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第491回 あぁ、歌詞の勘違い集

2022-09-23 | エッセイ
 童謡で「お山の杉の子」という歌があります(作詞・吉田テフ子/サトウ・ハチロー)。
「むかしむかしの そのむかし 椎の木林 すぐそばに 小さなお山があったとさ」と始まって、「まるまる坊主の 禿山は いつでもみんなの笑いもの 「これこれ杉の子 起きなさい」 お日様ニコニコ声かけた 声かけた」と続きます。
 小さい頃、この歌を聞きながら、「「こえかけた」って、あの畑にまいてる「肥え」のこと?」と、わざとボケて母親に訊いたことがあります。「あはは、そんなわけないやろっ」と予想通りのツッコミが返ってきました。笑いが取れて、嬉しかったのを覚えています。

 歌詞って、聴いてる分には、音だけですから、いろいろ思い違い、勘違いがあります。
 「シャボン玉」という童謡があります(作詞・野口雨情)。その一節です。

 シャボン玉飛んだ/屋根まで飛んだ/屋根まで飛んで/こわれて消えた/

 何の本で読んだのかは忘れましたが、「屋根まで」というのを「屋根までもが」飛んで、こわれて消えた、と思い込んでいたというのです。確かに「まで」には到達点だけでなく、範囲、程度を表す用法があります。「そんなこと「まで」する必要ある?」のように。でも、そんな強風なら、シャボン玉を飛ばして遊んでる場合じゃないと思うんですけど・・・・

 そういえば、村上春樹に「村上かるた うさぎおいしーフランス料理」(文藝春秋刊)という本があります。
 言葉遊びを「かるた」に仕立てたもので、童謡「故郷(ふるさと)」の出だしである「兎追いし かの山」を「うさぎ美味しいー」とシャレにして「う」の札にしています。村上が小さい頃、そう思い込んでいたのかどうかは分かりません。フランス人には身近な食材のようで、そんなひけらかしもちょっぴり入ってる「かるた」です。


 沢木耕太郎のエッセイ「アフリカ大使館を探せ」(「チェーン・スモーキング」(新潮文庫)所収)を読んでいると、彼自身のこんな思い違いが述べられています。 
 小さい頃、「赤い靴」というお馴染みの童謡で「異人さんに連れられて行っちゃった」を「イージーサンニツーレラレーテ」と歌っていたというのです。「異人さん」を「いい爺さん」と思い込んでいたんですね。「いい爺さん」が、女の子を異国へ連れ去る?ちょっと笑えました。

 あわせて、交友のあった向田邦子さんのこんな思い違い話を紹介しています。


 「むかしむかし浦島は~」と始まる浦島太郎の童謡(作詞・不詳)です。竜宮城から元の村に帰って来たところ、様子が一変していました。「カエッテミレバ コワイカニ~」というのを「帰ってみれば 恐い蟹」だと思い込んでいた、というのです。確かに、「これはどうしたことだ」と時代劇調で、いささか古臭い言い方ですから無理もないですが、彼女らしいユーモアに溢れた可愛い「勘違い」です。

 同エッセイでは、彼女のエッセイ「眠る盃」(同名の講談社文庫所収)にも筆が及びます。
 彼女の父親は、保険会社で地方の支社長をしていました。仕事柄、宴会の後などに、お客をよく自宅に連れて来たといいます。家族総出で酒肴の支度です。宴が終わって、客が帰ると、酔いつぶれた父親の膳にはいつも飲み残しの盃があったといます。女学生の彼女には、まるで酒も盃も眠っているように見えました。
 「向田邦子は言うのだ。「荒城の月」(作詞・土井晩翠)の中の「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして」という一節を、自分はいつのまにか「春高楼の花の宴 眠る盃かげさして」と記憶するようになってしまった、と」(同エッセイから)

 あらためて彼女のエッセイ「眠る盃」を読み直しました。彼女を取り巻く暖かい家庭の思い出を描く中で、あれは「眠る盃」でなければならない、との思い入れに共感を覚えました。
 短いですが、実に上質で、これぞプロというべきエッセイです。とても敵わないと感じつつも、一層の精進を誓った私でした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。
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