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第460回 時代区分「大阪」がない謎

2022-02-18 | エッセイ
 古代日本には、縄文時代とそれに続く弥生時代がありました。縄文式土器は、縄目文様と火炎が立ち上がらんばかりの力強い造形で、その時代名にふさわしいものです。
 ちょっと不思議なのは、「弥生」という時代区分です。1884年に、東大の人類学者たちが、本郷キャンパスの一部を含む「弥生町」で、この種の土器を採取しました。実は、江戸時代に、藤貞幹(とう・ていかん(藤原貞幹とも))という京都の学者が、18世紀の後半に、備中(岡山)で同種の土器を採取して、紹介しています。ですから、東大での採取が「最初」ではないのですが、研究者の間での通称であった「弥生式」というのが、定着し、時代区分名にまでなったようです。

 縄文、弥生というモノにちなんだ時代を経て、その時代時代の様相、権力構造などが明らかになってくると、政治の中心である地名が、「時代区分」として、概ね採用されるようになりました。

 そうなれば、関西で歴史的に脚光を浴びる地域は、奈良、京都です。飛鳥、奈良、平安、室町などの時代区分名には、歴史の授業などでずいぶん馴染んできました。
 でも、同じ関西で、「大阪」にちなむ時代区分がないのが不思議でした。歴史の節目節目では重要な役割を果たしてるはずなんですが。
 実は、二度「チャンス」があったのでは、と考えています。

 最初の命名「チャンス」は、「古墳時代」でしょうか。「弥生」と「飛鳥」に挟まれた4~5世紀の時代区分です。仁徳天皇陵を代表とする大小の古墳群が続々と、集中的に築造されました。「古墳」という普通名詞を冠してますが、全国各地で作られていたわけではありません。大規模な古墳は、現在の堺市を中心とした南大阪、河内(かわち)とも称されるエリアにほぼ限られます。
(なお、仁徳天皇陵を含む一帯は、「百舌鳥・古市古墳群」として、世界文化遺産への登録が決定しています)
 ですから、時代区分としては、「南大阪時代」または「河内時代」でいいはずです。「なんだかローカルな地名だねぇ」「河内音頭の河内?」「「悪名」とかの小説を書いた今東光(こん・とうこう)の河内?」などのイメージで損をして、採用されなかったのかな、などと想像します。関西人として、ちょっと残念な思いです。

 最後の「チャンス」は、「安土桃山時代」と考えています。織田信長、豊臣秀吉の治世約30年(1568~1598年)です。
 「安土」には異論ありません。現在では、ややマイナーな地名ですが、信長政権の中枢である「安土城」が聳(そび)えていたのですから。

 豊臣秀吉の天下時代を「桃山」で代表させているのが何だか腑に落ちません。
 確かに、京都の南にあたるこの地に秀吉の居城があったのは事実です。でも、当時の地名は「伏見(ふしみ)」(現在も区名として存続しています)で、その城は「伏見城」と呼ばれていました。再建された現在の伏見城です。



 ですから、「安土伏見時代」なら、百歩譲って、ギリギリありなのでしょう。だけど、ご覧の通り、これはどう見ても「隠居暮らしのための城」です。しかも、「桃山」というのは、家康没後、この地に「桃の木」を植えた事から付けられた後世の地名で、やはり無理があります。

 大阪城を中心にした政治、経済の中心都市にちなんで、素直に「安土大阪(当時の表記だと「大坂」)時代」がなぜダメなんでしょう?
 ねちねちした大阪弁が性に合わない、声が大きい大阪人が嫌い、ただでさえうるさい大阪人が増長しそう、大阪城落城の悲劇を思い起こさせて反中央感情を刺激しそう、などなど、いろいろ理由を「忖度」し、半分くらい自分で納得していますが・・・・

 たまたま生まれ育った地が大阪に近く、愛着と誇りは感じています。でも、通算すれば、東京生活が人生の半分以上になりました。いつまでも関西・大阪にこだわらず、結構便利で、それなりに快適なこの地での暮らしをこれからも楽しんでいこう、との思いを新たにしています。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。
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