前回記事から、私の生涯反省の意味を込めて、私の21歳のころからの、日本最大の宗教団体S会との関わりについて、語らせていただいております。
非公開がご希望なのでオープンにできませんけれども、早速多くの方からコメントをいただいておりまして、この場をお借りして感謝御礼申し上げます。
そう、実は、私が幸福の科学に入ったきっかけは、S会さんとの出会いからなんです。これは直接的な幸福の科学の布教にはならないのですが、「何らかの伝道のきっかけになれば・・・」という、自身の心の疼きに従います。
で、私の若かりし頃の、S会の地区会でのバトル話の続きです。まだ前作をお読みでいない方は、ぜひ読んでくださいね。
しかしまあ、なんとも怖いもの知らずですね。(笑)
今思い出しながら、ヒヤ汗流しております。(爆笑)
「よくあんなことが言えたなぁ~。」と、今更ながら思いますね。
そりゃあ、普通怒りますよー。あんなこと言われたら・・・。
「あんなこと」というのは、「Sさん(S会の地区長)の話を伺って、僕に言えることは、S会は、今以上広がるべきでないし、未来に残すべき宗教でもないと確信しました。」という言葉です。
S会の方は、意外に我慢強いのかも知れませんね。
その時の様子を振り返ると、地区会にいた皆一同、瞳孔は開き、口も開き、この若僧(ばく)が言った言葉が、あまりにも予想外なのでビックリした・・・。
そんな感じでしたね。(笑)
まず、当時の私は仏教用語を全く知らなかったので、仏教用語連発のSさんに、実際は何度も聞き返しておりますが、そのまま文章にすると、何がなんだかわからなくなりますし、文字数がいくらあっても足りませんので、読みやすいレベルにまで、すっきりさせていただきます。
では、お待たせしました。「ばくの幸福の科学への道 リアルドキュメント編(笑)」の続きをば・・・。
「ん?ばくちゃん、何?今なんて言った?」
ばく
「ですからぁ、S会の教えがこれ以上広がってもいけないし、これから先、残ってもいけないと言いました。」
Sさん
「でもね、ばくちゃん、正法(正しい教え)は、広がらなきゃーあかんのよ。」
ばく
「正法・・・? その証拠はあるのですか?」
Sさん
「正しい仏法には、理証・文証・現証が伴うんや。」「理証(りしょう)は、つじつまが合っていること。文証(もんしょう)というのは、文章で書いたものがあること。現証(げんしょう)ちゅうのは、良い結果が現れることやな。」
「日蓮大聖人の教えは、この三証が揃ってるんや!!」
ここで三証について、Sさんは、詳しく私に教えてくださいました。
そう、Sさんは親切で、とてもいい人なんです。
今から思うと、可愛そうなことをしましたね~。
あっ、ネタばれしちゃう。内緒内緒・・・エヘヘ。(^^)
つづきです。
ばく
「だったら、キリスト教も正法ですね。」
「なんでや~!あんなインチキ宗教!」
ばく
「でも聖書という経典がありますし、筋道通った理屈もあります。それに奇跡も、一杯起きていますよ。」
「イエス・キリストの人生は、奇跡の連続でした。」「ユダヤ教の開祖モーセは、紅海を割りましたしね。」
「日蓮大聖人さまは、海を割りましたか?」「イエス・キリストのように、死人を蘇らせていますか?」
「キリスト教は、ぜ~んぜん、インチキなんかじゃありませんよ。」
「それにね、宇宙の始まり、ビッグバン説は、聖書の創世記が元になっていますけど、Sさんは、ビッグバン説がインチキだとおっしゃるのですか?」「それとも、いや、本当はこうなんじゃ!っていう、S会の見解でもあるのですか?」
「正しい宗教の証拠が、理証・文証・現証の三証ならば、キリスト教を批判する際には、経典である聖書の内容を、三証でもって批判することこそが筋道でしょう?」
「Sさんは、言っていることと、言っていることが違っています。」「ところで、Sさんは聖書は読んでいますよね?」
Sさん
「読むわけないでしょう~。あんな邪教の経典なんか!」
ばく
「え”っ!! これは聞き捨てならないですね~。Sさん、聖書も読まずに、キリスト教を批判なさっていたんですか?」
「Sさんは、読まずに内容を理解できる、超能力なんかをお持ちなのですか?」
Sさん
「超能力?僕はそんなものはありませんし、必要もありません。」
「でもね、ばくちゃんね。間違いを破邪することで、正しさは現れるんよ。これを、破邪顕正(はじゃけんしょう)と言う。僕らは、これをやっているんやぁ!」
ばく
「Sさん、お言葉ですけれどもね、正しいものはね、それはね、どこから見ても、誰が見ても、いつ見ても正しいんですよ。」「そりゃ、一時的に誤解されることは、あるかも知れませんよ。ガリレオの地動説みたいにね。」
「ただ正しいことなら、いずれは証明されるんですよ。他を批判しなけりゃ証明できない正しさなんて、大した正しさじゃないです。」
Sさん
「なんだとぉ!もう一度言ってみろ!」
「ガリレオもビッグバンも、どっちも科学の世界やないか!僕たちは、宗教の正しさを言っているんや!」
ばく
「何度でも言いますよ。」
「それはね、相対的な正しさ・・・と言うんだよ。」
「そっちよりも、こっちの方が、少し正解に近い・・・って感じですかね。」
「絶対的な正しさはね、他の者を批判する必要なんてないんだ。」
「見りゃ、わかるんよ。誰でもね。」
「それは、宗教だろうと科学であろうと、推理小説であろうと同じなんですよ。」
「これを、”真理”と呼ぶんです。」
「一言で言えば、Sさんは、正しさを追求する姿勢が甘いです。」
「甘い甘い!!チャンチャラ甘いね!!」
ああ、こんなこと言っちゃって、本当に当時の私、大丈夫だったんでしょうかね。(^^;
当時弱冠21歳の若輩者が言うのは、大変申し訳なかったのですけど、つい(笑)、ホントについ、口走ってしまいました。 (^^;
そのS地区長さんの反論からです。
Sさん
「君だって、S会のことを、何も知らないのに批判しているじゃないか!」
ばく
「僕は、S会を批判しているんじゃありません。Sさん、あなたの他宗教批判の、その姿勢を批判しています。」
「S会の事は、僕は全然知りませんから、批判しようがありませんから、この状況で、S会の批判をすれば、僕はあなたと同じです。」
「あなたは、聖書を読んでいないのに、キリスト教らを批判しましたね。」
「これが、自らを正しいと言った、S会にとっては問題だ!と言ったのです。」
「それとも、S会の教えは、他宗教批判しかないとでも言うのですか?」
「だったら、話は違ってきますけどー。」
Sさん
「もちろん、そんなことはありません。では・・・」
と言って、SさんはS会の教義の説明をし始めました。
結構な長時間、彼は論説を述べていましたが、私はずっとそれを聞いていました。
そして気になった部分を、Sさんに訊ねました。
ばく
「S会は・・・、仏教・・・ですよね・・・?」
Sさん
「はい、仏教ですよ。これが、本当の仏法です。」
ばく
「でも日蓮大聖人様は、お釈迦様より、偉いんでしょ?」
Sさん
「そうです。日蓮大聖人こそ、末法に現れた本仏です。」
ばく
「日蓮様は、お釈迦様の経典の中から、法華経のみが正しいとおっしゃった・・・のですよね?」
Sさん
「そうです。」
ばく
「たとえば・・・数多い、ナショナル(現パナソニック)の製品の中から、このテレビこそが、創始者松下幸之助さんが作りたかった理想のテレビだ!という感じですか?」
Sさん
「あーはははは、ばくちゃんは、面白いこと言うねぇ。ハハハ。まあ、そんな感じやな。」
ばく
「でもそれじゃあ、日蓮大聖人は、お釈迦様の教えの体現者・・・であるけれども、お釈迦様より偉い・・・ということにはなりませんけどー???」
Sさん
「違うんです、違うんです。」
「末法の世は、正しい見解がうせて、そのように誤解されるんよー。」
ばく
「イエね、僕は日蓮様がお釈迦様より偉くても、別にいいんですよ。」
「それが事実ならばね。でも・・・、」
「だったら皆さん方、 ”日蓮教” じゃないといけないですよ。」
Sさん
「え”っ、そっ、そんなことは、できませんよー!」
ばく
「いや、そうじゃないと、筋が通らないんですよ。」
ばく
「また聖書のことで、誠に申し訳ないんですけど・・・。僕は今の所、聖書しか知識がないから、皆さんゴメンネ。」
「3000年前の今のエジプトで、十戒で有名なモ-ゼに、神様が啓示を降ろしました。これが旧約聖書の始まりで、そこからユダヤ教ができていますね。」
「そして2000年前の今のイスラエルで、イエス・キリストがね、これは新しい福音じゃ!って言ってね、古い教えを超えたということで、新約聖書ができてました。」
「これが、キリスト教ね。」
「そして、ユダヤ教・キリスト教を土台に、更にそれを超えた・・・ということで、1500年前のアラビアで、マホメットが作ったのがイスラム教です。」
「経典は、旧約聖書と新約聖書に、コーランが追加されました。」
「つまり、越えた・・・ということはぁ、もう新しい教えですから、S会の皆さん、仏教・・・という枠組みに入ってたら、いけないんですよー。」
「たとえば・・・、ナショナルの販売店でね、自分たちでテレビ作ってたとしてね、これはナショナルの製品より優れています!って言えばね、その時点もう、ナショナルの看板を、掲げている訳にはいかんでしょう?」
「皆さん、今からでも遅くありません。S会を ”日蓮教” にしてしまいましょう!」
Sさん
「ばくちゃん、それは破和合僧(はわごうそう)の罪といって、絶対にやっちゃいかんのやで。」
「重罪として、阿鼻叫喚地獄(あびきょうかんじごく)に行くんやで。」
ばく
「Sさん!何を言っているんですか!!お釈迦様より、日蓮大聖人は偉いんでしょう?」
「そう信じているなら、Sさん、地獄に行くことを恐れてちゃいけません!」
「でないと、なんだかすっきりしなくて、そう・・・・、な~んだかなぁ・・・、日蓮さんが乗っ取り屋みたいで、ヤな感じなんですけどーぉ。」
今日はここまで。まだまだ続きますよ~~~!!(笑)
ということで本日は、大川隆法総裁経典『大悟の法』(幸福の科学出版)より、仏陀の説いた仏教と、鎌倉仏教の大きな大きな違いが分かる一節をご紹介いたします。
(ばく)
愛は憎しみを超えて~大川隆法総裁台湾講演リポート~ 天使のモーニングコール 1433回 (2019/3/16・17)
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=142
仏教は、一つには、非常に自由な教えであり、決して不自由なものではありません。それは教義においても当てはまります。
釈尊の没後二千五百年のあいだに、仏教教団にはいろいろな教派が数多く出ましたが、そのなかには、仏陀が説いた教えとは正反対のことを唱えているものもあります。それを許容するほど、仏教は器が大きいのです。
仏陀が説いた教えのなかから一部分のみを取り出して、それを宣べ伝える人が、あちこちに出たのですが、それを許容するものが、仏教にはもともとあったのです。
たとえば、日本の鎌倉期には、「坐禅こそが仏教だ」と説いた人(道元〔1200―1253〕)もいます。確かに、釈迦仏教にも坐禅はありましたが、仏陀の教えは坐禅しかなかったわけではなく、心の教えもあり、さまざまなものを含んでいました。
また、「念仏こそが仏教の本質である」(「仏教は念仏である」とも)と説いた人(法然〔1133―1212〕・親鸞〔1173―1262〕)もいます。その念仏とは、「南無阿弥陀仏」と口で称えることを指すようですが、もともとの念仏の意味は、そういうことではありませんでした。
本来の念仏とは、本章の2節で述べたように、「仏の姿を心に思い浮かべ、仏と一体になっていく。仏を念じて仏と一体化する」ということであり、「南無阿弥陀仏」と称えることではなかったのです。
ただ、これも、「南無阿弥陀仏」と言葉で表す過程において、仏と一体化していくことはありうるので、完全に否定することはできません。
あるいは、日蓮宗系の一部の教団では、「『法華経』こそが正しい教えである」と言って、それを行動の原理、折伏の原理としています。確かに、釈迦教団においても、間違ったものに対して厳しく破折した面があったことは事実です。
そういう意味で、仏教はさまざまな面を持っていました。仏教には、さまざまな面についての寛容さがあったのです。
それが、仏教の二千数百年の流れのなかで、多様な教えや新しい宗祖が数多く出てきたことの理由です。そのすべてをのみ込み、ガンジスの河のように滔々と流れてきたのが、仏教の教えなのです。
なかには、仏陀の説いた教えとは逆様のことを説いている場合もあり、川が逆流することまで許しているようにも見えます。
『大悟の法』(幸福の科学出版)P248~250
釈量子 幸福実現党党首 https://hr-party.jp/
★3月23日(土)13時 釈党首(幸福実現党)参加費1000円。
場所:高知コミュニティスクエア(旧:共済会館)
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若干二十歳やそこらで聖書しか知らずに
すごい説得力です。
幸福の科学に入会して20年以上経つのに信じきれない私を是非伝道してほしいと心底思いました。
今回紹介していただいている同じ論法で知り合いのS会の人を伝道しようと思ったりもしましたが、私よりもその方のほうがキラキラとして幸せそうなので諦めますが。
チバさんは、信じ切っていますよ。
「信じ切れていない」と仰っているのに、主に、20年もついてきていらっしゃるのですから。
S会の方、ぜひ折伏してください!
今回、信者目線での内容の全容が、ほぼ明らかになるはずですので。(笑)