振り返れば、浜松に越してきてから1年半にもなるんですよねえ。
最初は「徳川家康のことだけ調べよう」と思い、特に「浜松城と三方原合戦のナゾ」をメインテーマに据えようと思ったのに、徳川家康どころか他の記事もほとんど満足に書けない状態になってしまっています。惜しい。非常に悔しい。
去年の今頃も、桜の浜松城を撮りに出掛けた記憶がありますが、残念ながらその写真は消え去ってしまった。テレビで「浜松城の桜が真っ盛り」というニュースを(一週間ぐらい前に)見たので、懐かしく思ってまた行ってみました。
浜松城については書きたいことはありまくるほどあるのですが、どうも今はそんなに時間が取れそうにないので(ちゃんと、書きかけの記事を完成させたいんです。頭の中ではすべての記事は文章・構成が完成しているのに。越前旅行だって狸和尚の記事だって)、今日はただ撮ってきた写真を並べて、ちょっとだけ問題点を羅列するだけにしときます。
実は浜松城公園はそんなに広くないわりに地形が急峻で、なおかつ野面積みの石垣の壁が随所に迫り立っていて、天守閣の近くまで行ってもその姿が見える場所が極めて少ないです。星の数ほどあるいろんな人のお城巡りブログを見ていても、ほとんど同じ写真ばかりなのはその為です。
が、実をいうとこのお城の一番の見所はこんなチンケでデタラメな模擬天守なんかじゃなくて、この貴重な石組み構造の粋なのです。天守曲輪付近は本当に素晴らしい。
浜松城でも夜桜ライトアップが行われていて、よくテレビなどでもとりあげられていましたが、さすがに4/7ともなると派手に散り乱れてもいて、葉っぱもチラホラと出始めている。サクラももう終わりね。
でもそこかしこで座ってお茶飲んでる若いお母さんたちや宴会をしている会社員たちがいる。・・・・・今日って平日でしたよね? まったく羨ましいぜ。
浜松城の一階にある「若い頃の徳川家康の彫像」
いずれこの浜松城についてはきちんと立派な記事を書きますのでね。
いつか、いずれ、きっとね。
とりあえずいずれ書くつもりのテーマを羅列しておいて、今日のところは終わりにしておきましょう。
<問題点その①>.天守閣は誰が建てたのか
家康の頃、天守閣はまだ無かったと言われており、しかしこの石垣は家康が作ったという説が有力で、だからやっぱり家康の頃にはこの上に何かが立っていたとも言われている。
その話とは別に、昭和になって「市の象徴として」模擬天守が建設されるのですが、その設計をしたとされるのは名古屋市のなんとかという人で、その人はどうしてこんな形にしたのか。なにか根拠があるのか。なお、「予算が足りなかったので」ちょっと小さ目に設計したという。そういうのが当たり前に出来たそういう時代に興味があるし、浜松城は「小さいけれどもそれなりにカッコイイ」というのが一般の評価であるけれど、結局のところの実際の天守閣がどうなっているのかも気になります。
で、その昭和33年の再建前にはケーブルカーと何らかの建造物が建っていて、再建に伴ってそれは撤去されてしまったそうなのだけど、それがどんなものだったのかも気になる。
浜松城天守台の余り(笑)の部分
<問題点その②>浜松城は家康が遠州移住後に総力を挙げて建造を急いだ最重要拠点であり、従って家康の戦略思考の粋が表れているはず。しかし本には家康は浜松城を築くに当たって信玄が攻めて来るであろう東方面だけに重点化して防備を固めた、とあります。それは本当か。
だって、どう考えても信玄は北から攻めて来るもの。実際来たもの。
三方原合戦の時は信玄は浜松城の西北に陣しました。
浜松城の模型。
これは江戸時代の浜松城の模型ですがね、本丸(天守曲輪とその周辺)に対してそのまま右側が東の方向。これを見て東側が特に防備を堅くしているとは言えないと思う。
三の丸に侍屋敷が結集しているのでそれを見て、「守りが厚い」と思う人もいるかもしれないけれど、それは違うと思う。で、この写真でてっぺんにあるのが、のちに話題とする「曳馬古城」です。
私が注意して見るべきだと思うのは東北方向と、それから南側の構造です。
<問題点その③>「作左曲輪」とは何か。
浜松城の天守閣はもちろんこの付近の一番の高所に建っているのですが、浜松城の防備は前面(武田軍が攻めてくると思われる東側)に集中していて、天守の背後はただ木が生い茂るだけの自然の山だったのです。
その山のことを「作左山」といい、その山の向こうに作左曲輪があります。ちょうど、韮山城で言えば江川砦か土手和田砦に相当する部分ですよね。
でも、なぜ「作左」なのか。浜松城には「玄黙門」とか「巴城門」とか「樹木屋敷」とか「清水曲輪」とか「馬門・馬櫓」とか、興味深い命名が多いのですが、人名が付いているものは他にはありません。下の地図では右手が北の方角。「御誕生場」って誰が生まれた地名ですか?(結城秀康と徳川秀忠は別の場所で御誕生してます)。
一応、公園内の案内板には「三方原の合戦の時、心細くなった家康が「大丈夫かっ!? 大丈夫かっ!?」と取り乱していたとき、本多作左衛門重次がただひとり落ち着いた様子で、「大丈夫です、兵粮は十分蓄えてありますから」と言った。これを聞いた家康は喜んで、戦いの後に彼が兵粮を集めていた曲輪を作左に与えた」と書いてあります。・・・・変な話。
本多重次は「岡崎三奉行」のひとりで、「仏高力、鬼の作左、どちへんなしの三郎兵衛(天野康景)」とか言われていたと思うのですが、この頃はほぼずっと浜松城に詰めていたらしいですね。岡崎奉行なのに。志木沢郁氏の『結城秀康』には、極めて渋くて重くてゆるぎない印象的な本多作左衛門重次が出てきて、ステキです。
ともあれ、私が行ったときの作左曲輪はカラスだらけでした。
・・・それは、夜になるとみんなここで花見宴会をしているからですね。
<問題点その④>「引馬古城」について。
私が浜松城で一番好きなのは、引馬古城の部分です。
家康が三河から遠州に進出してきたとき、浜松庄には「引馬城」という小城があって、そこには飯尾豊前守という野心的な小領主が住んでいたのですが、家康は最初自分の拠点を磐田市の見付にしようとしてその無謀を織田信長にたしなめられると、次にこの引馬古城に目を付けて、これを拡張する形で浜松新城を建造するのです。
ただし、この「引馬古城」は現在の浜松城の本丸・二の丸の位置にはなく、三の丸にちょこんとへっ付くような形で、いわゆる「出城」みたいな形で存在している。
で、「武田氏の脅威が北東方面に存在した」のなら、この引馬古城の位置こそが、この城にとって一番大きな存在だったんじゃないか。
で、引馬古城がこれまた変な形をしてまして、なおかつ現在までその変な形のまま現存しているのですが、その古城についての詳しい報告は、また後の別の記事に譲ります。
天守閣から見た引馬古城。・・・どの部分かきっと分からないでしょうね(笑)。ホテル・コンコルド前のこんもりとした部分のことです。けっこう遠いです。「浜松東照宮」があります。
「玄黙門」の部分から引馬古城を見る。三方原の敗戦のとき、家康はこの門から浜松城に逃げ込んだんですよ。この引馬古城の部分は、何度でも言うけど形が素晴らしい!
この浜松東照宮の一番の見所は手水鉢のところにある渋い形の龍の飾り物ですが、気付かないところに龍を見下ろすように、猫の置物もあるんですよ。かくいう私も写真を撮りまくって、家でそれを整理していたとき初めて気づいた。こんなところに猫が!って。
東照宮といえば眠り猫。
<問題点その⑤>「道を踏み外した女(ラ・トラヴィアータ)」は実在したか。
家康の前に引馬城主だったのは飯尾豊前守連龍という男だったのですが、彼から家康への城の受け渡しの過程が、きわめてナゾなのです。
飯尾連龍はとても反逆的な男で、それまで遠江を支配していた今川氏に対して親子何代にわたって度々反乱を起こし、そのつど今川氏真に赦されていたらしい。
家康が遠江に侵入してきたとき、連龍はいち早く家康の傘下に入ることに決め、いろいろと手引きをするのですが、警戒した今川氏真によっておびき出され、家康が浜松に達する前に謀殺されてしまったらしいのです。
わけのわからないのはここからです。
連龍の妻は「お田鶴の方」という女豪傑だったのですが、自ら剣を取って、侵略してくる家康軍と華々しく戦って戦死したと伝えられています。
・・・なんで?
ただし、このお田鶴夫人の伝説は江戸時代の書物(『濱松城御在城記』)に書かれているのみで実在が確認できず、実在は疑問視されているのだとか。でももちろん浜松人はこの美丈夫をこよなく哀悼し、浜松城の近くに「椿姫観音」というのを建てて、篤く祀っているのです。