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第516回 三度目の元寇がなかった訳

2023-03-24 | エッセイ
 歴史に「もしも(イフ)」を考えるのはナンセンスだというのは承知しています。でも、「元寇」の場合、もしあの暴風雨がなかったら、もし三度目の襲来があったら、とついつい考えてしまうのです。
 ご存知のとおり、1274年(文永の役)と、1281年(弘安の役)の二度にわたって、我が国は、元(モンゴル帝国)の襲撃を受けました。当時は、チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが元朝の初代皇帝としてその絶頂期にあり、世界の四分の一を支配した、とまでいわれた時代です。教科書でお馴染みのこの人物。

 鎌倉武士のがんばりと、暴風雨という天の助けはあったにしろ、モンゴル軍の攻撃を二度にわたってしのぎ、撤退させたのは奇跡のように思えます。
 なにしろ向かうところ敵なしの(はずの)国でしたから、三度目の攻撃を着々と準備していたというのです。でも、それが実行されなかったのは、対ベトナム戦争に手を焼いていて、日本にまで手が回らなかったから、というのを知って驚きました。
 「日本史の新視点」(新晴正 青春文庫)に拠りながら、「元越戦争」とも呼ばれる戦さの経過をご紹介します。

 現在のベトナム北部に当たる地域を支配していたのが、陳朝大越国(以下、「越国」)という王朝で、首都を昇竜(現在のハノイ)に置いていました。元との戦いは三度に及びます。
 一度目の戦いは、1258年ですから文永の役の16年前になります。当時の中国は南宋が支配しており、北方からその打倒を目指すモンゴル軍は、南に位置する越国を支配下に置き、南宋を挟み撃ちにするための侵攻でした。
 モンゴル軍は簡単に首都を占拠します。しかし、越国は、首都を焼き払い、住民はジャングルに逃げ込むという焦土作戦とゲリラ戦に打って出たのです。食糧補給が途絶えたモンゴル軍は、1ヶ月で撤退せざるを得ませんでした。
 二度目の戦いは1284年ですから、弘安の役の2年後です。すでに南宋は滅んでいましたが、領土拡大の野望と国の威信をかけて戦いを仕掛けました。でも、一度目と同じような経過をたどり、元軍は4ヶ月余りで撤退という結果に終わりました。

 そして、三度目の決戦が始まったのは、その3年後、1287年です。二度も苦杯をなめさせられ、怒りに燃えたフビライ・ハンは万全の軍備、戦略で臨みます。
 総司令官には息子のトガンを任じ、9万の兵で陸路進撃させます。一方、ウマル将軍には、食糧満載の数百隻の船を与え、海から首都に通じる白藤江(はくとうこう=バクダン川)を遡上させ、食糧確保と海上からの攻撃を行わせる計画を立てました。陸と海からの軍が合流したのは、翌年4月のことです。

 それを迎え撃ったのは、陳興道(チャン・フン・タオ)という智将でした。
 彼は、白藤江の河口付近に無数の杭を打ち込ませます。元軍の遡上を阻止する作戦のように見えますがそうではありません。満潮の時に合わせて、元の水軍を一旦、上流まで引き入れます。その上で、干潮の時刻を見計らって両岸に潜ませていた越軍に出撃を命じました。
 あわてて撤退する元の水軍。しかし、干潮ですから、杭に阻まれて身動きがとれません。
「立ち往生する元の船団に、四方八方から越軍の火のついた小舟や筏(いかだ)がイナゴの大軍のように迫ってくるが、元軍にはもはやどうすることもできない。水中の杭に底をえぐられ、あるいは味方の船同士が押し合いへしあいして破損し、あるいは船に火が燃え移り、阿鼻叫喚と紅蓮の炎の中で溺死者が続出した」(同書から)

 一説には、元の水軍は100隻が沈み、400隻が拿捕されたともいわれています。大敗を伝え聞いたトガン総司令官は、食糧補給が困難になったため撤退を強いられました。元の完敗です。
 河の干満の周期を調べ尽くした上でそれを利用する知謀知略と、兵の士気の高さには驚くしかありません。日本に三度目の襲来がなかったのにはこんな歴史的事実があったのに心底驚きました。後年、アメリカも、この歴史に学んでいれば・・・などとついつい考えてしまいます。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。