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全国城めぐり宣言 第44回 「甲斐国 若神子城」資料編

2023年07月06日 23時02分46秒 | 全国城めぐり宣言
甲斐国 若神子城とは

 若神子城(わかみこじょう)は、山梨県北杜市須玉町若神子にあった中世の山城で、現在は城跡が残り、山梨県北杜市指定史跡となっている。現在の山梨県北西部に位置する須玉町の、西川と湯川に画された三本の尾根上に立地し、北城(北ノ丸)・古城(本丸)・南城(南丸)の三つの城郭から構成される。

 江戸時代の文化十一(1814)年に成立した地誌『甲斐国志』によれば、築城主は甲斐源氏の祖にあたる源新羅三郎義光(1045~1127年)であり、義光から三男・武田冠者義清、その嫡男・逸見冠者清光に伝えられたとしている。
 戦国時代には武田家の信濃国侵攻における国境の拠点として重要視され、佐久・諏訪口方面からの狼煙の中継点、陣立ての地として利用されたという。武田家の滅亡後、武田家遺領をめぐる天正十(1582)年六月の天正壬午の乱では、信濃国から相模国の大名・北条氏直が甲斐国へ侵攻し、若神子城に本陣を起き周辺の城砦に布陣した。これに対し三河国の大名・徳川家康は、現在の山梨県韮崎市中田町中條に所在する新府城に本陣を置き、七里岩台上の城砦に布陣し、北条軍と対峙した。その後、同年十月に徳川・北条同盟が成立し、氏直は甲斐国都留郡から撤兵した。その後の若神子城の廃城年は不明である。

 若神子城のうち、北城は小手指坂の南に位置し、規模は東西100メートル、南北400メートルで、西側と南側に土塁が残されている。古城は西側の尾根上に位置し、規模は東西100メートル、南北200メートルだったが、明治時代に破壊されている。南城は台地東側の張り出し部分に築かれ、廃城後は東漸寺の土地になっていたという。南城も1982年に破壊を受け、茶臼や常滑焼の破片など遺物が出土している。同年には公園建設のために古城で発掘調査が実施され、薬研堀や掘立柱建物跡が検出された。その後1984年には北城の発掘調査も行われ、柱坑列が検出されたほか内耳土器やかわらけなどが出土したが、時代を特定できる遺構・遺物は見られなかった。
 北城・古城・南城のいずれも、北側の防御が手薄であることが指摘されている。
 地名の遺称として、古城北東の沢が「たつのくち」、南城東側の沢が「新羅くぼ」と呼ばれている。

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