長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

楽しいリベンジ!  ~タルコフスキーの『鏡』を、寝ないでちゃんと観よう~

2015年09月18日 23時49分46秒 | ふつうじゃない映画
 どもども、みなさんこんばんは! そうだいでございますよ~っと。
 いや~、山形の夏も暑いやねぇ。9月もなかばになっているわけなんですが、まだ秋の訪れを実感できない残暑が続いております。千葉の暑さともまた違ったものがあるんですが、さすがに朝晩になると気温も落ち着いてくれるのが救いでしょうか。私にとっては実に18年ぶりの山形の夏になるんですが、こんなもんだったような、昔はもう少しお手柔らかだったような……高校時代は、もっぱら自転車たち漕ぎで汗だくになりながら市内を駆けずり回っていましたからねぇ。自動車って偉大……今さらながら!

 さてさて今回のお題は、私にとりまして長年の懸案となっておりました、ある映画についてのあれこれでございます。
 さっそくまいりましょう、こちら!


映画『鏡』(1975年3月公開 108分 ソヴィエト連邦)
 映画『鏡(原題・ЗЕРКАЛО)』は、アンドレイ=タルコフスキーによる自伝的要素の強い映画である。同時に、ロシアの現代史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーのキャリアにおいて、その中心をなす代表作である。
 タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。
 『鏡』のなかで、タルコフスキーは父アルセニーの詩を繰り返し朗読するが、父と主人公アレクセイは鏡を通じて互いに写り合う像となっている。アレクセイの母マリアとアレクセイの妻ナタリアも鏡像関係にあり(同じ女優が演じている)、更にアレクセイ自身とその息子イグナートも互いに鏡像となる(少年時代のアレクセイとイグナートは同じ子役俳優である)。
 タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、そもそも彼の映画の思想そのものが魔術的だとも言える。


あらすじ
序章
 ユーリという青年が吃音の矯正訓練を受けている TV画面の情景から始まる。女医が話しかけるが、青年はうまく話せない。女医は青年を緊張させ暗示を与えつつ、解放した瞬間に「ぼくは話せます。」と言うようにと指示する。女医の言葉に合わせて青年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことができるようになる。

第1章 記憶
 物語は過去にフラッシュバックし、アレクセイの幼年時代に戻る。まだ若かった母マリアが農場の柵に腰かけていると、医者と自称する見知らぬ男が現れ、母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その後、タルコフスキー監督自身が、父である詩人アルセニー=タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。
 物語は、成人したアレクセイの日常を描く現代へと進む。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行くアレクセイだが、ふとした言葉や出来事が、彼を過去の記憶の情景へと引き込んで行き、現在は過去の記憶に浸食される。
 過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶と共に、ロシア(当時はソヴィエト連邦)の歴史、過去の政治体制などが描き出されている。祖父の別荘で納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族を去ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人の生命にも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。

第2章 歴史
 現在のアレクセイの部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。記録映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。
 ある日、部屋にいた老婦人の要望に応え、アレクセイの息子イグナートはプーシキンの書簡を朗読する。それは、モンゴル帝国の圧倒的な破壊と暴力に対する防波堤となったロシア地方の、ヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。老婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻ると老婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた湯気の痕跡があり、それも見る見るうちに消えて行く。

第3章 交錯
 アレクセイは息子イグナートとの会話を通して、少年時代に雪の積もる冬、射撃場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び第二次世界大戦中の記録映像に映る、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落と軍人の遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件(1969年)の情景。そして再びアレクセイの少年時代へと時間は戻り、軍服を着た父が唐突に帰ってきてアレクセイをを胸に抱く。さらに時間は現在へと戻り、成人したアレクセイは息子イグナートに、父である自分と母ナタリアのどちらを取るか迫る。
 アレクセイはナタリアとの対話を経て、夢に見た少年時代へと思いを巡らせる。母と共にモスクワから疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、アレクセイ少年を伴って交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年が垣間見た、豊かで暖かい家庭。宝石を売りに訪れた家でランプの明りに照らされたアレクセイは鏡を見つめながら、家財を手放そうとする母を許す。しかしそれは彼が許しているというより、鏡に映った自己の姿の深奥を観照するなかに、彼ら母子の営みを見守る神の赦しが顕現しているようである。

終章
 まだ若い母マリアと父が、夏の白夜の夕暮れの中、田園の草の中で寝そべり、これから産まれる子は男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年のアレクセイと妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子らを逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、勘の鋭い若い母マリアもその後を予感し涙する。 十字架の前に赦しを請い、赤の他人である通りすがりの医師に心を動かす多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母を捨てて、もはや性の対象ではない老母と幼年時代の美しい記憶に回帰するというエディプス・コンプレックス的解釈もされている。このような、時空の秩序を越えた情景のなかで物語はクライマックスを迎える。
 かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸の枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出逢い、別れ、そして新しい未来へと進んで行く。


主なスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… アンドレイ=タルコフスキー(42歳)
脚本 …… アンドレイ=タルコフスキー、アレクサンドル=ミシャーリン
撮影 …… ゲオルギー=レルベルグ
音楽 …… エドゥアルド=アルテミエフ(37歳)
主題曲
ヨハン・ゼバスティアン=バッハ『オルガン小曲集』より『古き年は過ぎ去りぬ』(1713~16年)
挿入音楽
ジョヴァンニ・バティスタ=ペルゴレージ『スターバト・マーテル(悲しみの聖母)』より『我が肉体死すとき』(1736年)
ヘンリー=パーセルの歌劇『インドの女王』第4幕より『 They Tell Us That Your Mighty Powers』(1695年 歌唱なし)
バッハ『ヨハネ受難曲』より合唱『主、我らを統べ治め』(1724年)

主なキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
少年時代のアレクセイ/アレクセイの息子イグナート …… イグナート=ダニルツェフ(13歳)
母マリア/妻ナタリア               …… マルガリータ=テレホワ(32歳)
幼年時代のアレクセイ               …… フィリップ=ヤンコフスキー(6歳)
父                        …… オレーグ=ヤンコフスキー(31歳)
通りすがりの医者の男               …… アナトリー=ソロニーツィン(40歳)
リーザ=パーブロブナ               …… アーラ=デミドワ(?歳)
印刷工場の上司                  …… ニコライ=グリニコ(?歳)
マリアが訪問した家の主婦ナデージダ        …… ラリッサ=タルコフスキー(36歳 タルコフスキー監督夫人)
成人したアレクセイの声              …… イノケンティ=スモクトゥノフスキー(50歳)
詩の朗読                     …… アンドレイ=タルコフスキー


 出た~! 世界映画史上にその名を残す、ものすんごい映像詩の巨人・タルコフスキー監督の第5作となる映画作品です。
 アンドレイ=タルコフスキー。私にとっては、千葉の一人暮らし時代に出逢った様々な刺激の中でもトップクラスに衝撃的で、映画というジャンルの無限の可能性を教えてくれた才能でございます。大好き!
 とは言いましても、実にお恥ずかしいことに現時点で私が観たことのあるタルコフスキー作品は、SF映画に分類される『惑星ソラリス』(1972年)と『ストーカー』(1979年)の2作と、この『鏡』のたった3作だけなのです。情けなや!!
 それで、よくよく調べてみたらタルコフスキー監督の遺した映画は全部で「8作」ということでしたので、ここは山形での生活もなんとなく落ち着いてきたことですし、一念発起して全作の DVDソフトを購入してコンプリートしようじゃないかという流れに、今になってやっとたどり着いた次第なのでありました。ええ、遅いですよ!? でもやらないよりゃましでしょ! ということで。

 私にとっての初タルコフスキー体験となった、学生時代に大森の映画館の特集上映で観た『惑星ソラリス』についてのあれこれは、ずいぶん前に我が『長岡京エイリアン』でもすでに触れました。いや~、あれは本当に最高な出逢いでしたね。関東地方での一人暮らしを始めてみたばっかりで右も左もわからず、どこを見回しても山が存在せず(山形盆地の民にとってはとんでもねぇカルチャーショックだず!!)、しじゅう血のような潮のかほりが吹きすさぶ千葉市に恐れおののいていた私に、ものすごい郷愁を呼び覚ましてくれたと共に、「東京はこんな作品も娯楽にしてるのか!!」と、世界に冠たる1千万都市、メガロポリスTOKYO の格の違いを見せつけてくれた衝撃体験でした。しかもさぁ、『惑星ソラリス』に加えて、あの伝説の SFアニメ映画『ファンタスティック・プラネット』(1973年 フランス)の2本立てだったもんですから、もう帰り道フラッフラでしたよ! 東京は恐ろしかとこばい!!
 当然ながら、「世界には『惑星ソラリス』という、とんでもない SF映画がある」といううわさだけは聞いていたのですが、まさかこれほどまでにものすごい作品だったとは……学生時代の私にとっては、この『惑星ソラリス』と、テアトロ新宿で観た実相寺昭雄監督の『 D坂の殺人事件』(1998年)、そしてなにげなく深夜に TVをつけた時にやっていたアニメ『 lain』が、「私的3大『都会の洗礼』作品」となります。あと、中野かどっかの劇場で観劇したナイロン100℃の『Φ(ファイ)』も、まず山形では観られない類のトンガリ具合があって衝撃的でしたね~。

 その後、『ストーカー』はでっかい2本組の VHSビデオを新宿で買って自宅で視聴したのですが、これもうわさにたがわぬ『惑星ソラリス』以上の「何も起きないがゆえに、何が起きてもおかしくない緊張感」みなぎる大傑作でした。とてつもない思想、技術、そして映像美……
 そして、これまた本ブログで触れた通り、さらにのちに私は2010年になって、池袋の新文芸坐で親友と連れ立って『惑星ソラリス』、『ストーカー』、そして『鏡』の3本立てになるタルコフスキー・オールナイト上映会にいそいそと出かけたのですが、そこで唯一、初めて観る作品だったはずの『鏡』のほぼほぼ全編でグースカ寝るという痛恨の事態を招いてしまったのでした……痴れ者が! でも、2時間半の映画を2本観た後に夜明け近くの『鏡』なんで……カンベンしてつかぁさい!! はっと気がついた時には映画はあらかた終わっていて、呆然としながら新文芸坐から出た時の、池袋の朝の光のまぶしさよ。

 それ以来、自分の心の中でかなりの遺恨となっていた『鏡』を、あらためて購入する DVDの1本目に選んだのは自明の理というものでしょう。今回はちゃんと睡眠をとって、自宅で腰を据えて堪能させていただきますぞ! 5年ぶりのリベンジに、思わず鼻息も荒くなります。


~108分後~


 いやはや……ものすんごい体験をしてしまつた……

 なんと言い表せばよいものなのか。映像を詩的とか魔術的とか、通りいっぺんの言い方にしても、結局先人の方々のリフレインになっちゃいますしねぇ。
 観た後の感覚を率直に言うのならば、「一向に出発しないのにぐわんぐわん横揺れだけするジェットコースター」という感じになります……わかる!?
 ただ横揺れするだけの遊具じゃないんですよね。ちゃんと目の前には何百メートルという高さまで登るレールがあって、それがうねうねと周囲を回って、自分たちが今座っている乗り物の後ろまでつながっているのです。それなのに、全っ然スタートしない! スタートしないのに、なぜか乗り物は激しく横にぐわらぐわら揺れる!! なぜ!?
 それは、自分が身体を強く横にゆすっていたからなのであつた。

 そうなんです、まさしくこの映画『鏡』は、観る者一人一人の心の遍歴を写す鏡。鏡はそこにあるだけで、自分からは別に何もしません。もしそれを見て激しく心を動かすものがあったとしたのならば、それは観る人が自分で自分の像に、心を動かす「何か」を見いだしているだけのことなのです。

 なるほどね~。ということは、5年前の私は、まだまだ自分の半生を振り返っても、特になんの感慨もわいてこずに退屈して眠くなってしまうようなお子ちゃまだったということだったのかしら。何かものすごく納得できるような気がする……
 かと言って、たかだか30代そこそこの自分が観た今回の『鏡』が最高に面白いってわけでもないはずなんですよ。だいたい家庭も子供も持ってないしね! もしも家庭を持ってから観たら、また違う味わいになるんでしょうねぇ。

 わかりやすく例えると、『惑星ソラリス』は『スター・ウォーズ』の真逆の SF映画ですし、『ストーカー』は『エイリアン』あたりの真逆になるでようか。とすれば、今回の『鏡』の正反対に位置するのは何かと思いを巡らせれば、「主人公が半生を振り返る」という文法にこだわるのならば、それはやっぱり時代はだいぶズレますが『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年)になるのではないでしょうか。
 かの作品と比べれば一目瞭然かと思われるのですが、ふつう過去と現在を行き来するドラマを作るのならば、過去編と現在編を誰が見ても違いが分かるようにきっちり区別するのが定石であるはずです。『鏡』も、序盤こそおとなしくモノクロとカラーでシーン分けをしたりして一見時間の区分を観やすくしているように見えるのですが……「あれ、この子アレクセイ? イグナート?」というひっかかりが出てきたかと思うと、一瞬にして常識的な構造など存在しない異次元世界に突入してしまうのです。こわ~!!

 今作『鏡』は、半分以上タルコフスキー監督の自伝的作品といった感じなのですが、監督の半生を編年体で描くような大河ドラマ的なベタな作りであるはずがなく、かといって監督の視点から彼自身が体験した印象的なエピソードをピックアップしてつづるような紀伝体の形式も取っていないのです。
 じゃあ一体全体どんな構造なのかと言いますと、まさしくタルコフスキーお得意の表現パターンともいえる「水」のごとく、自分自身が変幻自在に姿を変え時空を超え、時には自分以外の母マリアや息子イグナートの肉体や脳をも取り込んで主観視点を変えていくという、『ターミネーター2』の T-1000か、虫好きの子ども達にとっては衝撃のトラウマ生物であるハリガネムシのごとき融通無碍な、もはや構造とも言えない超構造になっているのです。例えがひどい! 閲覧注意!!

 アレクセイでもあり、母でもあり、息子でもあるというこの主格のメタモルフォーゼは、確かに見る人によっては非常に混乱する横揺れ感がありますし、よくよく観てみると、タルコフスキー監督はかなり巧妙に物語の中に徐々に「破綻」を混入させており、最終的には画面に映っている情景の時間軸がいつなのかが全くわからない、過去と未来、別の時代の同じ人格がいたるところに混在するカオス状態となって完結します。でも、これは当然ながら監督の腕が足りないとか、時間や予算などでの制作上の制約があったからとかいう破綻ではもちろんなく、タルコフスキー監督が「人間の記憶なんか混在して当たり前でしょ。」という確信をもって映像化した、非常に理路整然とした混沌であるわけなのです。混沌を創造するもの、これすなはち神! 映画の神に敢然と挑まんとする者、タルコフスキー!!

 要するに、数百数千年、へたしたら数億年の時を経て地上に流れ出してきた水の流れが、その土地に住むさまざまな人々の生き様や喜怒哀楽を通り抜け、次第にその色や粘性を変えていくさまを108分で描き切った作品こそが、この『鏡』なのでありましょう。
 なので、この大河を楽しむためには、いちいち赤が混ざっちゃったとかにごってきたゾとか細かいことなんぞ気にせずに、尽きることのない奔流の、一瞬として同じ表情を見せることのない無常の美を見つめることが一番なのではないでしょうか。すごい! タルコフスキー meets 鴨長明!!

 いや~、やっぱりタルコフスキー監督の水好きには意味があったのだなぁ。自分でもあり、他人でもある! タルコフスキー監督は『新世紀エヴァンゲリオン』をさかのぼること20年以上前、すでに人類補完計画のありようを世に問うていたのだ。ま、提唱したところで所詮、世界人類には早すぎたわけなのですが……

 他の作品を観ていないので確たることは言えないのですが、本作は、少なくとも『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べると外的、政治的味わいが強いといいますか、わりと唐突に昔の歴史的な記録映像が流れだしてきます。そしてそれ以上に、バッハをはじめとするバロック音楽がふんだんに使用されていることからもわかる通り、キリスト教のかおりが非常に強いのも、今作の特徴なのではないのでしょうか。

 でも、いや、だからこそと言うべきなのか、本作はキリスト教の教えに沿わないような、どっちかというとロシア土着のやおよろずの神、みたいな自然の不思議な力がやたらと雄弁に前に出てくるような気がするんですよね。
 それに、「きれいごとだけで世の中生きてられっかよ!」みたいな、常にふてくされた表情でロシアの大地をつかつか闊歩する母マリアの姿も、宗教音楽で語られるような聖母マリアとはまるで違った女性像を提示しているような気がするのです。だいたい、消えたダンナに多少の未練は残してるとしても、アレクセイたちを育てるためにさっさと独立していきますもんね。

 でも、最後の最後のカットで老母マリアの歩く草原のはるか向こうに意味ありげに十字架をかたどった電柱がつっ立つカットの、その傍らにポツンとたたずむ若い母マリアの人影が、なんか猫背ぎみに腕を組んでタバコをスパーと吸ってるように見えたのは印象的でしたね。あれは、上の Wikipedia記事に挙げたような「十字架の前に赦しを請」うている態度にはじぇんじぇん見えないのですが……どっちかというと、「罪を背負って生きてくか~、めんどくせぇけど。」みたいなたくましさが、あんなに遠目でもビンッビンに伝わってくる雄姿でしたね。母は強し!!

 くだくだ申しましたが、タルコフスキー監督は、その身に深くしみ込んだキリスト教の思想を受け入れ、ダ・ヴィンチの画集に象徴されるようなヨーロッパ文化にあこがれを抱きつつも、最後にはそれを捨てて、ロシアの広大な大地に根ざす原始的な信仰に回帰していくかのような物語を描いているような気がします。ただ、最後の最後まで成人した現在のアレクセイが顔を出して主体的に動き出さないのは、やはりキリストの犠牲なくして現代文明の誕生なし、その長い長い不在を舞台設定に置きたかったからなのでしょうか。それとも、いずれ自分も父親のような「ダメおやじ」に堕してしまう、実際になりつつある、という宿命をかみしめ、また恐れているからなのかも知れませんね。そういったあたりに正面から挑んでいったのが、次作『ストーカー』での主人公のダメダメっぷりなのかも!? 自分がライオス王になってしまったとしみじみ自覚しているタルコフスキー監督にとって、自身がオイディプスに還ることができる場は映画の世界だけだった、ということなのでしょうか。

 でも、日本でタルコフスキー監督が人気なのも、わかったような気がしましたね。バッハだバロックだとヨーロッパ宗教的な味付けも多い作風なのですが、その本質にはきわめてアジア的なアニミズムが根ざしていることが、『鏡』ではっきりしたからです。理性と本能、静と動、理論と感情。その2大勢力の葛藤こそが、タルコフスキー作品の魅力の源なのですね~。タルコフスキー監督がもし芥川龍之介のキリシタンものを映画化していたら、どんなに美しい作品になったことか! 『奉教人の死』とかねぇ。遠藤周作の『沈黙』は、まんますぎて逆にだめですか。

 だいたい、日本の宗教でのイコンは仏像だとか神像だとかもあるにはありますが、神社の中のご神体の多くは「鏡」ですもんね! 製作技術的にどうしても写る像が歪んでしまうとかかすんでしまうとかいう事情もあるのでしょうが、昔の鏡は観る者をそのまんまはっきり写せない物がほとんどでしたし、鏡に写るものに神を見いだす文化は、日本でもふつうだったのでしょうなぁ。それじゃ相性もいいはずですよ!

 それにしても、しっかりした筋立てを持つ原作小説のある『惑星ソラリス』や『ストーカー』に比べて1時間前後短いとはいえ、今回の『鏡』はシーンごとの時空がピョンピョン飛び跳ねてしまうのでなかなか集中力のいる視聴になりました。あらためて振り返ってみると、池袋・新文芸坐さんの3本だてオールナイトの並び順、けっこう鬼だぞ! 集中力がいちばん途切れがちになる夜明け前に『鏡』て!! そういう苛烈な責め方が、いかにも東京らしいよなぁ。

 ただそれでも、タルコフスキー作品名物の「起きそでなんにも起きない」と「水ぜめ、水ぜめ、また水ぜめ!」の演出は健在すぎるほどに健在で、射撃場での子どものいたずらで投げられた手榴弾が爆発しないとか、母マリアが大雨の外から印刷工場に入って出勤のタイムカードを切ったのに、また外に出てずぶぬれになりながら自分の部署にダッシュするといったひとこまは、もはや笑わせにきているとしか思えない監督の心づくしを感じました。あれだけあおっておいて爆弾の一つも炸裂しないとは……「舞台に拳銃があったら、それは必ず発射されなければならない。」という名言を残したチェーホフと同じ国に生まれた映画監督とは思えない、ケンカを売るかのような演出! そういえば作中でもチェーホフの戯曲の登場人物が茶化されていたけど、監督はチェーホフ的な演劇論がお嫌いなのかな? そうだろうなぁ。
 ほんと監督は、水が好きだよねぇ。でも、本作はまるで透明の怪獣が森や草原を通り過ぎていくかのように、生い茂る草木がざわざわとなびいていく風の動きをカメラに収める演出も特徴的でしたよね。序盤の通りすがりの医者のシーンなんか、どこからどう見ても不審者にしか見えない自称医者の男が、去り際の草原の動きでいっきに「まれびと神」にまで持ち上がってっちゃったもんね! 結局なんだったんだ、あのオヤジは!? 農場の柵、ちゃんと直してから行けや!!

 ま、そんなこんなで数年来の遺恨だった『鏡』をやっと最後まで観たわけだったのですが、やはりタルコフスキー監督の代表作と言われてもおかしくない濃度の作品だったかと思います。でも、難解だと思いだしたら果てしなく難解になる不思議な一作でした。まさに、考えるな、感じろ!!
 「自伝」と言って、これほどまでに正直に時空が混在した感覚を映像化するのは、やっぱり天才の仕事ですよね。実際、過去が現在の生き方を激しく揺り動かすのはよくあることだと思いますし、現在が過去の出来事を都合のいいようにゆがめるのも日常茶飯事ですよね。結局は、どちらも独立しては成りたたないものなのです。

 でも、タルコフスキー作品に登場する俳優さんがたはほんとに魅力的ですよね。前作『惑星ソラリス』で観た顔がちょいちょい出てくるのもうれしかったのですが、ほぼ主演格で出ずっぱりだった母マリア役のテレホワさんもさることながら、少年時代のアレクセイが好きだったという赤毛で唇の切れた少女もかわいかったなぁ。あの酷寒のロシアの地で、さすがに生足ではないにしても短めスカート絶対領域ファッションを断行するとは……根性ありますね!

 今作でも、女性のたくましさと男性のダメダメさを痛感したタルコフスキーワールドなのでありました。おやじぃ~!

 父ちゃんはな、父ちゃんはな……父ちゃんなんだぞ!!(『正調 おそ松節』より)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 在りし日の名曲アルバム  ... | トップ | 在りし日の名曲アルバム  ... »

コメントを投稿

ふつうじゃない映画」カテゴリの最新記事