オセンタルカの太陽帝国

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柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

タイタス・グローン。

2012年09月07日 02時31分56秒 | 今日の、エウクストロネラ


さあ、夏も終わりましたし、ラーメンを食べるのはちょっとお休みして、本をいっぱい読みますよ私は。


11-09-22 02:34
今日の画 「1520年10月、カールは戴冠式を挙行すべく、ネーデルラントからアーヘンへ赴いた。彼は育ち盛りの20歳の青年であったが、それでも上手に馬を乗りこなし、一人前に槍試合に出場するほどになっていた。しかし健康は勝れず、憂鬱そうであり、表情は人の良さそうなところもあるが、きまじめすぎる感じも与えていた。彼はまだ自分の才幹を知らず政務の処理は専ら臣下にまかせきりであった。それを一手に引き受けていたのはカールの侍従長であるシェーブル卿ヴィルヘルム・フォン・クロアであった。彼は財政・宮廷・国家に対する絶対的な権限を持っていると噂されていて、さらにこの人はその主君と同じように、温厚な人柄であった。というより、主君カールはこの家臣シェーブル卿に見習って修養を積んだものらしかった。シェーブル卿の応対と態度に、好意を抱かぬ者はなかった。シェーブル卿の口から出る言葉はすべて、平和と正義にかなったものであった」 (レオポルト・フォン・ランケ『宗教改革史におけるドイツ史』)

2011-09-22 02:20
今日の売「かれの領土は多くかつ広大だったので、ドイツ国内の問題ただひとつに彼の祖父(マクシミリアン1世)ほどに全面的な努力を傾けることはできなかった。それに彼は元々ドイツ精神の動きを理解していなかった。彼はドイツ語もドイツ人の思想も解していなかった。ドイツ国民の中に、最大にしてまた最も個性的な宗教運動(=ルター問題)が起こった瞬間に、ドイツの国民性を理解しない皇帝(=カール5世)をむかえたということは、奇妙な運命であった。彼の政策はあまりに広い領土を対象に展開されていたので、ドイツの要求と努力は第二次的な意義しか持ち得なかった。決して皇帝が宗教問題に対して冷淡だったわけではない。むしろ皇帝は問題に非常な関心を持っていたが、それは、自分が関与することによって教皇に圧力を及ぼし、または脅かし、教皇庁に対する新たな立場を、あえていうならば新たな武器を提供し得る点にであった。」 (レオポルト・フォン・ランケ『宗教改革期におけるドイツ史』)

2011-09-21 09:08
今日の篠ウマラー、すなわち宮廷の貴族の皆が、フランスと同様に名門家系の出であると思ってはいけません。この国の土地はすべて大ムガルの固有の領地なので、公爵領も侯爵領も存在せず、従ってこの国で豊かな土地資産を有し、その収益を世襲できている者は存在しません。世を風靡しているウマラーであっても、その父がウマラーであることさえそんなに多くないのは、貴族の財産はすべて王(大ムガル)に相続されてしまうので、貴族の家が長く栄華を保つ事はできないのです。有力なウマラーの家でも、その息子か少なくとも孫の代になると、(王に全てを奪われるから)いわば乞食の境涯に陥り、どこかのウマラーのもとで平の騎兵として勤める決心を迫られるのです」 (旅行者フランソワ・ベルニエ『ムガル帝国誌』)

2011-09-21 07:39
今日の黒 「13世紀にアラゴン王ペドロ3世や教皇ボニファティウス8世の侍医も務めたアルノー・ド・ヴィルヌーヴという医師が、生命と健康のエリクシルを見つける研究に没頭し、そのため本業がはやらなくなっても気にしないほどだった。彼は苦心の末、あるひとつのくすりを調合した。それを飲むと最も老いて最も弱った患者でさえ、まるで子馬のように走り回った。アルノーはとうとう自分が生命のエリクシルを発見したのだと確信した。しかし、じつは彼が発見したのはワインを蒸留してブランデーを作る方法だった。(中略) アルノーや他の実験者たちは、基礎原料に使った葡萄・林檎・大麦などの中にすんでいる「生命の精霊」を抽出することに成功したのだと考えた。アルコール飲料が現在も「精(スピリット)」と呼ばれているのはこのためである」 (ゲリー・ジェニングズ『エピソード魔法の歴史 ~黒魔術と白魔術~』)

2011-09-11 07:20
今日の蓮 「隆信には、自分の武将としてのあらゆる地位が、このたびの一野戦(=島原の戦い・沖田畷)にかかっていることがわかっていた。(中略) 彼は素性が下賤であり、暴虐を恣にしたものの、多量の金銭を蓄え、その残忍さと暴虐によって一門からこのうえなく畏怖され、日頃は忌むべき快楽に耽溺し、求めうるあらゆる娯楽に身を委ねた日々を過ごしていた。だが今や彼は、金銀財宝も悦楽も全て忘れたかのように、また60という高齢をも忘れたかのように、専心して事に当たった。彼は、出動準備を極秘かつ短期間のうちに整えるように命じ、われら(=切支丹諸勢)が助かる見込みの無いうちにわれらの全領域を完全に占拠することを目論んだ。その細心の注意と配慮と決断はユリウス・カエサルとてそれ以上の迅速さと知恵をもって企て得ないかに思われた。元来、日本人はこうした機密についてはやや開放的なところがあり、また龍造寺はいまやわれらとあまりに接近していたのに、我らは次第が復活祭後の木曜日の聖ジョルジュの祝日になってやっと判ったほどであった」 (ルイス=フロイス『日本史』)

2011-09-09 14:25
今日の島 「太宗が言った。「朕が唐倹を交渉の使者として突厥に差し向けたとき、そちはすかさず総攻撃をしかけ、突厥を打ち破ってしまった。唐倹は生贄とされたと言う者がいる。私も疑問だった。そちの考えを教えてもらいたい」。李靖は深々と頭を下げると、「唐倹と私は同じ立場です。私は、唐倹の弁舌では突厥を説き伏せるのは無理だと判断いたしました。大きな災いを除くために小義を捨てることは必要なことです。そこで唐倹が危険となろうとも、突厥を攻撃したのです。決して唐倹を囮にしたわけではありません」「孫子の13篇の中では“用間篇”が最も下策です。そこで私はその注釈としてこう書きました。「舟を浮かべる水はまた舟を覆す。間者も勝利を手にするには重宝するが、逆に謬った情報を掴まされて大敗を招くこともある。臣が若年の頃から忠節を尽くし、威儀を正して常から誠を守っていれば、いくら他国の間者が暗躍しようともつけいる隙を与えない」。太宗はそれを聞いて言った。「孫子には「優れた人格を備えた人物でなければ間者は使いこなせない」と言っているが、確かにこれはつまらぬ人間のよく為し得ることではない。かつて周公旦は大義のために敢えて兄を手にかけたという。まして、一使節などいわずもがなのことではないか」」 (『李衛公問対』)

2011-09-09 12:14
今日の糖 「むかしシリアの大王アンティオコス3世が、アイトリア人の要請でローマ人を追い払うためにギリシャへ侵攻したことがあった。アンティオコスは、ローマ側であったアカイア人に中立を要請した。ローマもアカイアへ使節を送り、共に戦おうと言った。アカイア人はこの問題を大評議会に諮ることにした。この席上で、ローマの使節は説得した。「シリアの使節は、この圧倒的状況下であなたがたが事態に関わらぬことが有利だという。だが、これほど諸君の利益を無視した言い分は無い。何も関わらなければあなた方は何の恩恵も得られず、仮にシリアが勝った後ではあなた方は戦利品にされてしまうのがおちだろう」 このように、味方でないものが中立を要求してきたり、味方の側が「さあ立ち上がれ」と要請するなどは、ざらに起きることであろう。このとき、決断力の無い者は、目下の困難から逃れようとするあまり、多くの場合中立の道を選んでしまう。そして多くの君主が滅んでいく」 (ニッコロ・マキャベリ『君主論』)

2011-09-09 05:38
◆今日の陸 「ローマから逃げたコリオラヌスはウォルスキ人の国に身を寄せた。その国の軍勢を率い、祖国に腹いせをしようとローマを攻め囲んだが、自分の母の慈愛に打たれる出来事が起こって軍を引いた。ティトゥス・リウィウスはこの故事から「ローマは兵よりも将によって栄えた」と言っている。ローマはウォルスキ人より遙かに強く、負けたことなど無かったのに、コリオラヌスが将軍になったとたん圧倒されてしまったのである。しかしいかにリウィウスがそう考えようとも、ローマはその歴史の中で何度も大将の力量以上に軍兵が驚嘆すべき武勇を示しており、特に統領が死んだとたんそれ以前に増す見事な働きを見せたことが幾度もあった」 (ニッコロ・マキャベリ『ローマ史論』)
コメント (2)
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