小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

東名あおり事故判決ーー横浜地裁も世論に迎合したのか?

2018-12-17 11:12:17 | Weblog
 韓国の大法院(日本の最高裁に相当)が下した、いわゆる「徴用工判決」が,日本では「反日世論に迎合した」と厳しい目で見られているが、横浜地裁が14日に下した「東名あおり運転事故判決」もまた厳しい量刑を望んだ世論に迎合した内容だった。
 あらかじめ言っておくが、私は石橋被告を擁護するつもりは毛頭ない。量刑自体としては、犯行の悪質性を鑑みてもっと重い量刑を下してもよかったとさえ考えているくらいだ。
 最高裁でも、世論に迎合する判決を下したことがある。すでにブログで書いたが、「オウム事件裁判」のことだ。最高裁は最後の13人目の被告に死刑判決を下し(今年1月)、すでに全員が死刑に処せられた。7月6日に13人の死刑囚のうち6人が一度に死刑に処せられた後、私は9日に投降したブログでこう書いた。

 私がオウム裁判について疑問に思うのは、最高裁判事までもが世論に迎合したと思えることだ。死刑判決の基準としては、長い間「永山判決」が重視されてきた。この判決で最高裁が下した死刑判決の基準は9つある。難しい裁判用語は避けて、多少正確性を欠くかもしれないが、要点をまとめる。
① 犯行の方法(残虐性など)
② 犯行の動機(身勝手さ、同情できる余地の郵務)
③ 計画性(殺意の程度)
④ 被害者の数(犯行の重大性)
⑤ 遺族の被害感情(幼い子供の親とか配偶者などが抱く感情)
⑥ 社会的影響(メディアの取り上げ方)
⑦ 犯人の年齢や学歴、生育環境
⑧ 前科の有無と事件内容
⑨ 犯行後や逮捕後の態度(自首、反省の態度)
これらの9項目に合致するオウム死刑囚は13人のうち何人いたか。私ははなはだしく合理性に欠けると思わざるを得ない。
決定的なのは、犯行の実行者であり、かつ明確な殺意があったか否かの認定である。犯行の実行者というのは、実際に殺害行為を行った人物でなければならない。凶器となったサリンを車で運搬した行為が共同正犯に相当するのか。こうした解釈が最高裁で認められるということになると、いわゆる「共謀法」より恐ろしいことになる。今度の事件で、オウム事件の判例に従い「凶器を運べば、即共同正犯」という解釈が正当化されかねないからだ。(中略)
オウム判決は、共謀法より恐ろしい判例となりうることへの警鐘を、だれも鳴らさないことへの強い憤りを私は抱いている。
最高裁判決は、ほとんどの人が正しいと思っている。とんでもない。オウム事件に関しては、一種の魔女狩りを求める空気が社会に醸成されていた。そうした空気に、最高裁も逆らえなかったのか、あるいは判事自身がそうした空気に呑み込まれていたのか。
この判決が今後、権力に対する市民の抵抗運動に対する弾圧を正当化する基準になりうる危険性を、私は最後に指摘しておく。

横浜地裁の判決(23年の懲役求刑に対して18年の懲役刑)に、私はオウム判決との共通性を強く感じる。この事故の後、とくに民放の報道番組があおり運転のケースを多く取り上げるようになり、その結果世論も石橋被告のあおり運転の悪質性に厳しい憤りを抱いたことが、この判決に反映されなかったとは言えない。とりわけ裁判員に与えた心象は大きかったと思う。
確かに石橋被告に対して同情すべき余地は全くない。高速道路のサービスイリアでの駐車違反場所でタバコを吸うため車を止めて注意されたことに腹を立て、執拗にあおり運転を繰り返し、あまつさえ追い越し車線上で無理やり被害者の車を停止させ、事故を誘引した行為は同情すべき余地は全くない。が、行為と結果との因果関係について石橋被告に殺意に相当するほどの故意を認めることは、私は困難だと思う。とくに石橋被告がやむを得ず車を停車した被害者の胸ぐらをつかんで車から引きずり出そうとして「殺してやろうか」と脅した行為が、車を停車させた行為が結果を予測していなかったことを明白に物語っている。
被告側が控訴するか否かは現時点では不明だが、私がこの裁判で最も重要視していることは、なぜ自動車事故に関してだけ「特別法」にしているのかということだ。そもそも道交法は何のためにあるのか。
道交法は基本的に、危険な運転や交通の妨げになるような走行や駐車を違反行為として罰則を定めている。だから道交法に違反した場合は罰金か免許停止・取り消しなどの処分が下される。
問題は道交法に違反した走行や駐車違反によって人的・物的損傷事故を生じた場合である。かつては自動車走行による人的事故は一般刑法の業務上過失致死傷罪(5年以下の懲役または50万円以下の罰金)を適用していた。が、その量刑の最高限度が軽すぎるということで危険運転致死傷罪が作られた(2001年)。こうした対策が、そもそも問題だった。
よく知られているように、危険運転致死傷罪は東名高速道路で飲酒運転したトラックが乗用車に追突、炎上させ、後部座席の二人の幼い子供を焼死させた事件(1999年11月)と、無免許の建設作業員が飲酒したうえ神奈川県座間市で検問を猛スピードで突破し、歩道に突っ込んで大学生2人を死亡させた事件がきっかけで生まれた。最高量刑は20年と大幅に強化されたが、危険運転と認定できるためのハードルが極めて高く、一種の「無用の長物」扱いされてきた。
そのため2007年には一般の業務上過失致死傷罪の中で特に自動車事故については自動車運転過失致死傷罪(最高懲役7年)が設けられた。が、それでも危険運転と自動車運転過失との量刑の差が大きすぎ、また危険運転に問うハードルが高すぎるため大半の事故裁判では、最長懲役7年の自動車運転過失致死傷罪を適用する状態が続いていた。
その後しばらく社会問題になるような大きな自動車事故が生じなかったが、11年4月に栃木県鹿沼市でてんかんの持病を隠して運転免許を取得した人がクレーン車で事故を起こして児童6人を死亡させたり、12年4月には京都府亀岡市で無免許運転の少年が集団登校の列に突っ込んで生徒と保護者が死傷するといった事故が発生し、被害者や遺族が危険運転致死傷罪に問えるよう声をあげ、またメディアもその声を支持したため、13年11月に「自動車運転死傷行為処罰法」という法律(あくまで罪名ではない。つまりこれまでの量刑の隙間を法律で埋めるという小手先のごまかし)を成立させた。この法律の施行により危険運転致死傷罪の適用範囲が多少拡大され、また過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪(最長12年の懲役)が設けられた。
この、ことあるたびに行われてきた対症療法的対策に対して、私は14年1月10日から17日まで5回にわたってブログ『法務省官僚が世論とマスコミに屈服して、とんでもない法律を作った』を連載した。そのブログの最終回で私は死刑問題にも触れた。
日本で最高の量刑は言うまでもなく死刑だが、死刑の次に重いのは無期懲役である。勘違いしている人が少なくないようだが、無期刑は終身刑とは違う。無期とはあくまで期限を定めないという意味で、一定の年月、模範囚として刑に服していれば、仮釈放という形で社会復帰できる。死刑と無期懲役の間のギャップは危険運転致死傷罪と自動車運転過失致死傷罪のギャップよりはるかに大きい。死刑に処せられた被告には、仮生還など不可能だからだ。
ちなみに宗教観が違うせいもあるが、欧米では死刑という制度を廃止している国が多く(アメリカは州法で量刑を決めているため死刑廃止の州と存続の州がある)、日本にも死刑廃止論者もいるが国民の80%は死刑存続派である。が、死刑と無期懲役のあいだに「仮釈放なしの終身刑」という刑罰を設けたら世論はどうなるか。おそらく死刑廃止論者が多数を占めるのではないかと、私は思っている。
法律用語に「未必の故意」というのがある。裁判小説(法廷小説とも)の読者ならご存知だと思うが、故意ではないが事故を起こす可能性を認識していながら行った行為によって生じた事故に適用される。欧米ではかなり広く解釈されているようだが、日本では危険運転のハードルより高い。「事故を起こすかもしれないという認識があった」ことの証明は極めて難しい。今の日本の裁判のやり方では、この証明を検察や被害者側がするのは極めて困難である。
しかし、「クルマは走る凶器」とは、車を運転するひとには常識である。少なくとも運転免許を取得する過程や免許更新時の講習や講習代わりのビデオで散々聞かされているはずだ。そういう自覚を持っていない人はそもそも自動車を運転する資格がない。
そしてすでに述べたように、道交法は危険運転(飲酒、薬物、、信号無視、スピード違反など、駐車違反も場所によっては単なる交通の妨げにとどまらず危険な場合もある)を防ぐことが最大の目的である。つまり道交法に違反した運転をして事故を起こせば、その時点で「未必の故意」が成立すると考えることはきわめて合理的である。
その考えに立てば、何も自動車事故に限って一般刑法とは別に特別法で自動車事故関連法を設ける必要はなくなる。事故の内容により、「未必の故意による殺人罪」「未必の故意による傷害罪」「未必の故意による器物損傷罪」で起訴できるし、運転の悪質性によって限りなく「故意による殺人罪」の量刑に近づけることもできる。

ついでに増え続ける高齢者事故についてひと言(ひと言ではすまないが)。
私は70歳になった時免許を返上した。その1,2年前に当時5歳くらいだった孫からウィ・フィットというテレビゲームで挑戦され、とてもかなわなかったことから、高齢者になればとっさの時に正確な運転操作や判断力に自信が持てなくなるだろうと考えたため、かわいい孫を悲しませたくないという一心で免許を返上することにした。
私は論理的思考力についてはまだ若い者には負けないという自負を持っているが、間違いなく認知症は進行しており、大切なものをどこにしまったのか忘れて困り果てることなどしばしばある。私は高齢者の事故原因の多くが認知症にあるとは考えていないが、10年ほど前に警察庁長官と国家公安イン会委員長あてに高齢者免許制度改革について提案したことがある。ウィ・フィットのようなとっさの判断力と操作技術を簡単に検査できる方法を導入すべきだという提案だったが、完全に無視され、代わりにばかげた認知症検査を義務付けることにした。
私がもし免許を返上せず事故を起こして起訴されたら、裁判官に対して「私を起訴するのはお門違いだ。起訴すべき相手は、私のような運転不適格者に免許更新を認めた(都道府県の)公安委員長か警察本部長を起訴すべきだ。私が免許を更新できていなかったら、当然事故も起きていないはずだ。一般の自動車事故は減り続けているのに高齢者の事故だけが増え続けているのは、公安委員長と警察本部長の怠慢による」と主張する。
自動車を高速道路の、しかも追い越し車線で被害者のクルマを停車させた行為は「危険運転に相当しない」という認識を示しながら、その直前のあおり運転との因果関係を重視して危険運転致死傷罪を適用した横浜地裁の裁判官は、私のような高齢者が事故を起こした場合でも、運転不適格者に免許を更新させた責任者との因果関係を重視して公安委員長か警察本部長を処罰してくれるだろう。「きわめて画期的な判決であり、これで高齢者の事故も減るに違いない」と、国民やメディアは拍手喝采してくれるだろう。