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第384回 人名いろいろ−4

2020-08-21 | エッセイ

 シリーズの第4弾になります。別に人名マニアというわけではないんですが、おなじみの「歴史のなかの邂逅」シリーズ(司馬遼太郎 全8巻)からネタが拾えました(第8巻 「日本人の名前」の章)。維新前後の歴史上の人物の名前を中心にお届けします(過去3回分のリンクを文末に貼っていますので、合わせてご覧いあただければ幸いです)。

 ご存知の通り、徳川時代は、百姓町人階級は、苗字(姓)を許されませんでした。弥助とか権兵衛とかで通用していたわけです。でも、藩によっては、莫大な献金をした者には、苗字の公称を
許す仕組みがありました。財政立て直しと苗字へのあこがれを両立させた販売システムというわけです。

 同じ階級でも、絵師とか役者で名をなすと、私称が黙認されたようで、喜多川歌麿、中村歌右衛門などがその例で、井原西鶴の井原もお上のお目こぼしだというのを、同書で知りました。そんなユルイところもあったのですね。

 維新前、人の名前にナノリというものがありました。
「広辞苑(第一版)のその項をひくと、名告・名乗とあって、公家及び武士の男子が元服後に通称以外に加えた実名。通称藤吉郎に対して秀吉と名乗る類」とある。」(同書から)

 ですから、維新前後に活躍した人物の名前は、元服前の通称とナノリが混在しています。「坂本直柔(なおなり)」といっても誰のことか分かりませんが、「龍馬」のナノリです。司馬の作品「竜馬がゆく」も「直柔がゆく」では、やはり迫力に欠けますね。

 大久保利通はナノリです。でも小さい頃は、「一蔵」というのが通称で、仲間からは、一蔵一蔵と呼ばれていました。維新後「利通」という威厳のあるナノリを戸籍名としたのが、いかにも彼らしいです。

 大久保と対立し、佐賀の乱の首謀者として死刑となった江藤新平には「胤雄(たねお)」という立派なナノリがありましたが、通称の「新平(しんぺい)」を戸籍名としています。
 まわりの者に「中間(ちゅうげん)の名前のようで位階のついた大官にふさわしくないではないか」と言われた江藤が「それじゃ新平(にいひら)とでも読んでくれ」と吐き捨てるように言った、とのエピソードが同書に載っています。反骨精神にあふれたいかにも江藤らしい話です。

 維新といえば、「西郷隆盛」を外せません。同書を要約する形で、彼の名前をめぐる話題を紹介しましょう。教科書でもおなじみ、この方。

 彼の通称は、はじめ吉兵衛で、のち吉之助とあらため、幕末は、西郷吉之助でとおっていました。さて、維新後、名前を届け出なくてはならなかった時、彼はたまたま東京にいませんでした。
 幕末、常に西郷の身辺にいて秘書のような役目をしていた吉井友実(ともざね)が代理で届け出ることになったのですが、
「ハテ、西郷のナノリはどうじゃったか」

 西郷家は代々「隆」の一文字をナノリとして世襲する習わしでした。「たしか「隆」の字がつく」と言った人があったらしいのです。吉井はあっと思い出し、「隆盛じゃった」とそれで届け出ます。
 実はそれは、西郷の父親のナノリで、吉井から事情を聞いた西郷は、「おいは、隆永(たかなが)じゃど」とこぼしたといいます。「隆盛」「隆盛」と刷り込まれていますから、いまさら、西郷隆永が正式名だったといわれても、なんだかしっくりきませんねぇ。

 西郷の弟「従道」(のちに海軍大将などを歴任)にも名前をめぐるトラブル(?)話があります。

 彼も姓名を届け出なければなりませんが、彼の場合は、係の役人がやってきて、届けを出してくれることになりました。「おナノリはどう申されるのでございましょう」とでも訊かれたのでしょう。「ジュウドウじゃ」との答えを聞いた役人が「従道」と登録してしまったというのです。
 ほんとうは「隆」の一文字をとった「隆道(たかみち)」を音読みで「リュウドウ」と本人は言ったのが、薩摩なまりで「ジュウドウ」と聞こえた、というんですが・・・・

 お互いに書く手間を惜しんでこんなことになるなんて、薩摩人ておおらかな人が多いんでしょうか?

 最後に、同書からのネタでクイズです。

 本名「ヨセフ・ヴィサリオノヴィッチ・デュガシュヴィリ」と「ウラジミール・イリイッチ・ウリヤーノフ」とは誰と誰のことでしょうか。

 答えは、前者がスターリン、後者がレーニンです。歴史に名を残す人は、ニックネームといえども、気が利いて、覚えやすく、インパクトのあるのを付けるものですね。

 過去3回分へのリンク(第165回258回295回)です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。