幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

幸福の科学の、高知の信者による共同ブログです。
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特別公開!「高知中堅の会」〇〇学会地区会潜入体験レポート報告メモ

2020-12-18 00:48:47 | 支部イベント

映画『エントラップメント』(Entrapment 1999年 アメリカ)/ スターチャンネルBS10 - 小父さんから

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本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。

幸福の科学高知支部での「中堅の会(仮称)」で、先日記事でお伝えした「ヤバいネタ(笑)」を披露してまいりました。

私の若かりし頃、大阪在住時代の創価学会地区会でのできごとをまとめたものですが、詳しくは、後述の当ブログ関連記事をご参照ください。

今回の参加者はまだ4人と少なめでしたが、多くの意見交換ができました。

来週12月25日(金)では、イチゴ農家で主夫でもあるMさんが、ヘルメスエンジェルスNo.297「時間を大切にしよう」から、時間創出の技を披露してくださる予定です。

それでは本日は、ヤバいネタのメモを特別に公開させていただきます。

        (ばく)

 

映画『美しき誘惑-現代の「画皮」-』特報【2021年5月14日(金)ROADSHOW】

創価学会地区会潜入体験レポート報告 (2020年12月17日 中堅の会で発表)

太字 大川隆法総裁の法話・経典から抜粋

※  ばく私見

西欧型世界宗教の歴史的背景

ユダヤ教  約3000年前 エジプト~イスラエル 開祖モーゼ 経典『旧約聖書』

キリスト教 約2000年前 イスラエル南部    開祖イエス・キリスト 経典『聖書(旧約+新約』

イスラム教 約1500年前 アラビア       開祖ムハンマド(マホメット)経典『聖書+コーラン』

戦争と宗教の関係 

世界の戦争の大部分は、宗教がらみ。しかし、有史以来、戦争による死者と、100年の歴史の共産主義(無神論)国の粛清数の比較すると、無神論社会では、戦争による死者の10倍以上が亡くなっている。

※どのような宗教であれ、無神論・唯物論よりはまし。

 

日蓮聖人の他宗教批判の真意 (経典『日蓮を語る』より)

日蓮を語る 日蓮を語る / 幸福の科学出版公式サイト (irhpress.co.jp)

「念仏無間」ー 釈尊をないがしろにしている(P27~)

「禅天魔」 ー お経をないがしろにしている(P32~)

「真言亡国」ー 密教は釈尊の真説ではない (P38~)

「律国賊」 ー 名誉心にとらわれた偽善者 (P46~)

キリスト教はどうなのか?また、イスラム教の位置づけは?
※創価学会は、今以上広がるべきでないし、未来に残すべき宗教でもない。宗教には、民族や国家の歴史を背負っており、批判するなら、それなりの知識や技量、そして覚悟が必要。
 
正法には、理証・文証・現証が伴う 
 
 
文証とは、文で書いた証(あかし)、すなわち言葉に表わせる教えがあることです。
理証とは、科学的な因果関係を含んだ法則を説明できることです。宗教の世界において、心の法則を明確に説き終え、そしていかなる原因行為がいかなる結果を招くかを論理的に説明ができることです。
現証とは、霊的な証明を伴うさまざまな霊現象を言います。真に神仏がこの地上に正しさ教えを述べ伝えんとして、光の使者を送りこんだときには、その重点は違えども、この文証・理証・現証を必ずや伴うとされています。  
『ダイナマイト思考』(大川隆法著 幸福の科学出版)P174~176
 
 
 
「日蓮大聖人の教えは、この三証が揃ってるから正法」しかし、それだけでは済まない。
※三証が正法の証なら、歴史的には、世界中に正法が存在しているはず。
※聖書の奇跡について。
少なくとも、日蓮聖人在世以降に伝わった教えは、文証・理証・現証に照らして判断すべき。
 
破邪顕正と真理
※正しいものは、どこから見ても、誰が見ても、いつ見ても正しい。何かを批判しないと、自らを正当化できないレベルの正しさは、大した正しさではない。
聖書も読まず、幸福の科学の経典も読まずに、「邪教だ!」というのは、正しさを追求する姿勢が甘く無責任。
 
日蓮宗と日蓮正宗の違いは、信仰の対象の違い。
日蓮宗ー釈尊
日蓮正宗ー日蓮聖人
 
「教」「宗」「派」の違い
※日蓮聖人を本仏とする教義の日蓮正宗系の団体(創価学会や顕正会)は、仏教一派ではなく「日蓮教」と名を改めるべき。破和合僧(はわごうそう)の罪で阿鼻叫喚地獄(あびきょうかんじごく)に行くのが怖いなら、とても信仰心があるとは言えないし、むしろ日蓮聖人に「乗っ取り屋」の汚名を着せていると思う。
 
三宝印と仏法 (諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)
※日蓮聖人の著書『立正安国論』や御書に、三宝印を感じる箇所は見当たらない。実績から言って、日蓮聖人が仏陀を超える霊的地位にあるというのは、無理がありすぎる。また、法華経の他の経典との大きな相違は、人間釈迦を超える「久遠実成の仏陀」という信仰対象の実在にあり、そこからくみ取れる、法華経至上主義の日蓮聖人のご意図は、「久遠実成の仏陀=エル・カンターレ」のご存在重視としか思えない。
 
池田大作氏の世界の要人対談について
政治的バランスで保たれた平和は、政治的バランスが崩れた時には、一瞬にして消えてなくなる。宗教が戦争の要因となっている現実の中で、政治家に平和を説いても、「時間稼ぎ」にしかならない。宗教間の和平、そして違う宗教の信者さん同士の和平が実現しない限り、絶対に平和など来ない。他宗教批判を伴う池田氏の平和活動は、とても信用できない。          
※他宗教批判と平和活動は、絶対に両立しない。なぜならば、戦争の最大の原因の一つが、「宗教の不和」だから。宗教間の和平、違う宗教の信者さんたちが融和し、尊敬し会える社会を、作り出す考えを探さなければならないし、なければ、作らなければならない。それしか、世界を救う方法論はない。
 
 

戦争が起きる原因は、経済的な飢えということでもって攻めてゆかざるを得ない、ということだけではないのです。もっと根源的なる理由として、相互の理解ができないということが原因となっています。理解できない原因は、文化に共通項がないことが多いからです。共通の言語、共通の文化、共通の行動様式を持たないところに不信が生まれます。そして、相手の考えが理解できないところから憎しみが生まれ、争いが生まれてきます。これも戦争の大きな大きな原因のひとつです。

これをなくしてゆくためには、人類共通の文化とでも言うべき価値基準が、どうしても必要になるのです。今までのキリスト教文化圏だけでは世界を包摂できません。それは二千年の歴史が証明しています。儒教、キリスト教、仏教、イスラム教といった諸宗教を超えた全地球的な価値観をつくって、世界中に浸透させるということです。この価値観、文化が共通の言語の代わりになるのです。これをつくらない限り、どうしても世界はひとつにはならないのです。

目先の一年や二年、五年や十年先に起きる小さな戦争は、今の私たちの力ではどうすることもできません。しかしながら、戦争が泥沼化して人類が堕落してゆく方向から、全世界をひとつにして新たな繁栄をつくり出してゆく方向へと転換するための力となることが可能であると、私は思うのです。

そのためには、一見遠回りなようにも見えますが、世界の多様なる価値観について、歴史を超え、文化を超え、民族を超え、言語を超えて、唯一なる神の理念から降りているところのその多様性を説明しきり、それをさらに統合する努力こそが必要なのです。

それができるところは、全世界に幸福の科学以外に絶対にありません。これ以外にないのです。これのみが人類の希望なのです。それ以外にも、もちろんよいものはいくつもあるでしょう。よい考えもあるでしょう。道徳もあるでしょう。そのような団体もあるでしょう。それを私は認めます。しかし、彼らが今、この地球時代の人類を救う力は持っていないということも、私はまた認めるものであります。

今、世界をひとつの価値観のもとに統合できるのは、幸福の科学の思想をおいて他にありません。我らはすべての統合を目指しています。すべての価値観を統合して共通の言語、共通の文化を築くこと、このようなすべての統合こそが、人びとが多様なるままにお互いを理解し、永遠の神に向かって向上してゆくための唯一の可能性なのです。私たちは、そのような大きな視野のもとに、今、戦いを開始しているのです。
『神理文明の流転』(幸福の科学出版)P164~172

 
創価学会の実践を重んじる文化
※彼らは、「正法が定着し、法華経の世になれば、平和が来る。四の五の言わずに、やってごらんなさいよ!私たちは、実践を重んじる。へ理屈ばっかり言ってるんじゃない!」ということをよく言うが、あくまで文証・理証・現証が正法。真理なら、他宗教批判と平和活動の両立などという、明らかな矛盾の内包はない。
 
文証・理証・現証が正法の証なら、つじつまがあっているべき。
平和活動をするなら、他宗教批判は止めるべきであり、他宗教批判を続けるなら、平和活動は止めるべき。創価学会の収去活動と平和活動には、どちらかにうわべだけのものがあり、少なくともその点は信用できない。どちらか一方だったら、少なくとも、信用することはできただろう。
 
※彼らの最後の言葉は「魔が入った。」
 
旧約聖書の「出エジプト記」と法華経の「化城の喩」の類似点
※太陽は一つ。人の数だけ、太陽があるわけではないが、説明の仕方は無限にある。
※「この経典だけが正しい」とか「この教えだけが正しい」というのは、ちっぽけな書籍や団体の中に、偉大な神仏を閉じ込めるようなもの。そういう自団体唯我独尊主義は、無責任であり、偏狭というだけでなく、不遜でもあると考える。
 
ARI Production株式会社
 
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