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伊豆の伝説の頼朝巡り、その1。

2007年12月20日 11時04分08秒 |   源頼朝


浄蓮の滝にある頼朝と政子の像(ウソ)。

秋葉山やら塚の首やらで、何のブログか分からなくなってきてしまってるような気がするので(←伊豆の伝説の探求の日記ですよ~)、少し路線回帰。少し前に数年掛けて溜めた写真をすべて失ってしまったので、それを補充しがてら、行った事のない場所も巡ってみたいと思います。
おおかたの説明はもう地図の方でしてしまっていまして、同じ事を書くのもなんなので、詳しい場所やあれこれ等は併読なされてください。

まずは伊豆の国市と函南町の境にある奈古谷へ。
ここには、文覚上人が流された「毘沙門堂」があります。しかし現在「文覚の寓居跡」とされている場所はその毘沙門堂にではなく、そこに行く途中の道の脇にあるのです。

流されてきたということは、ここに監視役はいたということでしょうか。
北条時政が監視役を兼ねたのかな。近くの寺院がそれを請け負ったのでしょうか。
頼朝の場合とは違い、彼のようなクソ坊主は流しっぱなしだったのかもしれない。古来からのこの地の流人事情・体制が気になるところです。伊豆大島に流された役小角も、夜になると富士山や日金山や葛城山を出歩いたといいますが、夜が明ければおとなしく配所に帰ったようですし。

現地の解説板に書かれている事。

「承安4年(1174年)、当地に配流。居寓6年、その間東奔西走、専ら源家の再興斡旋に努めた。治承4年(1180年)8月、源頼朝公の挙兵は実に上人の勘説よる所と、平家物語は叙している。
即ちこの場所が上人籠居の跡である。のち頼朝公は神仏家祖報恩のため、上人に布施して毘沙門堂を建立。源家の万福を祈った。春風秋雨八百年、慈に往時を追思しつつ略史を彫み、建碑の所以とする。昭和51年11月

ぷぷぷぷぷ、文中の「居寓6年」と「東奔西走」は相容れない言葉です、文覚に関しましては。毘沙門堂はここからさらに1kmぐらい山道を登ったところ。配所におとなしくいないのが文覚らしいですね。また、毘沙門堂を建立したのは頼朝であるかのような書き方ですが、郷土史によると建立者は慈覚大師円仁だということになってます。(どちらにしても怪しいですけど)。
室町時代、この毘沙門堂は畠山国清が作った(?)国清寺の奥の院扱いにされてしまうのですが、毘沙門堂自体は平安初期からあったものです。参道には7つの奇石が適当な間隔を置いてあるのですが、「文覚居」はその1つ目の「蛇石」の傍らにあります。蛇石は「小さな白蛇が住んでいて、たびたび人間に邪悪な業をなした」という石なのですが、、、 なんで文覚はそんな場所を選んで住んだのでしょうか。(文覚爬虫類好き説)。
階段を少しのぼったところが平らになっていて、そこに小さな祠があって地蔵・如来等が安置されていますが、ここに掘っ立て小屋を建てるにしてもかなり狭いですよ。もしかして野宿?


蛇石。「蛇がいた怪しい窪みがある」とのことですが、、 どこ?

その「奈古谷の七つ石」の2つ目が夫婦石です。

「頼朝と政子が文覚に会いに行く途中に一休みに座った石」とされています。
上記の「文覚寓居跡」よりも上の方にあることに注意。
なんだよやっぱり文覚はおとなしく言われたとおり毘沙門堂にいたんじゃん。この天の邪鬼さんめ。三島大社の頼朝・政子腰掛け石、黄瀬川の頼朝・義経対面石とくらべてこちらはやけに無造作な石なのが愛らしいです。やっぱり大きい方が頼朝用ですかね。政子用はゴツゴツ気高くて女性には座りづらいように感じる。しかし、私の勝手なイメージでは、胡散臭いクソ坊主の文覚の事を、勘のキツイ政子は一方的に嫌っていたと思うんですけど、仲良く頼朝と手を取って会いに来ることもあったんですね。
なお、七つ石とは、蛇石、夫婦石、谷響石、弘法石、大日石、護摩石、冠石です。これとは別に坊さんたちが文字を刻みながら登ったという「梵字石」がいくつかあります。あまりにも地味すぎて見付けるのは困難ですけど。

毘沙門堂の山門。立派に朽ちそうな仁王像があります。(噂によると運慶作。ウワサですけどね。でも、運慶の手が少しだけ入っている事は資料により確実だそうです。ほんとかよ)
その上に文覚が座禅したという「護摩石」があります。この護摩石、「石の上で文覚が火を焚いた」とされている大きく平らな石なのですが、案内板によると「そうではなくて文覚が硯がわりに使ったという伝説もある」と書かれています。この大きいのを硯にはムチャだろう。さすが文覚。さらに毘沙門堂の奥には文覚が荒行したという「不動滝」があります。…私はそこまで行ってないですけど、近くかな。
毘沙門堂の御本尊の毘沙門尊天像(伝・慈覚大師のお手製)は25年ごとに開帳されるそうです。…25年、、、 次はいつですか?

続きまして、函南町に向かって田代の里。
田代信綱といえば旧修善寺町の田代ですが、函南町にも信綱の屋敷があったという伝説があるというので、見に行きます。詳しく調べようとすると、「田代城」は付近に3つ存在しているそうなのですが、そのうちの2つは戦国時代のお城みたいなので、目当ては残るひとつ、田代信綱の時代の彼の屋敷のある場所です。…そこも戦国時代に北条氏の手が大きく入っているみたいなんですけどね。

田代郷へは、以前行った「舟山高源寺」からどんどん山方向へ登っていく道で行ってみます。「頼朝が高源寺から田代砦へ逃げるルート」というのも見てみたかったので。そういえば私は比企尼の墓のレポートを完結させてなかったですね、ははは。面白い寺だったのにな、ムーミンもいて。
ともかく、そのルートは思ったより開けていてのどかな畑が続いている。途中にはゴルフ場があって、そこから下界を見下ろす光景は絶景です。ゴルフ場は景色がいいなあ、ちくしょうめ。

田代郷は山の中の盆地。なぜだかここだけが計画農園のように道路が真っ直ぐ延びています。地図を見ても違和感のあるところです。いろんな記事を参照しながらその場所を特定しようとしたんですが、いまいちよくわかりません。コチラさんとかコチラさんとか。結局、「行けば分かるかも」と思って行ってみたのですが、やっぱりわからん。私にはわからん。多分上の写真のつきあたりの左手の丘のあたりのはずなんですけども。コチラさんみたいに地元の人に聞かないとだめですね。


こことか、


ここなどもそれっぽい。(自信はありません)

まあ、田代の里の雰囲気が見られたので良しとしましょう~。
家は年経た感じの独特な構えのお宅が多くて、なかなか楽しい町であったです。そういえば田代の里のキャッチフレーズは「メルヘンの里」ですって。個人的には、函南の伝説に伝わる田代信綱は、(もちろん)もともと修善寺の田代ではなくコチラの田代の里に頼朝挙兵前から住んでいて(…狩野一族との関係はどうなっていたんでしょう?)、また「別名・佐々木信綱という名でも呼ばれていた」というところが興味深いところです。佐佐木信綱、、、 そんな名前の歌よみの人、いましたね。この佐々木の姓はどこから来たのでしょう? 佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の兄弟とは関係が無いみたいです。


町の中に、伊豆では珍しい双体道祖神がありました。田方郡にある5体の双体道祖神のうち4つが田代にあるんですって。

続きまして、函南町の南方にある仁田忠常の屋敷跡。

行ってみると、普通にお宅の中の敷地にあるような感じで、びっくりしました。
「ここ、入っていいのかな~」とびくびく窺っていると、一軒から奥さんが出てきたので「こんにちわ~」と挨拶したみたら別に不審がられる様子もなかったので、「あ、入っていいんだな」と判断できました。表札を見ると仁田さん。

ここは昔の城塞屋敷としての雰囲気はとても良く残っている場所だそうです。堀とか土塁とか。
お墓は、仁田忠常、忠正、忠時の兄弟のものでした。忠正・忠時は永井路子の短篇『猪に乗った男』で北条時政と仁田忠常と永井路子に「なんで!?」と叫ばせた行動を取った二人ですね。いいやつらだったんでしょうけど。そういえば忠常の妻の墓はどこにあるんでしょう?

この案内板の図から考えるに、この屋敷の形が正方形だとしたら、邸内に川(来光川)の流れを取り込んでいたということでしょうか? 壮大だな。
北条時政による仁田忠常討滅後、仁田さんの一族は各地を流浪したのですが、やがてこの地へ帰ってきたのだそうです。屋敷の遺構には戦国北条流の手が入っている事も確認されているそうです。

ただ、写真はほとんどブレていました。
駐車場が無かったので、道の突き当たりに車を突っ込んで停めたところ、車に帰ったらすぐ近くにパトカーが見張っていてびびりました。そりゃ私は怪しい風貌だよ。見学していたのは10分ぐらいでしたけど。車に乗って道に出たら、パトカーは別方向へ行きやがった。しくしくしく、無職というだけで犯罪者心理。しかたがないですね、物騒な世の中ですもの。

続きまして、すぐ近くにある六萬部寺。
近くにあるわりには道に迷いまくります。

ここには、頼朝が伊豆配流中に写経したお経を埋めたという「経塚」があります。
その部数が60000あったから六萬部寺というそうなんですけど、、、、 20年間必死に書き続けたとして60000部、、、、 いったい一巻当たりどれくらいの時間がかかるんでしょう? 6万部はどれほど大変なんでしょう? しかも「部」と「巻」と「本」は違う単位なのかも知れませんしね。わたしは頼朝の20年間が「読経三昧」だったのか「写経三昧」だったのか、どちらだったのかが知りたい。写経しながら読経はできませんもの。私も写経を何度もしてみたから分かる。挙兵直前の頼朝は「千巻の経を写して伊豆山に奉納する」という誓いを立てて800本で挫折し、加藤景廉の弟に慰められているんですよね。頼朝はよっぽどの写経好きなはずです。

これを掘り返したら頼朝様の直筆が拝めるのか、、、、 60000本分も、、、、じゅるり。と妄想をたくましくしちゃうのですが、本当は、ここ、調べてみたところ、この塚は実は古墳だったということが判明しているんだそうです。・・・でっ、では頼朝が20年間写し続けたお経は一体どこにっ!? 古墳だって大事な遺産なのに、がっかりしてしまう自分が憎い。こんな形の良い古墳は伊豆には他にありません。

また伝説によれば、この寺の裏に「山木判官に見つかったときのために、ここから奈古谷まで逃げる為の隠し道」というのを文覚が用意していたそうなんですが、、、、 さすがにそれは分かりませんでした。

続きまして、韮山町に向かいまして。
韮山の反射炉の上へどんどん登っていったところにある「頼朝の一句石」。

この道は、韮山から田中山→亀石を超えて伊東へ行く主要道のひとつだったんですよ。現在の三福から浮橋を通って亀石に向かう峠道は、当時は無かったのだと思われます。
写真だと蔦に覆われて地味に見えますが、実際に目の前にするとなかなかの迫力の巨石です。
ここで、伊東の八重姫のもとに通う途中の頼朝は、句を詠んだということですが、どんな句だったのかは伝わっておりません。「俳句はその当時無かったんじゃないか?」というのは野暮なことです。連歌や今様だったかもしれないじゃないですか。

続きまして、旧大仁町の宗光寺に向かいまして、「頼朝の盃流し」の跡を捜します。


(これは浜松にある曲水の宴の公園)

伊豆に流されてきた頼朝は、京都の文化を懐かしんで、適当な小川を見付けて腹心の者を連れてきては、たびたび曲水の宴のまねごとを楽しんでいたというのです。鄙びた伊豆の地では面白いエピソードではありませんか。
ただ、例によってその場所の正確な位置が分かりません。図書館で見た本に寄れば、それは宗光寺川の奥にあって、「川の上流に上水道の取水地があって、垂直にそそりたつ屏風岩があり、そこである」というのですが、、、、 行ってみよう。
宗光寺川はすぐにみつかり、それに沿ってどんどんさかのぼって行くのですが、、、 屏風岩なんてものは無いですぞ。


取水施設ってこれ? 違うかな。

道が必ずしも川に沿ってはいないので、見落としちゃったかもしれないです。
挫折。念のためにどんどん道を登ってみますが、どこまで行ってもまばらに人家があるので感心してしまいます。失礼な感想ですけど。


藪に隠れたこういう水場が意外とそうだったのかもね。違うかもね。


川はどこまでが川なのかがわかりません。ここまで登るとこれはただの水路?
うーーーむ、適当に登ってきたのですが、こういうのはちゃんとした標識でも無いと見つけ出すのは困難です。頼朝が優雅な遊びをするためにたくさんのいかつい武将をひきつれた光景を想像するのも困難ですが、逆に頼朝/流刑地マニアとしてはそうした場面を無理に思い浮かべてみるのも楽しいことなのでしょう。
しかしこの分だと、付近にあるという「舟ヶ洞の二度栗」、「頼朝の一杯水」を探し出すのは相当の難題ですぞ。(今後の課題)

どんどん登ったら、前に行った「女塚史跡公園」に出ました。
前回は迷いながらここに着いたので正確な位置が分からなかったのですが、ここに至ってようやく位置関係が分かりましたよ。ここら一体を「田中山」と呼びますが、山といいながらここは頼朝の当時、下の里と同様に重要な人の居留地だったんですよね。
「伊豆の妖怪伝説」の「田中山の通り女」の項も参照してください。

宗光寺地区の山の手にある立花台という住宅街には、「白旗神社」があります。
ウィキペディアにある説明では、白旗神社とは源頼朝を祭っていることが多いとのことですが、これもきっとそうでしょう。


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