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第177回 「邪視」という思想

2016-08-05 | エッセイ

 8月の句会の兼題は「目」で、思い出した話題があります。

 「邪視」という思想です。「ねたみ」とか「そねみ」とかは、人間誰しも抱く感情ですが、そういう「邪(よこしま)」な思いで、「視」線を向けられたモノには、思いを向けた人の怨念のようなものが取り憑いて、持ち主に災いをもたらす、という考え方です。「邪視」という言葉は、かの南方熊楠が、このような思想が、世界のあらゆる所にあると紹介した時に、導入した訳語だとされています。

 世界中といいながら、とりわけイスラム圏では、気にする人が多いようで(コーランにも、ねたみの心を戒めるムハンマドの言葉がある)、対抗する「お守り」が、国ごと、地域ごとにいろいろある。

 下の写真をご覧ください。

 

     


 「ナザール」と呼ばれるトルコ版の「お守り」です。ガラス製で、目玉を模しています。直径は10cm前後で、いくつかサイズはあるようですが、紐が付いていて、家の玄関先などに吊るして使います。「目には目」で、邪視を撥ねつけようというわけでしょう。ご覧のように、土産物屋の店頭でも、人気の「商品」みたいです。

 まあ、「お守り」も一つの手段ですが、そもそも、ねたみ、そねみの目を向けられないに越したことはない。

 というわけで、家なんかも、見かけは普通の住宅の外観、形はシンプルな四角で、色は白。窓も小さいのが多いような気がする。そうはいっても、大きさまでは誤摩化せないから、意味はないと思うんだけど。大きい家は、家なりに内装、家具などを豪華にしてるに違いないし。

 見られたり、思われただけでそうなのだから、具体的に言葉で言われると大変なことになる。邪視を信じている人の洋服とか持ち物を、ごく普通の感覚で、「おしゃれだね」とか「よく似合ってるよ」などと褒めるわけにはいかない。「邪視」ならぬ「邪言」で、災いをもたらすモノになったのだから、言われた人は、その洋服なりを、他人にあげるか、捨てるしかなくなる。

 洋服とかモノなら、捨てるか、あげるかすれば済むが、まさか、子供を捨てたりはできないから、邪視を恐れる親たちは、子供を褒められないよう、ねたみ、そねみの対象とならないよう細心の注意が必要になる。粗末な格好をさせたり、ヒドい名前をつけたり、といろいろ大変らしい。

 そんな国とかに落語なんてのがあれば、「子ほめ」ならぬ「子けなし」が演目として、きっと、もてはやされるはず。

 「うわ~、皺(しわ)だらけや」
 「それは、隣で寝てる爺さんやがな」
 「それにしても、アンタに似て、ぶっ細工な子ぉやなぁ~」
 「さっそく、ケナしてもうて、おおきに、おおきに」 
 「えらい老(ふ)けてるけど、おいくつです?」
 「おいくつですって、生まれたばっかりやがな」
 「生まれたばっかりにしては、老けて見える、どう見ても、ハタチそこそこ」
 「そこまで、ケナしてもうたら、嬉しいなぁ」
 「泣き声も弱々しいし、今にも死にそうやんか」
 「なんぼなんでも、ええ加減にしなはれっ」

 大阪弁バージョンだと、こんな具合ですかな。さてと、そろそろ「目の俳句」を考えなきゃ。

 いかがでしたか?次回をお楽しみに。