小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

働き方改革の問題点を検証してみた② 高度プロフェショナル制度の疑問

2019-04-15 00:05:51 | Weblog
 8日にアップしたブログは、実は「働き方改革」の本丸ではない。ではなぜ私は、「働き方改革」にとって派生的な政策にすぎない外国人労働者の受け入れを3回連載のトップに持ってきたのか。
 安倍政権の政策が、その場しのぎの場当たり的なものに過ぎないことが、最も象徴的に表れた対症療法的「人手不足」対策でしかなかったからだ。私はブログで何度も書いてきたが、いかなる政策も薬と同様、必ず副作用を伴う。与党も野党も地中深くに根を張った政治哲学がないから、与党はその場しのぎの政策に終始するし、野党はその政策の副作用ばかりを批判する。
 ある政治集会で、野党第1党の枝野幸雄・立憲民主党代表が「メディアは、私たちが反対ばかりしていると批判するが、私たちは政府が提出した法案の8割に賛成している。反対ばかりしているわけではない。が、そうした実態をメディアはちゃんと報道していない」とメディア批判をぶった。枝野氏が嘘をつくとは思えないから、実際成立した法案の8割くらいは、与党も野党の修正案を取り入れて成立させていると思う。が、野党もとんでもない勘違いをしているケースもある。
 例えば「カジノ法」と言われているIR法。「ギャンブル依存症が増える」と野党は全面的に反対を打ち出しているが、カジノができてもギャンブル依存症が増えるとは限らない。いまパチンコ業界では客離れが進んでいるが、ではそれだけギャンブル依存症の人が減ったのかというとそうではない。ほかのギャンブルに人気が移っただけで、ギャンブル依存症の人たちは依然として健在(?)である。だからカジノができたからといってギャンブル依存症の人が増えるとは限らない。ギャンブル業界での競争が激化するだけの話だと私は考えている。
 ただし、大阪とか横浜とかの大都市に「カジノ村」を誘致することはいかがなものか、と私は思う。「ギャンブル=暴力団=売春組織」は、落語の三題噺ではないが、切って切れない関係にある。私が住んでいる地域は、実際にそうかどうかは別にして、日本ではもっとも文化のにおいを感じさせると、多くの国民から思われている地域だ。それが、やくざと売春婦の街になんかされてたまるかという思いがある。外国人観光客を誘致して、疲弊した地域経済を活性化するのが狙いだったら、福島に「カジノ村」をつくったらどうか。名ばかりの「復興五輪」より、いまだ東北大震災の痛手から立ち直れていない東北地方にとって「振興のシンボル」になることは間違いないだろう。もちろん山の中にポツンと「カジノ村」だけ作っても客は来ないだろうから、交通インフラをはじめ魅力的な都市づくりも同時に行う。アメリカのラスベガスだって、もともとは砂漠だった。アメリカがラスベガスをつくったくらいの度胸でやれば、福島が日本を代表する一大観光拠点になるかもしれない。

 カジノ法のことはともかく、実は「働き方改革」はいい意味でも悪い意味でも、日本型雇用関係を根底から変革する可能性がある。「高度プロフェショナル制度(以下「高プロ制」と略す)」と「同一労働同一賃金制度」が、終身雇用・年功序列を前提としてきた雇用・賃金・人事の体系を一転してしまうかもしれない。そうした根本的問題への考察を、これまで与党も野党も重要視してこなかった。そうなった責任は野党も負わなければならない。「残業代ゼロ政策」とか「過労死政策」といった、対症療法に伴う副作用にばかり焦点を当ててきたから、かえって「働き方改革」が包含する本質的問題が見えにくくなっている。私はあえて、隠れて見えにくい、こうした問題をあぶりだすことにした。連載2回目のこのブログでは高プロ制の光と影を検証する。
 実は高プロ制は突然出てきたわけではない。原点と言える「成果主義賃金制度案」があった。労働時間(勤務時間)で賃金を決めるべきではなく、会社への貢献度(つまり労働成果)によって賃金を決めるべきだという賃金制度の見直しが原案だった。いまではネットで「成果主義賃金制度」を検索しても高プロ制の原案となったこの法案についての記事は見つけられなかった。野党やメディアが当時、「残業代ゼロ政策」と猛烈に批判していたにもかかわらずだ。
 2014年4月に安倍総理が議長を務める政府の産業競争力会議が、サラリーマンやOLの賃金を、労働時間を基準にするのではなく働いた結果の成果を基準にした賃金体系に変更すること(「成果主義賃金制」)を検討し、6月に予定されていた成長戦力の改定に盛り込むことになっていた。私はこの時期、安保法制懇の集団的自衛権行使論への批判記事を集中的に書いており、5月21日になってようやくブログで3回にわたって記事を連載した。連載記事のタイトルは『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』である。その中で私はこう書いた。

 私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか。それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…。
 産業競争力会議で「残業代ゼロ」の対象として検討されているのは年収1000万円以上の社員だが、高給取りではなくても労働組合との合意で認められた社員も対象にする方向のようだ。ただし、いずれも本人の同意を前提とする。
 問題は、この労働基準法の改定につながる新しい仕組みの目的は何かということだ。公明党や連合は「長時間労働が増える」ことを不安視しているようだが、政府はいま正規社員の労働時間短縮によって非正規社員の正規社員への登用やフリーターの就職機会を増やすことに力を注いでおり、またアベノミクスを成功させるためにかつて自民政権が行ったことがない「従業員へのベースアップ」を経済団体に要請していることから考えても、公明党や連合が懸念しているような長時間労働が増えるような事態は防ぐ方策も、産業競争力会議は当然考慮するだろうと考えるのが合理的である。(※ 実際4月から実施された「働き方改革関連法案」では長時間労働に対する厳しい規制と罰則が設けられた。14年5月の時点ですでに私は、そうした対策が行われるだろうことを予見している。我ながら、お見事。「自分で自分をほめてやりたい」と、誰かが言ったね。これ、自慢話でゴメン。だが、ジャーナリストたるもの、この程度の見識は持っていないとね…)

 このブログ記事に続いて6月13日に投稿した『残業代ゼロ制度(成果主義賃金)を定着させるには、「同一労働同一賃金」を原則にしないと無理だ』でも書いたが、この問題について、この稿であまり深入りしすぎると、3回目に書くことがなくなってしまうのでこの辺でやめておく。
 このように、こうした考え方そのものを私は否定しているわけではない。人それぞれ考え方や価値観は違うので、私は絶対的に「正しい考え方」があるとは思っていない。思ってはいないが、私は私なりの考え方があるし、価値観もある。だからこれまで書いてきた著書32冊も私の考え方や価値観をもろに読者にぶつけてきた。読者が私の主張をどう理解し、どう判断するかは読者の自由であり出版社に届けられた読者の意見にはできる限り誠実に対応してきたつもりだ。いまでもブログに対する閲覧者の意見は、悪意丸出しの暴論でない限り可能な限り誠実に対応している。
さて高プロが抱えている根本的問題の検証に移る。高プロとは、高度な専門知識を持ち、一定の年収がある働き手を労働時間規制から外す制度のこと。具体的には年収1075万円以上の専門職(金融商品開発・金融商品ディーリング・アナリスト・コンサルタント・研究開発の5業務)には、勤務時間の制約もない代わりに残業代や休日出勤の手当てもつかない。さらにこの5業務についても高プロの対象者については年収基準だけでなく、具体的な業務内容についても厳しい規制がかけられている。それはいいのだが、問題は「誰のための、何を目的とした制度なのか」という根本的な問題が国会で一度も議論されていないことだ。だからこれらの業務に携わる社員は会社から厳しいノルマを与えられ、事実上の長時間労働を強いられかねないという疑問が解消されていない。
実はメディアで、いち早く「働き方改革」を実行に移したところがある。朝日新聞の「お客様オフィス」だ。はっきり言って「働き方改革」を悪用したケースの好例だ。
新聞社やテレビ局の大半は読者や視聴者の意見を聞く窓口を設けている。朝日新聞の場合、「お客様オフィス」がその部署だ。その「お客様オフィス」の営業時間(?)が平日は9:00~18:00、土曜日は9:00~17:00に短縮され、日祝日は閉店。ライバルの読売新聞の「読者センター」は年中無休で毎日9:00~22:00まで営業をしている。NHKテレビの「ふれあいセンター」も年中無休で9:00~22:00まで営業している。朝日新聞の読者窓口の担当社員はなんと優雅な勤務状態になったのか。
営業時間だけではない。朝日新聞本社(大阪以外の支社も)の「お客様オフィス」の電話番号はナビダイヤルに変えた。ナビダイヤル(0570から始まる電話番号)は、加入者が自由に電話料金を設定できる特殊な電話だ。不便なのは携帯電話やIP電話からはかけられないことが多いことだが、朝日新聞の場合はもっと悪質だ。以前は03から始まる一般市外電話番号を使っていたが、いまはナビダイヤルしかない。東京都23区内から固定電話でかける分には特別高い電話代を請求されるわけではないが、東京都23区外からは一般市外料金にさらに上乗せした電話料金を請求される。新聞の定期購読者が減少し続け、経営が苦しい事情は理解できないこともないが、新聞の購読者から寄せられる意見はメディアにとって、言うならセカンド・オピニオンだ。いや、朝日新聞にはそんな意識すらないのだろう。読者の意見を「聞いてやるのだから」という姿勢が見え見えだ。私は購読者として朝日との付き合いが長いだけでなく、現役時代には何度かコメントを求められたこともある。そういう意味では私にとって朝日は「大好き新聞」だが、一読者として言うべきことは言う。書くべきことは書く。朝日新聞の勝手「セカンド・オピニオン」を自負しているからだ。
実際、ごく最近「お客様オフィス」に電話したことを書く。
① 塚田厚労副大臣の「忖度」発言に関連して…忖度発言自体論外だが、「ハコモノ」公共事業に対する官僚の需給見通しが常に甘い。初めから「ハコモノありき」で、公共事業を実現するための数字合わせをするのが需給予測になっているのではないか。過去の大規模公共事業の事前の需給予測と結果を徹底的に分析する大型連載をやってほしい。
② 4月5日の社説「医師の働き方について 偏在対策に踏み込め」の主張について…地域医療確保のための具体策を厚労省に強く求めたことには異論はないが、もう一歩踏み込んで朝日としての提案が欲しい。私ならこういう提案をする。 ①地域医療に従事する医師や看護師に対して最低所得補償をする ②診療収入だけでは手が出ないCTやMRIなどの高度医療機器は国か地方自治体が無料レンタルする
同様の提案はNHKの「ふれあいセンター」にもしばしば行っている。たとえば政府の経済政策について、こういう検証番組をつくってほしいと何度も提案している。
少子化によって労働人口が減少していく中で、従来のようにモノづくりを経済政策の中心に据えるのは、間違っていると私は思う。自動車のように今でも国際競争力を維持している工業製品はどんどん減っている。電気製品やカメラは競争力を失いつつあるだけでなく、市場の激変にメーカーがついていけず、衰退を余儀なくされている。現に来日外国人は予想以上の伸びを続けているが、かつての「爆買い」のような日本製品の購入目的は大幅に減少し、日本人ですら知らない隠れた観光地を訪れる外国人が急増するなど、広い意味でのサービス産業の分野が拡大している。ips関連の医療技術の分野で日本が世界をリードしているのも、私は広い意味でのサービス事業と考えているが、日本の経済政策もモノづくりから広い意味でのサービス産業の育成にかじを切り替えるべきだといった趣旨の大型番組をつくってほしい、と。

さて高プロに代表される「働き方改革」は「誰のための、何を目的にした制度か」。このシリーズの1回目で私が書いたことを思い出していただきたい。
日本人は海外からどう見られているか。「働きすぎ」「OECD諸国で最低ランクの労働生産性」。これが海外から日本人労働者に与えられている「栄誉ある評価」だ。どうした、安倍さん、喜べるかよ。
前回のブログで、長時間労働に対する厳しい規制と罰則を設けたことについては評価したが、「労働生産性が低い」状態を放置したままで勤務時間だけ短縮したら、日本のGDPはどうなる? 当然下がるよね。景気回復どころではないではないか。労働生産性の低さを放置したままで、同様の低い労働生産性の外国人労働者を受け入れて、GDPだけ何とか維持しようというのは、経済政策としてはいかがなものか。
だから私は前回のブログで、労働生産性の低さについて、日本人は無能か、あるいは「働きすぎ」ではなくて「さぼりすぎ」なのではないかという論理的結論を導いた。
日本人がもともと無能なら、無理に背伸びをして欧米先進国並みの文化的生活を送ろうとするから長時間労働せざるを得なくなる。そういうのを「身の程知らず」という。その場合、長時間労働を規制するということは、私たちは文化的生活水準を途上国並みに引き下げる覚悟を持つ必要がある。実際、3回目のブログで書くつもりだったが、さわりだけ書いておくと、政府は「同一労働同一賃金」の基準を何も示していない。だから企業は運営について混乱するだろうが、現時点での解釈は「正規・非正規を問わず、同じ勤務形態で同じ仕事をしている場合、賃金に格差をつけてはならない」という程度でしかない。
簡単なケースで考えてみよう。スーパーのレジ係は研修中の新入社員を除いてほぼパートの女性が中心である。みんな同じ仕事に従事している。が、昼時や夕方時などレジによって行列の長さが違う。毎日買い物に来て各レジ係の仕事の効率を熟知している客は、行列が長くても効率よく客をさばいているレジ係の列に並ぶ。1時間あたりにさばける客の数が100人の人と50人の人が、同じ仕事だから同じ時間給というのが「同一労働同一賃金」の原則になったら(これが社会主義的「同一労働同一賃金」の体系で、この実験はすべての社会主義国で失敗した)、「グレシャムの法則」通り「悪貨は良貨を駆逐する」ことになることは必至だ。要領のいいひとは一生懸命仕事をしているふりをして実際には仕事の効率を落として、怠けるようになる。つまり「さぽり方」の技術を習得することに必死になる。社会主義的「同一労働横溢賃金」の体系がすべて失敗に終わったのは、こうして労働生産性が極端に低下した結果である。これ以上書くと次のブログで書くことがなくなってしまうので、この辺でやめておく。

高プロが包含する致命的欠陥を指摘しておく。野党やメディアは「対象者の労働時間規制を外す残業代ゼロ政策だ」と批判する。その批判が全くの的外れだとまでは言わないが、一応高プロ対象者に対しても長時間労働の規制や有給休暇の取得を義務付けるなどの対策は講じており、「過労死」が爆発的に増えるとは限らない。むしろ問題なのは企業側の権利としてこの制度が運営されないか、つまり高プロ対象者に対して過大な成果(目標)を設定して、一定の賃金に抑えながら高い成果を要求することができる制度になる可能性が払しょくしきれていないことにある。高プロ対象者は「年収1075万円以上」という制度枠を定めたことが、そうなる危険性を拡大する可能性を高めている。
高プロが、企業側にとって有能な人材を安上がりに雇用できる制度ではなく、労働者が効率よく働き、より生産性を高めるための制度にすることを目的にするのであれば、年収のいかんにかかわらず、高プロは労働者の権利である、と位置付けるべきだった。つまり、勤務時間や勤務体系の規制を一切外し、企業側との契約に基づいた成果さえ上げれば、仕事をする場所や働く時間帯さえ労働者側の自由裁量を認めるという制度にすべきだ。その場合、企業側との契約に基づく業務以外の「サービス業務」を命じられた場合は、高プロ従業員は「サービス業務」を拒否できる権利の保障と、もしやむを得ず「サービス業務」に従事した場合は、その労働対価として労働基準法で定められた残業や休日出勤と同等の割増賃金を別途請求できる権利も保証することが必要だ。
私は20数年前、ビル・ゲイツにインタビューするため米シアトル郊外のマイクロソフト本社を訪問したが、社員の働き方の自由度にびっくりしたことを覚えている。仕事場はすべて個室で勤務時間中なのに、広い芝生の広場では社員が寝転んで音楽を聴いたり本を読んだり、仲間同士でだべったり、さすがに飲酒は駄目のようだが、本当にのびのびした雰囲気を感じた。これなら、当然社員の労働生産性は高くなるだろうという確信を抱いたことがある。
高プロ対処にするには従業員側の同意が必要という制約があること自体、この制度が労働者側の働き方の自由度を高めることによって労働生産性を向上させることにあるのではないことが、もはや明らかになったと言えよう。その根底には「従業員の自由度を高めると、さぼってばかりいるのではないか」という企業側の従業員に対する根本的な不信感があるからではないか。この制度の背景にはそうした要素が見え隠れしているような気がしてならない。
野党も労働組合もメディアも、高プロが目的とすべきことは何かという原点を見据えて、従業員の働き方の自由度をより高めることによってOECD諸国の中で最低ランクとされている労働生産性を向上させるような制度運用を、政府や企業に要求すべきではないか。私自身、自由業だっただけに、働き方の自由度が労働生産性に直結していることを、身をもって体感してきたことを、最後に付け加えておく。(この稿、終わり)