長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

そうだいのざっくりすぎるアイドルグループ史 第5回 『おニャン子クラブ誕生前夜』

2011年05月11日 23時20分20秒 | ざっくりすぎるアイドルグループ史
 どんもだんも~、そうだいでっす!
 今日はね、「私の携帯電話が徳永英明なみのこわれかけになってきてイイ感じ」という話題を最初にやりたかったのですが、朝めざめてニュースを読んでいたら非常に興味深いお話があったので、そっちのほうを紹介させていただきたいと思います。


「2年後にAKB48終わってる」指原莉乃の爆弾発言で騒然(Yahoo!JAPANニュース 5月11日の記事より)

 アイドルグループ「AKB48」の指原莉乃(さしはら りの 18歳)さんがTV番組で「AKBは2年後に終わっている。」と発言し、収録スタジオが騒然となった。「AKB」が終わってしまうと芸能界で生き残れないため、「危険物取扱者の資格を取りたい」というのだ。
 この発言を巡り、ネットでは指原さんのことを「ネガティブ指原」などと呼ぶようになっている。
 出演した2011年5月10日放送の日本テレビ系トークバラエティー『踊る!さんま御殿!!』の中で、

「今はAKBという名前があるから番組に出させてもらっているが、将来、いつか絶対に(番組に)出られなくなると思っている。」

 などと告白した。
 司会の明石家さんまから「芸能の仕事をいつまで続けるのか?」と質問されると、

「2年後に私は20歳になるんですけど、たぶんAKBは終わっているんですよ。」

 と衝撃発言。スタジオ全体が騒然となった。
 AKBが終わるというのは解散するということではなく、人気がなくなってしまうということ。現在「AKB」は人気絶頂でゴールデンタイムを含め数多くの冠番組を持っているが、それもやがて無くなると指原さんは推測する。
 番組ではまず、デビュー10年にして初めて『さんま御殿!!』に出演したグラビアアイドルの折原みかさん(27歳)が発言した。初登場の夢を叶えるため10年間ずっと自分は努力してきたが、後輩のタレントは「オバカキャラ」だけで注目され何度も出演している、などと愚痴った。
 努力の中身は、麻雀、財テク、FXを勉強し、筋トレに励んだこと。「ジャンドル(麻雀アイドル)」を目指せばTV出演の機会が増える、などと考えたからだ。
 指原さんは共感。「AKB」の人気はいつまでも続くわけではないし、「AKB」に頼っているだけでは番組からのオファーはなくなってしまう。芸能界で生き残るには何らかの資格や特技を身につけなければいけない、というわけだ。
 ねらいは危険物取扱者。「危険物取扱者アイドル」の道が開けるかもしれないということらしい。


 ……言っちゃいましたね! っていうか、個人的には指原さんよりも折原さんの話のほうが非常に興味深いです。なんか、まんまそんなことを『ピューと吹く!ジャガー』の「かりそめのヒロイン」こと高菜さんが考えるエピソードがあったような気が……

 私もつい最近まで、わが『長岡京エイリアン』で一連のこんな感じの「アイドルの歴史をチラ見する特集」をやってみようかと思いつくまでには、「アイドル」というものは人気商売なのかな? という程度の認識しかなかったので、そんなアブない発言を自分からぶっちゃけちゃっていいんですか!?と、そのころの私ならば単純にびっくりしていたことでしょう。
 ただ、こうやっていろ~んなAKB48への道をつくりあげた先人たちの軌跡をたどってみると、今はこう感じてしまいます。

 そんなこと、あ~ったり前じゃないですか。

 これはねぇ、人間が「私そのうち、死ぬんですよネ!」と発言してまわりの人たちがワタワタするようなもんだと思うんですよ。AKB48でなくても、全盛期を迎えたアイドルが2年後に終わっているのは自然の摂理なんです。
 AKB48がはたして今現在の状況をもって「全盛期」を迎えているのかどうかはわからず、まだまだこれからアイドル史上前人未踏の領域に入っていくのかも知れないということはあるのですが、少なくとも2年後には「今の形態の、今のメンバーの」AKB48は終わっているだろうと、私も思います。

 要するに、指原さんが具体的にどんな状況を思い描いて「終わっている」と言っているのかはわからないのですが、解散していなくても、メンバーの1人1人が今以上に有名になって活躍していたとしても、AKB48が2年前とほぼ同じアイドルグループであり続けるのは不可能だ、ということなんじゃないかと。
 ソロもグループもひっくるめて、「アイドル」というものは人気商売である以上に、「お客さんの期待する姿の自分をみせ続ける商売」なんじゃないかと思います。
 はきはきと健康的な発言をする陽気なアイドル、どことなく陰のある表情が魅力的なアイドル、水着グラビアで男性を幸せな気分にさせるアイドル、信じられないくらいおバカな発言をして周囲の人々を笑わせてくれるアイドル……
 いろいろあるわけなのですが、どのアイドルも「自分」は心身ともに捨てているお仕事です。もちろん、ちゃんと楽しみながらそれをやっているという方がほとんどなのでしょうが。

 そして、「自分を捨てる」という行為は普通の人には何年間も続けられるものではありません。才能の活かせなかった人は自分からあきらめるか世間に飽きられて芸能界を去って行くし、才能を活かすことのできた逸材は「自分のやりたいことをやって人を魅了する」アーティストに脱皮していくわけなのです。山口百恵さんなんかもう、生き仏さまみたいになってるでしょ。グラビアアイドルで有名になった人が「服を着ていく」パターンも、たぶん別に「水着の仕事がイヤでしょうがないから。」という単純な理由だけではないはずなんです。

 てなわけでね、今いるAKB48のみなさんは、多くは指原さんも含めてアイドルから別の何かに変身していくはずです。これは人間が成長するのとおんなじことで、それを止めることは無理であるハズです。15歳の子どもが何年経っても15歳のままでいるのって、その子がどんなにかわいくても気持ち悪いでしょ!?
 その時、グループ名の「AKB48」が残っていたとしても、中身はまったく別の存在になっていることでしょう。2001年の「モーニング娘。」と2011年の「モーニング娘。」を同じアイドルグループだと考えている人はいませんよね。

 結論として、指原さんの発言は特に衝撃的なものではなかったということですな。
 ただ、指原さんがそういう発言をするキャラクターであることをアピールしたことと、AKB48が主要メンバーのそういう発言を許容する時期にきたということはおさえておきたいですね。
 いよいよ、次の段階に入る時がきたって感じですか~!? もりあがってまいりました。

 この「ざっくりすぎるアイドルグループ史」を始めたあとにこういう話題が出てくると、なんかタイムリーでいいですなぁ~。指原さん、ありがとうございます! やっぱ今月にこの企画を始めといてよかったわ~。ちゃんと終わるかどうかはまだわかんないけど。


 さてさてい! 今回はいよいよ、1980年代を代表するアイドルグループとなった「おニャン子クラブ」の章に入っていきたいと思います。てえへんだぁ~い!!

 え~、なにかと「AKB48の原型」と語られることの多いこのおニャン子クラブなのですが、実際にその通りではあるものの、

 中身はもう、ずえ~んっずぇん!! 違う!

 それはねぇ、時代がちがうとかメンバーのかわいさがちがうとかいう当たり前のところなのではなくて、グループのおおもと、本質が違っているんです。
 こりゃもうね、同じ「空を飛ぶ」という共通点しかないワシとトンボぐらいの違いなんですよ。

 かいつまんで言いますと、おニャン子クラブは「メンバーがしろうとであること」をウリにした史上初のアイドルグループでした!

 まずおニャン子クラブの話をする前に、同じクラブでも違うクラブの話から始めなければなりません。

 前回にもちょっとだけ触れましたが、1983年11月に新人アイドル・菊池桃子(15歳)をイメージガールとしたアイドルグラビア雑誌『Momoco』(学研 1994年1月号まで)が創刊されます。
 すでに人気を集めていた学研のアイドル情報誌『BOMB』の姉妹誌としてスタートを切った『Momoco』だったのですが、雑誌内でももっとも注目されていた企画コーナーが「モモコクラブ」でした。

 「モモコクラブ」とは、自薦他薦しろうとデビュー済みを問わず、とにっかくアイドル級にかわいい女の子の情報を投稿してもらい、『Momoco』編集部が「この子は将来ビッグアイドルになる!」と認定した子に「桃組出席番号~番」という通しナンバーをあたえる、というものだったのです。
 この「モモコクラブ」は、雑誌の1コーナーながらも「アイドルの卵が見られる」ということで大人気となり、実際に工藤静香さんなど、のちにおニャン子クラブの会員になっていく方も何人か紹介されていました。
 モモコクラブから有名になっていったソロアイドルとしては、第1回ミス・モモコクラブ・グランプリとなった西村知美(1985年に15歳でデビュー)、第2回グランプリの畠田理恵(1986年に16歳でデビュー のちに「寝ぐせ竜王」羽生善治と結婚引退)、畠田さんと同時期にデビューした酒井法子(15歳)や円谷優子(16歳 「特撮の神様」円谷英二の孫娘)といった方々がいらっしゃいます。

 モモコクラブは、その人気が盛り上がってきた1986年10月~87年9月にそのまんまのタイトルの『モモコクラブ』(TBS)という持ち番組も放映しており、畠田・酒井・白田あゆみ(16歳)・伊藤美紀(15歳)らの放映期間中でのソロ歌手デビューを後押しするなどして、1987年にピークを迎えた菊池桃子に続けとばかりに展開されていく『Momoco』勢ブームの基盤となっていきました。
 個人的には、やっぱりこの中では西洋人形のようなかれんな容姿と聴く人の深層心理を見抜くような低音とのギャップが印象的な畠田理恵さん(活動前期)がいちばん好きですねぇ。

 こういったかたちだったため、「モモコクラブ」は決してまとまった活動をするアイドルグループではなかったのですが、5人や10人にとどまらない人数の人材を企画内の「桃組出席番号」形式でまとめていくという新しいくくりかたが、『Momoco』創刊の1~2年後、1985年に結成される大人数アイドルグループ・おニャン子クラブに導入された「会員番号」形式のモデルとなったことは言うまでもないことでしょう。

 いろんな要素が集まって誕生した史上初の「しろうとアイドルグループ」おニャン子クラブだったわけですが、本格的な母体となったフジテレビ関連の話題と、その後の栄華物語はまた次回~。

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