以前に書いた、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めのひとつとしておこなわれた韮山城攻城戦の布陣の地図の記事で、「この時の豊臣方の陣容を描いた史料として、『韮山城取巻人数書立』と『小田原陣之時韮山城仕寄陣取図』という2つがある。それぞれ戦いの前半戦(3月29日~30日)のものと後半戦(4月~6月)のもので、布陣図がだいぶ違う」と書きました。後半戦では豊臣の家臣たちはなかなか落ちない韮山城を取り囲んでおびただしい付城を作りまくり、それを示した図を前の記事では書いたのですが、前半戦の「韮山城取巻人数書立」の図も、私がよく源頼朝伝説について調べるときに枕の本にしている戸羽山翰氏の「史話と伝説 伊豆・箱根」に載ってました。
なので今日はその地図を。
前の地図(後半戦の地図)と見比べてみてくださいね。だいぶ違うでしょう。・・・相変わらず見にくくてスミマセン。白字と赤字はどうもいけないですね。それからゴメンナサイ、うっかり出城の「和田島砦」の位置を間違えてしまいました。以前書いた物の方が正しいです。
この連合軍の総大将は織田信長の次男である織田信雄です。彼はこの頃、尾張・伊勢で100万石を超える大大名で、この遠征にも破格の15000人の兵を引き連れて来ていました。以前の記事で私は、「(織田信雄は勇猛に先陣に出るような人間ではないので)総大将の陣は、戦線から遠い北条郷の守山砦か願成就院にあったのだと思う」と言った事があるとおもうのですが、これをみると最初は韮山城本城の大手門(正面)に面するように陣取っている事が分かりますね。遠いですけど。しかも、戦いが始まると彼が陣を前方に移動したことがわかる軌線が描かれています。あの無謀だけど臆病者な信雄が激戦の最中に前に! 明らかに彼はこの戦いは一瞬で終わると思っていたのです。(そりゃそうです)
一方、その指揮下にある諸将の陣は城から見て横の方に一列に並んでいます。これらはみな搦め手(横の方)から城に襲いかかっていったように見えますが、戦記によるとそのほとんどは「十八丁畷路」を通って韮山本城の大手門に襲いかかったみたい。当然、一番槍は猛将・福島正則とその愉快な荒くれ部下たちです。残念ながら城を守る知将・北条氏規の抵抗も激しく、最初の日の攻撃は散々に押し返されてしまったそうですが、細川忠興だけが、城の背面にある和田島砦から討ち入り、少しだけ戦果を挙げたそうです。(前にも言った事があると思いますが、細川忠興は伊豆の国市の姉妹都市である京都の長岡京市と、とても深いゆかりのある戦国武将です)。
以前の記事で、この戦いに参加した諸将の兵数を記したのですが、あれは新人物往来社の『戦国の魁 早雲と北条一族』に書いてあった小田原戦を諸将のリストから抜き出してそのまま書き写したものです(これは伊達文書を基にした数字だそうです)。でも、この戸羽山氏の本に書いてある数字はちょっとだけ食い違ってますね。参考までにこっちも抜き書きしておきますので、見比べてみてください。そもそ『韮山城取巻人数書立』とあるぐらいだから、人数の記述が本題の資料なはずですね。戸羽山氏が実際にこの『~書立』を参照にしながらこの図を書いたかどうかは不明なんです。そもそも、この史料の実物はどこにいけば拝めるんでしょう? ネットでざっと攫ったところ、毛利家文書に含まれているのかな?
<韮山方>
北条氏規 3,600<攻城方>
織田信雄 17,000
織田信包 3,200
蒲生氏郷 4,000
稲葉貞通 1,200
筒井定次 1,500
生駒一正 2,200
蜂須賀家正 2,500
福島正則 1,800
戸田勝重 1,700
岡本良勝 1,200
山崎片家 1,000
中川秀正 ?
森忠政 2,100
細川忠興 2,700
まぁ、史料の違いで少しの差異は当たり前なのでしょうが、山崎片家だけは3,100→1,000になってますね。そういえば『戦国の魁~』でも正確には「山崎片家ら 3,100」となっていたのでした。織田信雄だけは(どうせ動かなかったので)15000人が17000人になっていても、全然戦局に影響はありません。(ていうより多すぎだ)。現在の伊豆の国市(韮山町・伊豆長岡町・大仁町が合併して成立)ですら人口5万人なので、それに匹敵する人数がこの狭い地区にひしめき合っている様子、見てみたかったなぁ。折角ですのでみなさま伊豆長岡温泉に逗留くださったら、観光業的にも嬉しいんですけど。なお、前の地図では「生駒親正 2,500」になっていますが、戸羽山氏の本では「生駒一正 2,200」です。どっちが正しいんでしょう?(生駒一正は生駒親正の息子です。一緒に行動していたのかもしれない)
戸羽山氏の本には、『小田原記』に基づいて、最初の日の激戦を詳しく描写しております。まず、福島正則の家老である福島丹波守が、手勢を引連れて十八丁畷口から韮山城の表口に猛攻。それ目がけて城内からは激しい鉄砲の射撃がおこなわれました。実は以前から韮山城には多数の鉄砲が運び入れられており、それは寄せ手も知ってはいたのですが、福島正則はあえて特攻を掛けたのでした。最初の鉄砲の一斉射撃で丹波隊がひるんだところに、城の門が開いて、中から槍の名手として知られる波多野勘解由が、副将・根府川太郎次郎と300の槍隊と共に現れ、散々に丹波隊を追いたてまくってから場内に引き揚げます。この惨憺たる様子を見て逆上した福島正則が、今度は自ら新手の700名を引連れて門に押し寄せます。正則の怒号とともに猛然と壁をよじ登り始めた彼らですが、城内からは整然とした鉄砲の斉射が続き、寄せ手は丹念に打ち取られていきます。すると再び城の門が開いて、今度は大将の北条氏規が大きな槍を構えながらあらわれ、福島正則に一騎打ちを申し込みます。ここで壮絶な一騎打ちがおこなわれたというのですが、結局決着はつかず、福島隊は負傷者を回収して後退しました。残念ながらこの本には福島隊の先頭にいたはずの“槍の”可児才蔵が登場しないのですが、とことん槍と鉄砲尽くしの戦いです。
福島隊が退くと、今度は蒲生氏郷が押し寄せました。これも鉄砲の猛射を受け、死者430、負傷者1000余を出して(多すぎないか?)を出して引き下がります。続いて、蜂須賀、生駒、筒井が順繰りに攻め寄せますが、同じように数百ずつの犠牲を出しつつ退いたそうです。
その翌日、細川忠興が城の後方にある出城・和田島砦に攻撃し、ほんのちょっとだけ被害を与えることに成功したそうです。(前に紹介した小説『虚けの舞』では、このときの細川隊と北条隊の激戦の様子もかっこよく描かれております)。
結局、この最初の2日間の攻撃だけで寄せ手は城へまともにぶつかることをあきらめ(←おい)、やがて秀吉からの命令で総大将の織田信雄は解任され、韮山城の周囲にたくさんの付け城を築いて包囲するだけの、後半戦へと移っていきます。
せっかく諸隊が揃っているんだから、こんな小さな城、城の正面からばかりでなく四方八方から同時に攻め立てればいいのに! と思うんですが、それは素人の考えるあさはかはことなんでしょう。正面すらこれなんですから、他の地点にどんな迎撃策が施されているか分かったものではありません。彼らは石垣一夜城に包囲された小田原城と同じ手法で圧迫感を与えつつ、着実に弱所を絞り上げていく方法を採ったのです。
この韮山城攻城は、山中城攻城と同時に行われ(実際には山中城攻めの方が一日早かったですけど)、豊臣諸将にとっては秀吉にアピールするための絶好の機会と思われたはずです。山中城も凄く堅い城だと思われていたため、うまいことすれば韮山城を早目に落とし、さらに山中城攻めに加われ、功績も2倍だ♪と発奮していた武将も多かったと思う。しかし、実際には造りが見事な山中城がたった一日で落ち、一方でそんなに難しい造りだとは思われていなかった韮山城が3か月も落ちなかった。最前線である小田原城包囲に取り残された諸将の焦る様子が見えてくるようです。織田信雄がこの時点で総大将に任命されたのは(4年前の小牧・長久手の戦いでの信雄の栄光がこの時点まで続いているとは思われませんので)、彼に落ち度を作らせるための秀吉の意地悪だったと思うのですが(※山中城攻めの大将は秀吉の後継者の豊臣秀次だった)、秀吉の命令で織田信雄、蒲生氏郷、細川忠興が小田原へ呼び出されていく姿を見て、残された者たちはどう思ったでしょう。「貧乏くじだー」とやる気を失くしたでしょうか。かえって発奮したでしょうか。
大軍を率いていた三将がいなくなった時点で、単純計算で3分の1弱の軍容になってしまったはず。
どんな気持ちで、彼らはこんなにたくさんの付け城を黙々と作ったのだろうと想像してしまいます。・・・けっこうやる気いっぱいだったかもしれない。
カメラが故障し、これまで撮り貯めた写真も全部パーになってしまったため、ブログに飾る写真が無くなってしまいました。困った。なので今回は苦肉で『信長の野望・天下創世』に出てくる武将の絵でごまかします。前回掲げた『信長の野望・革新』の武将絵と比べても、顔がそんなに怖くなくて、これだったら包囲された氏規の身になってもおしっこちびっちゃうほどにはならないですね。
天下創世… 実はこのゲーム、戦闘システムが気に入らなくてほとんどやりこんでなかったんです。今回、武将絵を眺めるために引っ張り出してきましたが、シナリオが異様に少なくて(3つ)、一番遅いシナリオでも「信長包囲網」(1570年)なんです。とりあえずあと欲しいのは福島正則と細川忠興・・・ ところが細川忠興が登場するのは1578年なんです。とりあえず彼が出てくるまでゲームを進めてみようと思ったんですが、、、 思ったよりこのゲームおもしろくね? というより展開が変すぎない? 戦いが下手な私でも織田信長で始めて最初の3年で近畿を制覇してしまいます。(ネットで検索すると、やり方によってはたった1年で全国を制覇するのも可能らしい)。しかし、戦闘をついつい自動戦闘に頼ってしまう(めんどくさいこと嫌い)クセが祟ってか、戦闘だけはどうも勝ちパターンがわからない。攻略サイトなんかをみてみると「このゲームは戦闘がとても簡単」、「どんな強い敵が相手でも必ず勝てる策がある」、「CPUがすごく馬鹿」、「常に相手の1/3の兵で攻め込めばよい」、「何度かやればコツはすぐわかる」とあるんですが、私、何度やってもうまくいかないんです(笑)。ほんとヘタクソ。ま、おいおい忠興が出てくるのを待とう。