この4月1日から「働き方改革関連法」が実施されることになった。そこで、この法律の実施に伴う「光と影」をあぶりだしておきたい。今回は、焦点を「外国人労働者の受け入れ」問題、「高度プロフェショナル制度」問題、そして「同一労働同一賃金」問題の三つに絞り、3回にわたってブログを書く。第1回目は「外国人労働者の受け入れ」問題を検証する。
すでにメディアも、また地方行政機関も、「外国人労働者の受け入れ」によって生じるであろう近隣の日本人住民とのトラブルについては懸念の声を上げており、その問題に関しては私もすでにブログで何度も書いてきた。
果たして「先見の明」と言えるのかどうかは別にして、作家の曽野綾子氏が4年以上前の2015年2月11日、産経新聞に「労働力不足と移民」をテーマにコラムを書き、その後、曾野提案をめぐってテレビやラジオも含めてメディアで大論争が始まったことがある。
曾野氏の主張の趣旨を簡単に紹介しておくと、南アでの人種差別政策廃止後のある事件(白人だけが居住を認められていたマンションに黒人が住むようになって環境が悪化し、白人がマンションから退去する事態が生じたこと)を例に挙げ、「仕事は人種の分け隔てなくできるが、居住区だけは人種ごとに分けたほうがいい」というのが曾野氏の「移民政策論」。この移民政策論が人権派言論人やリベラル派政治家たちから「新アパルトヘイトだ」と袋叩きにあったことがある。私も当時、ブログで曽野氏を厳しく批判したことを覚えている。
難民問題と外国人労働者居住問題を一緒に論じることはできないが、IS(イスラム国)がシリア・イラク地域で猛威を振るいだし、難民がヨーロッパ諸国にどっと押し寄せ始め、イギリスがEUからの離脱に踏み切ったのも、「外国人を受け入れることがいかに困難か」を歴史が証明したと言えなくもない。
私が前に書いたことだが、日本人が海外に行っても現地の近隣住民とトラブルを起こすことはほとんどない。自分を押し殺すことがいいことか悪いことかの価値観は別にして、日本人の精神的規範として培われてきたことの一つに「郷に入れば郷に従え」という掟(おきて)のようなものがある。この格言の出典は中国の『童子教』にあるようだが、中国ではほぼすたれた儒教精神が日本にはいまだに根付いているからだ。もっともヨーロッパでもローマ時代に「ローマにいるときはローマ人がするようにせよ」という格言があったようで、個人主義思想が生まれ育っていく過程で、そういったトラブル回避の知恵も失われていったのかもしれない。
そういう意味では、日本に働きに来る外国人に、「日本は個人主義の国ではないから、あなたも個人主義的な考え方を捨てなさい」と強要していいのだろうか、という気はする。はっきり言って、地域社会で様々な価値観を持つ多人種が共生することは困難かもしれない。例えばごみの捨て方ひとつにしても、どうやって分別方式を理解させ納得させることができるか、すでに各地で生じているトラブルの数々を見ても容易ではない。「新アパルトヘイト」と非難されようと、外国人労働者を受け入れるには曾野氏の提案を受け入れるしかないのかもしれない。私もかつては人権主義の立場から曾野氏を批判するブログを書いたが、曾野氏が反論したように「差別と区別は違う」と割り切るしかないのだろうか。少なくとも人権主義の立場から、どうやれば外国人労働者と日本人が地域社会で共生できるかの具体的提案がないなら、理想だけを主張しても問題の根本的解決にはならない。
単純な人権主義者の欠陥は、具体的対策なしに理想論だけ唱えて気持ちがすっとしたと自己満足してしまう点にある。理想は理想として私も否定するわけではないが、現実社会の中で理想をどう実現するかの方法論なしに、現実的解決論を提起した曾野氏を理想論だけでレッテル張りの批判をしても、自己満足の域を出ない。
ただ、そうした問題は別として、なぜいま外国人労働者を受け入れなければならないのかという根本的問題の検証は別だ。
そもそも日本の政治家には哲学があるのかと疑いたくなる。何か問題が生じても、初期のうちに手を打てば大ごとにならずにすんでいたのに、末期的状態になるまで放置し、これ以上は放置できないという段階になって初めて対症療法的処置を考える。政府だけでなく日銀の金融政策も含めてだが、バブルを招いたのも景気対策のための末期的対症療法的経済政策だったし、バブルを退治したのも同様に末期的状態になるまでバブル景気を放置しておいて、悪性インフレを招きかねないという状態になってようやく対症療法的経済政策に乗り出して、挙句の果てに「失われた20年」を招いた。政府の経済政策にも日銀の金融政策にも哲学がないから、常に後追いの対症療法的対策しか打てない。振り回されて右往左往させられるのは国民だけだ。
外国人労働者の受け入れも同じだ。現在は確かに人手不足の状態が続いている。が、そうした状態が今後も続くとは限らない。労働力の需給バランスが崩れたとき、「もう外国人労働者はいらないから帰国してください」と、そのときの都合で言えるだろうか。もし政府がそういう方針を打ち出したら、当然諸外国から日本は袋叩きに会う。そうなる事態も想定したうえで、政府は外国人受け入れ方針を決定したのだろうか。とりあえず政府の外国人受け入れ態勢を見てみよう。受け入れる外国人労働者には2種類と定められている。
「特定技能1号」労働者は在留5年を上限とし、家族の帯同は不可。
「特定技能2号」労働者は何回でも更新が可能で(事実上永住権の付与)、家族の帯同も可。ただし、2号対象の労働者は建設・造船などに限定。
また現時点では最大で34万5150人の受け入れを想定し、必要に応じて受け入れ停止の措置をとる。さらに大都市への集中を防ぐための必要な措置もとる。
果たしてこれが問題解決のための最善の対策と言えるだろうか。「必要に応じて受け入れ停止の措置をとる」というが、それは新たな受け入れを停止するということで、すでに日本で働いている外国人を排除するということは意味しない。だいいち、そんなことをしたらすでに書いたように諸外国から日本は袋叩きに会う。あのトランプでさえ、メキシコとの間に壁をつくることには必死だが、すでに米国内で働いている不法移民を排除はできない。人道問題になりかねないからだ。
また大都市への集中を防ぐ措置をとるというが、具体的な行政方針は示されていない。とくに特定2号の就職先企業は大都市に集中しており、採用した企業に対して「外国人労働者は地方に配属しろ」などと行政指導できるのか。また諸外国に進出している日本企業だって、ほぼ1か所の大都市に集中して「日本人村」をつくっている。日本に進出している外国企業も、拠点を田舎に作ったりしていないではないか。政府はどうやって外国人労働者を地方に分散させるつもりなのか。あっ、そうか。とりあえず中身が伴わなくても恰好だけつけておけば、野党やメディアの批判をかわせると思っているからか。それなら分かる。
また今回は触れるつもりはなかったが、ちょっとだけ書いておくと「働き方改革」で唯一評価できるのは労働時間の制限を厳しくしたことだ。日本人労働者の生産性はOECDの中で最低クラスという評価がされている。労働時間の長さに比べてGDPが他国に比べて低すぎるからだ。おそらくこの評価は労働人口一人当たりの1時間の生産性を比較したものだと思う。
そこで私は疑問を抱いた。「日本人は働きすぎ」とよく言われる。ホントかいな? 日本の労働人口一人当たり1時間単位の労働生産性が、もしOECDの中でトップクラスだったら、おそらく日本のGDPは現状よりはるかに多くなっていなければ計算が合わない。
そういう前提で考えたら、日本人の労働生産性が低い理由は二つのうちどれかしかない。あるいは両方かもしれない。
一つは「日本人は働きすぎ」なのではなくて、実は「さぼりすぎ」なのではないか。私自身の現役時代の経験から言うと、集中して仕事ができる時間は1日せいぜい5時間程度だった。それ以上根を詰めて仕事をすると、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積して、翌日は仕事にならなかった。締め切りなどの関係でやむを得ず限界を超えて仕事をしたこともあったが、そういう場合は翌日の予定は入れないようにしていた。だから長時間労働をしている人たちは、実は机に向かって仕事をしているふりをする技術を相当磨いているのだろうと、私は思っている。だから、そういう「ふりをする技術」を習得できなかった生真面目な人が過労死したり、うつ病を発症したりしているのではないか。「働きすぎ」神話は全くの嘘であるという確信を、私は持っている。
いや、ひょっとしたら、「働きすぎ」神話は事実なのかもしれない。が、だとすれば、日本人労働者の能力がOECD諸国の労働者に比べて低すぎるせいだ。だったら背伸びをして先進国並みの生活水準など求めずに、身の丈にあった生活水準に甘んじるべきだと思う。能力がないのに能力以上の生活水準を求めるのなら、過労死しようとうつ病を発症しようと、死に物狂いで働き続けるしかない。が、労働時間が長くなればなるほど、精神的肉体的疲労によって能率も生産性も下がることぐらい、子供でも理解できるだろう。人間は疲れを知らないコンピュータではないのだから。そんなことも理解できずに体を壊してまで長時間労働にいそしむのなら、それはもはや「自己責任」の範囲であり、政府が口出しすべきことではない。
日本人労働者の生産性が低い理由はこの二つしか考えられない。もし日本人労働者の能力が決して低くはないのなら、生産性が低い理由は「さぼりすぎ」にあることになるし、さぼらずに長時間労働を続けなければ先進国並みの生活水準を保てないのなら、過労死のリスクを覚悟で人並み以上の生活をしたい人は自己責任で長時間働けばいいし、身の丈にあった生活で我慢しようという人はそれなりの働き方をすればいい。人の働き方を、政府が決める必要などさらさらない。
さらに日本企業の体質としてシェア至上主義がある。そのため過剰サービス競争に走り、それが人手不足を招いている要素もある。とくにコンビニや外食産業、スーパーなどはいま長時間営業による過剰サービス競争を改善しようという動きが出始めた。たった一人の、セブン・イレブンのオーナー店主が挙げた声が、コンビニという業界の枠を超えて広がりつつある。こういう人にこそ、行政のかじ取りをしてもらいたいと、切に願う。
来週、月曜日には「高度プロフェショナル制度」の問題点について検証する。
すでにメディアも、また地方行政機関も、「外国人労働者の受け入れ」によって生じるであろう近隣の日本人住民とのトラブルについては懸念の声を上げており、その問題に関しては私もすでにブログで何度も書いてきた。
果たして「先見の明」と言えるのかどうかは別にして、作家の曽野綾子氏が4年以上前の2015年2月11日、産経新聞に「労働力不足と移民」をテーマにコラムを書き、その後、曾野提案をめぐってテレビやラジオも含めてメディアで大論争が始まったことがある。
曾野氏の主張の趣旨を簡単に紹介しておくと、南アでの人種差別政策廃止後のある事件(白人だけが居住を認められていたマンションに黒人が住むようになって環境が悪化し、白人がマンションから退去する事態が生じたこと)を例に挙げ、「仕事は人種の分け隔てなくできるが、居住区だけは人種ごとに分けたほうがいい」というのが曾野氏の「移民政策論」。この移民政策論が人権派言論人やリベラル派政治家たちから「新アパルトヘイトだ」と袋叩きにあったことがある。私も当時、ブログで曽野氏を厳しく批判したことを覚えている。
難民問題と外国人労働者居住問題を一緒に論じることはできないが、IS(イスラム国)がシリア・イラク地域で猛威を振るいだし、難民がヨーロッパ諸国にどっと押し寄せ始め、イギリスがEUからの離脱に踏み切ったのも、「外国人を受け入れることがいかに困難か」を歴史が証明したと言えなくもない。
私が前に書いたことだが、日本人が海外に行っても現地の近隣住民とトラブルを起こすことはほとんどない。自分を押し殺すことがいいことか悪いことかの価値観は別にして、日本人の精神的規範として培われてきたことの一つに「郷に入れば郷に従え」という掟(おきて)のようなものがある。この格言の出典は中国の『童子教』にあるようだが、中国ではほぼすたれた儒教精神が日本にはいまだに根付いているからだ。もっともヨーロッパでもローマ時代に「ローマにいるときはローマ人がするようにせよ」という格言があったようで、個人主義思想が生まれ育っていく過程で、そういったトラブル回避の知恵も失われていったのかもしれない。
そういう意味では、日本に働きに来る外国人に、「日本は個人主義の国ではないから、あなたも個人主義的な考え方を捨てなさい」と強要していいのだろうか、という気はする。はっきり言って、地域社会で様々な価値観を持つ多人種が共生することは困難かもしれない。例えばごみの捨て方ひとつにしても、どうやって分別方式を理解させ納得させることができるか、すでに各地で生じているトラブルの数々を見ても容易ではない。「新アパルトヘイト」と非難されようと、外国人労働者を受け入れるには曾野氏の提案を受け入れるしかないのかもしれない。私もかつては人権主義の立場から曾野氏を批判するブログを書いたが、曾野氏が反論したように「差別と区別は違う」と割り切るしかないのだろうか。少なくとも人権主義の立場から、どうやれば外国人労働者と日本人が地域社会で共生できるかの具体的提案がないなら、理想だけを主張しても問題の根本的解決にはならない。
単純な人権主義者の欠陥は、具体的対策なしに理想論だけ唱えて気持ちがすっとしたと自己満足してしまう点にある。理想は理想として私も否定するわけではないが、現実社会の中で理想をどう実現するかの方法論なしに、現実的解決論を提起した曾野氏を理想論だけでレッテル張りの批判をしても、自己満足の域を出ない。
ただ、そうした問題は別として、なぜいま外国人労働者を受け入れなければならないのかという根本的問題の検証は別だ。
そもそも日本の政治家には哲学があるのかと疑いたくなる。何か問題が生じても、初期のうちに手を打てば大ごとにならずにすんでいたのに、末期的状態になるまで放置し、これ以上は放置できないという段階になって初めて対症療法的処置を考える。政府だけでなく日銀の金融政策も含めてだが、バブルを招いたのも景気対策のための末期的対症療法的経済政策だったし、バブルを退治したのも同様に末期的状態になるまでバブル景気を放置しておいて、悪性インフレを招きかねないという状態になってようやく対症療法的経済政策に乗り出して、挙句の果てに「失われた20年」を招いた。政府の経済政策にも日銀の金融政策にも哲学がないから、常に後追いの対症療法的対策しか打てない。振り回されて右往左往させられるのは国民だけだ。
外国人労働者の受け入れも同じだ。現在は確かに人手不足の状態が続いている。が、そうした状態が今後も続くとは限らない。労働力の需給バランスが崩れたとき、「もう外国人労働者はいらないから帰国してください」と、そのときの都合で言えるだろうか。もし政府がそういう方針を打ち出したら、当然諸外国から日本は袋叩きに会う。そうなる事態も想定したうえで、政府は外国人受け入れ方針を決定したのだろうか。とりあえず政府の外国人受け入れ態勢を見てみよう。受け入れる外国人労働者には2種類と定められている。
「特定技能1号」労働者は在留5年を上限とし、家族の帯同は不可。
「特定技能2号」労働者は何回でも更新が可能で(事実上永住権の付与)、家族の帯同も可。ただし、2号対象の労働者は建設・造船などに限定。
また現時点では最大で34万5150人の受け入れを想定し、必要に応じて受け入れ停止の措置をとる。さらに大都市への集中を防ぐための必要な措置もとる。
果たしてこれが問題解決のための最善の対策と言えるだろうか。「必要に応じて受け入れ停止の措置をとる」というが、それは新たな受け入れを停止するということで、すでに日本で働いている外国人を排除するということは意味しない。だいいち、そんなことをしたらすでに書いたように諸外国から日本は袋叩きに会う。あのトランプでさえ、メキシコとの間に壁をつくることには必死だが、すでに米国内で働いている不法移民を排除はできない。人道問題になりかねないからだ。
また大都市への集中を防ぐ措置をとるというが、具体的な行政方針は示されていない。とくに特定2号の就職先企業は大都市に集中しており、採用した企業に対して「外国人労働者は地方に配属しろ」などと行政指導できるのか。また諸外国に進出している日本企業だって、ほぼ1か所の大都市に集中して「日本人村」をつくっている。日本に進出している外国企業も、拠点を田舎に作ったりしていないではないか。政府はどうやって外国人労働者を地方に分散させるつもりなのか。あっ、そうか。とりあえず中身が伴わなくても恰好だけつけておけば、野党やメディアの批判をかわせると思っているからか。それなら分かる。
また今回は触れるつもりはなかったが、ちょっとだけ書いておくと「働き方改革」で唯一評価できるのは労働時間の制限を厳しくしたことだ。日本人労働者の生産性はOECDの中で最低クラスという評価がされている。労働時間の長さに比べてGDPが他国に比べて低すぎるからだ。おそらくこの評価は労働人口一人当たりの1時間の生産性を比較したものだと思う。
そこで私は疑問を抱いた。「日本人は働きすぎ」とよく言われる。ホントかいな? 日本の労働人口一人当たり1時間単位の労働生産性が、もしOECDの中でトップクラスだったら、おそらく日本のGDPは現状よりはるかに多くなっていなければ計算が合わない。
そういう前提で考えたら、日本人の労働生産性が低い理由は二つのうちどれかしかない。あるいは両方かもしれない。
一つは「日本人は働きすぎ」なのではなくて、実は「さぼりすぎ」なのではないか。私自身の現役時代の経験から言うと、集中して仕事ができる時間は1日せいぜい5時間程度だった。それ以上根を詰めて仕事をすると、肉体的にも精神的にも疲労が蓄積して、翌日は仕事にならなかった。締め切りなどの関係でやむを得ず限界を超えて仕事をしたこともあったが、そういう場合は翌日の予定は入れないようにしていた。だから長時間労働をしている人たちは、実は机に向かって仕事をしているふりをする技術を相当磨いているのだろうと、私は思っている。だから、そういう「ふりをする技術」を習得できなかった生真面目な人が過労死したり、うつ病を発症したりしているのではないか。「働きすぎ」神話は全くの嘘であるという確信を、私は持っている。
いや、ひょっとしたら、「働きすぎ」神話は事実なのかもしれない。が、だとすれば、日本人労働者の能力がOECD諸国の労働者に比べて低すぎるせいだ。だったら背伸びをして先進国並みの生活水準など求めずに、身の丈にあった生活水準に甘んじるべきだと思う。能力がないのに能力以上の生活水準を求めるのなら、過労死しようとうつ病を発症しようと、死に物狂いで働き続けるしかない。が、労働時間が長くなればなるほど、精神的肉体的疲労によって能率も生産性も下がることぐらい、子供でも理解できるだろう。人間は疲れを知らないコンピュータではないのだから。そんなことも理解できずに体を壊してまで長時間労働にいそしむのなら、それはもはや「自己責任」の範囲であり、政府が口出しすべきことではない。
日本人労働者の生産性が低い理由はこの二つしか考えられない。もし日本人労働者の能力が決して低くはないのなら、生産性が低い理由は「さぼりすぎ」にあることになるし、さぼらずに長時間労働を続けなければ先進国並みの生活水準を保てないのなら、過労死のリスクを覚悟で人並み以上の生活をしたい人は自己責任で長時間働けばいいし、身の丈にあった生活で我慢しようという人はそれなりの働き方をすればいい。人の働き方を、政府が決める必要などさらさらない。
さらに日本企業の体質としてシェア至上主義がある。そのため過剰サービス競争に走り、それが人手不足を招いている要素もある。とくにコンビニや外食産業、スーパーなどはいま長時間営業による過剰サービス競争を改善しようという動きが出始めた。たった一人の、セブン・イレブンのオーナー店主が挙げた声が、コンビニという業界の枠を超えて広がりつつある。こういう人にこそ、行政のかじ取りをしてもらいたいと、切に願う。
来週、月曜日には「高度プロフェショナル制度」の問題点について検証する。