敬語は日本独特のもので、他の国語には無い、と思っている人が多い。
と、丸谷才一先生が書いている。
人間が集まれば、敬語・丁寧語・謙譲語的なものはどこの国にもあるもの、と思っていた森男は、作家評論家英文学者博識者の先生が書いた随筆(2/6朝日「袖のボタン」)を読んで、間違っていなかったと安心した。
月に1回掲載されるこの随筆には、いつも感心、納得、同感させられていた。
今回は文化審議会国語分科会の「敬語の指針」(答申)について、色々書いている。
殆ど全て、感心、納得、同感です。評価しようにも、全くの門外漢で、解らないことも3割(いや、もっとか)はありますけどね。
ただし、一箇所、「?」があった。それは、植木に水をあげる、水をやる、について、答申では「あげる」は本来謙譲的意味をもっていたが、昨今では美化語になっているから、どうでもいいや、と言っているのは、大勢順応型の間違った処理である、と難じている。
そして、言葉は保守的な趣味を大事にしながら、新しい事態に対応してゆかねばならない。ついでに言い添えれば、「植木に水をまく」と言えばいい、と書いている。
そうだろうか。
「水をまく」と言えば、例えば庭のように広い場所の植木に水をかけることであり、「やる」は鉢植えの植物に対する散水・注水作業である、と思う。
夏などは、葉が茂っていて如雨露で水をかける場合は、殆ど「注ぐ」的な作業になる。冬は葉が無い植物が多いので、まあ「かける」ですね。「まく」では広過ぎてスプリンクラーのようだ。
流石の丸谷先生も、東京のマンション住まいで、実際に植物の面倒を見ていないのではないか。でも、偽庭師・森男としては、先生でもよくご存じないことがある事を発見して、「ちょいと」嬉しくなった。
先生は植木には水を「やる」が正しくて、「あげる」は困った語法である、と書いている。ここまでなら全く感心、納得、同感でした。
ついでに書き添えれば、丸谷先生は以下のように、敬語習得法を書いて、答申に注文を付けている。
敬語は実生活で習うのが本筋だ。先輩のものの言い方を真似たり、「他人のふり見てわがふり直せ」をやったりするのが上策だが、それは理想論。次善策として、里見の小説や小津安二郎の映画を参考にすればいい。これらなら、名人芸の描写力だから、状況がいちいち具体的に迫ってくるし、言葉そのものも洗練を極めている。答申にはこんなことも書いてもらいたかった。
ところで、植木の水遣りだ。
冬季は葉が無いし、寒くて水を触りたくないから、つい疎かになって、枯らしてしまうことが多い。夏は遣り過ぎて根腐れを起こすことがある。全く水遣りは、敬語より難しいのです。
揚げ足。
小津安二郎の映画では、原節子がしばしば「ちょいと」と言う。これって、「ちょっと」耳障りじゃないだろうか。
以上洗練されてない物言い、ごめんなさい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます