡太君の「AI棋士」と羽生氏の「AI棋士」をオンラインでつないだら、日本中の棋士が束になってかかってもかなわない「最強AI棋士」が誕生するかもしれない。
が、「AI棋士」が、かつて見たこともない一手を生む能力を持ちうるか、と考えたら疑問がある。数年前、NHKが確か『スペシャル』だったと思うが、羽生棋士と「AI棋士」の対局を放送したことがある。このとき、AIは初手で王を金の頭に動かすという手を打った。そんな手を打つ棋士がいるわけがなく、AIが学習しているわけがない。で、びっくりした記者がプログラマーに「そういう手を打つよう、プログラミングしたんですか」と聞いた。私もテレビを見ていて同じ疑問を持った。が、プログラマーは「いや、そんなプログラミングはしていない。私自身がびっくりしている」と答えた。この番組を作ったプロジューサーは、AIがクリエイティブ能力を持ちうることを証明したかったのかもしれないが、明らかにやらせである。
実は、AIが絶対に、永久に獲得できない、人間にしか持ちえない能力は、「疑問を持つ」という能力だと私は考えている。
私は前にも書いたが、論理的思考力を培うためのスタート・ラインは「赤子のような素朴な疑問を持つこと」である。
私は人間が「神」(が存在すればの話だが)から授かった最大の能力は「疑問を持つこと」だと思っている。疑問を持たなかったら、解決はない。解決すべき問題の所在に気づかないのだから。
ニュートンが「万有引力の法則」を発見したきっかけは、リンゴの実が木から落ちるのを見て疑問を抱いたことにあるという、あまりにも出来すぎたエピソードがある。そういうエピソードは大体後から面白おかしくつくられることが多く、もしこのエピソードに多少の真実が含まれているとしたら、たぶんニュートンが子供のころに目の前でリンゴの実が本当に風も吹いていないのに(おそらく実が熟したため?)、ポトリと落ちたのを見て(そういう場面に遭遇したこと自体、奇跡的と言えるかもしれないが)、子供心に疑問を抱き、その記憶がずっと残っていて、そのことが万有引力の発見につながった可能性はある。
もしAIが人間から問題を与えられたら、かなりの確率で正答を出すだろうが、その場合もあらかじめ人間が「解決すべき疑問」を持っていてAIに解決法を見つけさせようとするからである。
たとえば、ガースーは4日になってようやく緊急事態宣言の発令に前向きに取り組むことを発表した。2日に首都圏の4知事が首相官邸を訪れて緊急事態宣言の発令を要請したのに、ガースーは対応を西村・内閣府コロナ感染担当相に任せて自分はさっさと議員宿舎に引き上げた(引き上げたと書けば格好はつくが、実質は逃げ出した)。そのうえ3日にはラジオ放送に出演して緊急事態宣言の発令には消極的な発言をしてメディアから猛反発を食った。もし、AIにコロナ感染対策を考えさせていたら、おそらく11月の後半には「地域限定の緊急事態宣言を発令すべし」という答えを出していただろう。
ガースーが逡巡し続けたのは、二階自民党幹事長にお伺いを立てずにGo Toトラベルを独断で一時停止したことで、二階氏のご立腹を買ったためと思われる。「二の舞」を踏むと9月の総裁選で突き放されることを案じ、ガースーが二階氏のご機嫌が直るのを待っていたからに違いない。AIは学習能力によって「疑似感情」は持つことができても、そういったこざかしい計算能力は学習していないから、感情抜きに最も正しいと思える解答を出してくれる。
※4日のNHK『ニュースウォッチ9』を見ていてびっくりした。ガースーが首都圏限定の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況に追いつめられていることについて、経済界の懸念の声を集中的に報道した。それはいまのNHKのスタンスとして不思議でも何でもないが、びっくりしたのはNHKの女子アナのエース格である和久田麻由子アナがこのニュースの最後を締めくくったひと言である。「緊急事態宣言が出されたら、経済はどうなるんでしょうか」という、常識はずれの発言だった。NHKの方針として発言を強要されたのかどうかは知らないが、経済はいったん疲弊しても、復活できる潜在力があれば復活できるが、コロナで死んだ人はイエス・キリストと違って復活することはありえない。このバカ女は何を考えているのか。


●チャップリンは「喜劇王」だったのか、それとも「哲学者」だったのか?
 話はちょっと飛ぶ。若いころから私が抱いていた疑問の一つだ。
 チャップリンは「喜劇王」として一世を風靡した。しかし、喜劇役者はその後も続出している。なぜチャップリンだけがいまでも「喜劇王」として人々に愛され、記憶に残っているのか。
 彼の喜劇は産業革命を痛烈に批判した作品が多い。労働者が機械の奴隷となる姿を「喜劇的」に描いた作品が多い。チャップリンが否定的に描いた産業革命とは何だったのか。なぜチャップリンは産業革命を否定しようとしたのだろうか。
産業革命は大量生産・大量消費の時代を切り開き、多くの人が自動車や電気製品など、文明の利器を容易に入手できるようにした。多くの人は文明の利器に囲まれた豊かな生活を享受できるようになった。
 いったい、産業革命とは何だったのか。なぜチャップリンは猛烈な拒否感を持ったのか。いま、だれもチャップリンに会って、「あなたはなぜ産業革命に拒否感を持ったのか」と聞くことはできない。
 そういう時、ネットは極めて有利な情報源になる。産業革命についても諸説があるし、チャップリンについても様々な評価がある。私はこのブログで産業革命論をぶつつもりもないし、チャップリンが単なる「喜劇王」だったのか、それともまれにみる「哲学者」で、自分の哲学的思考を表現する手段として喜劇映画を選んだのかを深掘りするつもりもない。
 実は、私はチャップリンにそれほど興味を持っているわけではない。いま私たちはどういう時代に向き合っているか、ということを考えている。
アルビン・トフラーが『第3の波』を著して(日本語訳:1980年)世界に衝撃を与えたことを覚えている方は、いまどのくらいいるだろうか。
 トフラーは人類の文明史を三つの波としてとらえた。「第1の波」は農業革命であり、「第2の波」が産業革命(工業社会)、そして今「第3の波」である情報革命(脱工業化社会)に人類は直面しているという説だ。とりあえずトフラー説に従って、私たちはいま情報革命のどういう時代に直面しているか、考えてみたい。

●トフラーが与えた衝撃
 とりあえずトフラー説に従って、と書いたが、本当に情報化社会は脱工業化を進めたのかの検証が必要だ。
 まず「第1の波」は農業生産力の飛躍的増大をもたらしたとされている(本当にそうかは、私には検証できない)。「第2の波」の産業革命は間違いなく工業社会の飛躍的拡大をもたらした。そのことは検証するまでもなく、だれも否定できない。
いちおう農業革命(実態は不明)が人類を飢えから解放したとしよう。農産物の生産コストが飛躍的に低下したからか(検証不能)。が、「第2の波」である産業革命は工業製品の生産コストを間違いなく飛躍的に下げた。その結果、自動車や家電製品などの工業製品が、多くの人たちの手に届くようになった。これは疑いようのない事実である。
 では「第3の波」である情報革命は従来の革命と同様に、何かの生産コストを飛躍的に下げたのか。農業革命は農産物の生産コストを大幅に下げたか。トフラーはその証明はしていない。実際に農産物の生産コストを大幅に下げたのは、産業革命で人手に変わる農業危機が続々生まれたからである。また産業革命は工業製品の生産コストを大幅に減少し、大量生産大量消費の工業化社会を実現したことは否定できない。
 私は別に情報革命を否定するつもりはないが、情報化社会が実現したことは、産業革命をさらに推し進めたことと、人々が知る権利の条件や誰もが情報を発信できる手段を持ち得たことに過ぎないと、私は思う。ただ、トフラーの時代にはそういう手段を人類はまだ手にしておらず、トフラーが現在さらに未来の情報化社会をどこまで見抜いていたかには疑問がある。
 情報が「価値」を持つ時代はとっくの昔からあり、たとえば有名なエピソードとしては大財閥のロスチャイルド家がそのきっかけをつかんだ英仏戦争で、イギリスが仏ナポレオン軍とのワーテルローの戦いで勝利したという事実を英政府より早く知り、あたかもイギリスが負けたかのような沈鬱な表情でイギリス公債の取引所に姿を現し、彼のしおれ切った姿を見た投資家の投げ売りで暴落した英公債を買い占めて巨利を得たことがきっかけという話がある。
 だから情報に価値があることは、別にトフラーが言い出すまでもなく周知の事実であり、戦争でもビジネスでも情報をいち早く入手することにみんな必死になった。少なくともトフラーの時代にはパソコンはまだ姿もなく、メイン・コンピュータが銀行で導入されだしたころで、情報の価値化が必要とされていた時代ではなかった。
 が、トフラーの『第3の波』が社会に与えた衝撃は大きく、情報化の流れが一気に進みだしたことは否定できず、コンピュータの出現が社会を大きく変えたことは事実であり、トフラー自身、思いもよらなかったことが生じたとも言える。いずれにせよ、トフラーが提唱した情報化社会は、実は「脱工業化社会」の実現ではなく、工業化社会の中での技術革新に過ぎなかった、というのが私の見方である。

●AIと向き合う私たちが抱えたテーマは?
そう考えると、いわゆる「IT革命」はトフラーの「第3の波」の一部なのか、あるいは「第4の波」なのか。
いずれにせよ、AI技術が「IT革命」を大きく進めたことは間違いないと言ってもいいだろう。そして産業革命や、これまでの情報化社会をリードしてきたコンピュータと違って、AIは人間の能力も高めてくれる技術だということも分かってきた。実際、聡太君が史上最年少記録を次々に塗り替えてきたのは、彼が「AI棋士」と戦ってきた結果である。もし「AI棋士」の誕生がなければ、聡太君の快挙もありえなかったかもしれない。
現代に生きる私たちは、これからAIをどう自分の能力を高めるために活用できるかという大きなテーマに向かっている。たとえば、いま私がブログを書いているパソコンは、学習能力はあるが、私の疑問を解決してくれるわけではない。私はこのブログだけでなく、ブログを書きながら何かを調べる必要が生じたとき、インターネット検索で調べる作業が常態化している。もし、私が書いたことを、AIパソコンが「それは間違っています。事実はこうです」と手助けしてくれる時代がそう遠くない将来、来るのではないかと思っている。AIに教えられることで、私たち人間が自分の知的能力を高めることができる時代がそこまで来ているのではないか、という期待さえある。
チャップリンが産業革命を、人間が機会に支配される時代と考えたように、人間がAIに支配されるか、人間がAIを上手に使いこなすことによって自分自身の知的能力を高めることができるか、そういう岐路に私たちは差し掛かっているのかもしれない。