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第517回 チェーホフと桜と大和撫子

2023-03-31 | エッセイ
 今、東京では桜が見頃です。まもなく桜前線の北上も始まります。そんな季節感から、「桜」を含む三題噺をお届けすることにしました。しばしお付き合いください。
 桜は日本人がこよなく愛する花です。それに当たる英語が、
「チェリー・ブロッサム(cherry blossom)」と2つの単語の組み合わせになるのを以前から不思議に思っていました。最近、作家・阿刀田高のエッセイで、花だけの植物は、フラワー(flower)と呼び、実をつける花は、ブロッサム(blossom )と呼ばれる、というのを知りました。
 サクランボ(cherry)という実用的な果物がまずあって、桜は、その実をつける木に咲く花、という序列で捉える人たちが世界には多そうですね。そんな話を前フリに、本題に入ることにします。

 「チェーホフと大和撫子」という半藤一利さんのエッセイ(「ぶらり日本史散策」(文春文庫)所収)が、チェーホフの代表的な戯曲作品「桜の園」を取り上げています。こちらチェーホフ。

 氏がずいぶん前に、この劇を観たとき「ロシアにも桜の花びらで真っ白になる桜の園があるのかな、と妙に考えあぐねたことがあった」(同エッセイから)というのです。そして、のちに、ドイツで新聞の特派員をやっていた人物からこんな話を聞かされます。
 彼がドイツで見た「桜の園」のタイトルは、「サクランボ農園」としか訳しようがないドイツ語だった、というのです。ストーリーは、古いロシアの貴族が没落して、収入源であった「サクランボ農園」を農奴出身の商人に売りに出したのが発端です。商人は、サクランボじゃ儲からないから、モスクワの金持ちのための別荘地にする、とサクランボの木をガンガン切り倒す・・・という展開になります。特派員氏の言葉です。「お花見でもできそうな美しい庭園ではなく、あれはどう見たって農園だったな」(同)
「桜の園」のロシア語タイトルは「ヴィシニョーヴィ・サート」で、頭の「ヴィ」にアクセント置くと「収入をもたらす実利的な園」となり、「シニュー」に力点を置くと「収入をもたらさない観賞用の園」になると、ロシア語に堪能な知人から教わった半藤さん。はたしてどちらなのか?日本人としては、「桜の園」であって欲しいとの想いから、日頃の探偵ぶりを発揮して、「謎」を解明すべくチェーホフの人生を追うことになります。

 チェーホフは、2月に始まった日露戦争あとの明治37年(1904年)の7月15日に亡くなっています。その3日前の知人宛ての手紙で、「日本が戦争に敗北するのを予想して「悲しい想いにかられている」と記した。そして死の床についたとき、ぽつんと「日本人」(単数)と呟いたという。」(同)
 夫人がシャンペンを口に含ませると、ドイツ語で「Ich sterbe.(死にます)」と告げて、静かに息を引き取りました。チェーホフは日本を訪れたことはありません。それなのに、戦争相手国である日本へ熱い想いを寄せ、そして、残した「日本人」という言葉。半藤探偵の謎解きが始まりました。

 謎解きの助けとなったのが、「チェーホフの中の日本」(中本信幸 大和書房)という本だというのです。それによれば・・・・
 日露戦争の15年ほど前の明治23年(1890年)、チェーホフは、サハリン(樺太)への長途の旅の帰途、中国と国境を接するアムール河の畔の街に投宿しました。6月26日のことです。そこでなにがあったのか。翌日付の知人宛ての手紙が残っているというのです。中本氏の著作からの引用です。
「・・・・羞恥心を、日本女は独特に理解しているようなのです。彼女はあのとき明かりを消さないし、あれやこれやを日本語でどう言うのかという問いに、彼女は率直に答え・・・ロシア女のようにもったいぶらないし、気どらない。たえず笑みを浮かべ、言葉少なだ。だが、あの事にかけては絶妙な手並みをみせ、そのため女を買っているのではなくて、最高に調教された馬に乗っているような気になるのです。事がすむと、日本女は袖から懐紙をとりだし、「坊や」をつかみ、意外なことに拭いてくれます。紙が腹にこそばゆく当たるのです。そして、こうしたことすべてをコケティッシュに、笑いながら・・・」(同)生々しい引用で申し訳ありません。
 当時、シベリア沿海州には、日本人「からゆきさん」がいたことが記録に残っています。その中のひとりの大和撫子との、たった一夜の契り。それが「チェーホフに優しさと暖かさというイメージ(夢)を抱かせ、その想いがふくらみ、ついに名作「桜の園」を生ましめた」(同)と半藤探偵は謎解きするのです。
 念を押すように、主人公ラネーフスカヤ夫人の「すばらしいお庭、白い花が沢山」と、その兄ガーエフの「庭は一面真っ白だ・・・月光に白く光るんだ」とのセリフまで引いています。
 劇としては、現実的に「サクランボ農園」というシチュエーションであるものの、チェーホフの熱い想いは、先ほどの探偵の推理通り、と私も納得できました。こんな日露交流があったのですね、
 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。