長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

見わたす限りの美しさ、死臭ふんぷんたる  ~映画『風立ちぬ』~  ようやく本文

2013年09月12日 23時31分52秒 | ふつうじゃない映画
 ヘヘヘイどうもこんばんは、そうだいでございますよ~。みなさま、今日はいったいどんな日になりましたか?
 いや~、ここ数日で、関東はずいぶんと朝夜が涼しくなりました。っていうか、むしろ寒くなっちゃった?
 最近なんだか、毛布1枚で寝ていたら、夜明けに寒さで目覚めるっていうパターンが続いてるんですよね……早起きしなきゃいけないから都合がいいんですが、いつかカゼひいちゃうだろうなぁ。布団を引っぱりだすタイミングも近いですかね。


 さてさて、今回は約1週間前に観た話題の大ヒット映画『風立ちぬ』の感想みたいなもの、でございます。もうさ、観終わって1週間もたっちゃったら、いかな天下のスタジオジブリ作品といへども、じょじょ~に印象も薄れてきちゃうわけですよ……相変わらず忙しいお仕事とか℃-uteの日本武道館コンサートとかで文章にするのがだいぶ遅れてしまいましたが、いい加減にちゃっちゃとまとめてしまいたいと思います。

 と言っても、これほど感想を記すのに気が引ける映画もないんですよね……だって、公開からすでに2ヶ月近くになるんですよ!? もうさんざんっぱら、いろんな方々がレビューをあげてるわけでしょ? もう、「おもしろかったです。」だけでいいんじゃなかろうか、とも思っちゃうんですが……まぁ、どうやら宮崎駿監督にとっての最後の長編作品になるんだそうですし、いちおうながら我が『長岡京エイリアン』でも、礼を尽くして感想を述べさせていただくことにいたしましょ。


 なんといってもこの『風立ちぬ』は、今までの宮崎作品とは違って、明確に「過去に実在した日本のある時代」を舞台にした作品になっています。もちろん『となりのトトロ』(1988年)も『崖の上のポニョ』(2008年)も日本の現実にありそうな、あるいはあったであろう風景を起点にした作品ではあったのでしょうが、具体的に「いつごろのどこ」という部分がクローズアップされることはなく、時代背景のようなものが物語に深くかかわってくるといったことはありませんでした。『もののけ姫』(1997年)もいちおうは中世日本の史劇であるんでしょうが、具体的な固有名称は出ないかオリジナルな仮称に書き換えられていましたからね。「アサノ公方」って、堀越公方とか古河公方あたりがモデルなんでしょうか……劇中に登場してきてほしかったー!!

 それに対して、今回の『風立ちぬ』は関東大震災(1923年)や、直接描写はされていないものの太平洋戦争(1941~45年)にいたるまでの日本の社会情勢といったあたりが陰に陽に主人公の半生に大きな影響を与えています。というか、時代の奔流の中を主人公がどうやって生き抜いていくのか、という固定カメラ視点こそが『風立ちぬ』の主軸になっていました。
 そういう意味では、どの宮崎作品よりも、高畑勲監督の『火垂るの墓』(1988年)がもっとも近いジブリ作品になりそうなんですが、そこはそれ、『風立ちぬ』の主人公は観客も当惑してしまうような頻度で自らの妄想の世界に翼をはばたかせていき、現実の昭和史と、いかにもジブリらしい幻想的な世界とを自由に行き来する作品になっております。

 つまり、『風立ちぬ』は確かに、「現実の時代と主人公のかかわり」といった観点からみれば、宮崎作品で言うのならば、同じ掲載誌で原作が連載されていた20世紀前半のイタリアを舞台とした空賊ロマン『紅の豚』(1992年)に通じるような、史実を重視した路線の最新作ではあったのですが、それと同時に、確実に『千と千尋の神隠し』(2001年)や『ハウルの動く城』(2005年)といった、脚本あってなきがごとしのムチャクチャファンタジーを通過した宮崎監督でなければ創出することのできない、虚実のあわいがわざと曖昧になった最近の路線の延長線上の作品でもあったわけなのです。
 なにを今さらといった感じの後付けになりますが、こう観れば、『風立ちぬ』は宮崎監督のいくつかあった路線が見事に集結した「ラストにふさわしい」作品であった、ということになるんですよね。っていうか、長編映画としてのていをなすか破綻するか、ギリギリ最後の部分で結実した「しぼりにしぼった雑巾のラスト一滴」みたいなものだったのではなかろうかと! ずいぶんときれいな雑巾水なわけなんですが。

 私はね、個人的にいちばん大好きなジブリ作品が『紅の豚』だったんですよ。2番目は『宮崎駿の雑想ノート』(1995~96年 ニッポン放送)ですね。ジブリじゃないけど。

 そんなもんですから、序盤でさっそく怪しいイタリア人が出てきたときから「来るぞ来るぞ~。」という予感がしてたまらなくて、クライマックスで、いずことも知れない草原のかなたに『紅の豚』に直結する「ある光景」が見えた時には、「やっぱり来たー!」と、何度目かの涙を流してしまいました。やっぱり、そういうせつない物語なんですよね。根底にあるのは。


 話は変わりますが、『風立ちぬ』は序盤からラストにいたるまで、ひたすら美しい風景が描き続けられていく物語になっています。今までのように登場人物がありえない筋力アクションを展開させて跳んだりはねたりするというシーンはごくごく最小限に抑えられて、むしろ静かに会話するキャラクターたちの背景や持ち物にこそ、作画の魂が込められているといったふぜいがありました。

 しかし、それら美しい風景、キャラクターたちの美しい立ち姿が隠している、世界のもう一方の顔の血なまぐささといったら、もう……そのことを考えると、恐ろしくて見ていられないやら、哀しくて泣けてくるやら。もうたまらない説得力に満ちているんですね。
 少年時代の二郎の故郷(史実に基づけば群馬県藤岡市)の田園風景、上野から見た関東大震災の惨状、東京帝国大学の学び舎や愛知県名古屋市の三菱航空機(1934年からは三菱重工業)工場での日々、ドイツの厳寒、長野県軽井沢町のさわやかな夏、高地療養施設の荒涼とした風景、二郎の試験機から見わたす桜舞い散る春、そして、果てしない草原と青空が広がる二郎の「夢」の世界。

 美しい。ひたすら美しい映像の連続です。あの10万5千名もの犠牲者を出したという関東大震災までもが、リアルながらも遠めに見た一面の炎を描写するだけにとどめており、それでいながらも、倒壊する神社や不気味に鳴動する大地などといった実に的確な映像センスが冴え渡る演出になっていて、ショッキングさを巧みに取り除きつつ恐怖と不安を確実に伝えるという離れ業を、いとも簡単にやってのけていました。もう、脱帽なんてもんじゃないっすね……

 物語の前半の関東大震災は、青春時代の二郎の「偶然の出逢い」のきっかけとして通過していくのですが、物語後半の悲劇をいろどることとなる軍国主義体制の拡大は、最終的には大日本帝国海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)にいたるまでの数々の名戦闘機を設計したという実績をもって、二郎の生涯に大きな影をおとしていくこととなります。純粋に夢を追い求めることを望み、それを現実の世界に創出することが本当にできた天才がたどり着いた成果が、無数の犠牲者を生み出してしまった大戦争の一翼であったとは……あまりにも哀しすぎる結論ですよね。

 しかし、『風立ちぬ』はそういった二郎の夢の行く末を最後まで語ることはせずに、史実の上では、1935年2月に行われた九試単座戦闘機の試作一号機の飛行試験の成功(二郎、若干31歳!)までで一巻の終わりとしています。
 思えば、2枚の主翼がいったん下に曲がってから上にはね上がっているという、とっても印象的でカッチョいいデザイン「逆ガル翼」は、実はこの一号機のみにしか採用されておらず、同年の6月に初飛行した試作二号機、そしてそれが実戦投入された九六式艦上戦闘機(ゼロ戦の先代機にあたる)では普通のまっすぐな主翼になっていました。
 つまり、飛行機の設計者としての二郎を主眼にとらえながらも、「実戦に投入された戦闘機の設計者」としての二郎の業績とは実に巧妙に距離をおいていた、ということになるわけです。う~ん、うまい!

 そういったわけで、宮崎監督は徹底的に悲惨な時代に悲惨な実績を背負うことになったある天才の半生を、非常に繊細なバランス感覚をもって「ギリギリ美しく」描いていたわけなのでした。
 だからこそ、そういった映像の中で唯一、直接的とも言える描写法で鮮烈にえがかれていたあのシーンでの「鮮血の赤さ」が、もんのすごく強烈なインパクトをもって、観る者の胸に突き刺さってくるんですよね。ホントに、『風立ちぬ』を観ていると、私がいかに宮崎駿という天才のたなごころでいいように転がされている「いいお客さん」なのかが自分でもよくわかってきて、映画はもう文句の言いようもなく最高なんですけど、ものすご~く癪です! キィ~くやしい!!


 ただ、この映画を観ていてちょっと気になってしまうのが、「ヒロインのどこからどこまでが本物で、どこからどこまでが二郎の中のヒロイン」なのか? ってことなんですよね。

 考えてみれば、喀血して倒れるヒロインのあのシーンだって、二郎がその報にふれた瞬間に連想したイメージだとも解釈できるカット構成になっていました。
 もちろん、ラストシーンで満面の笑みをたたえて二郎に手を振っていたヒロインも、ヒロイン本人というよりは、無意識のうちに二郎が「自分に都合のいいように生み出した」彼女だった可能性は濃厚なわけで、どちらかというと、この『風立ちぬ』に登場したヒロインは、実際にそういう人がいたというよりは、二郎という「働きもん」のために神様か宮崎監督がつかわした「理想的な恋人」という印象が強いんですよね。ともかく、都合がいい! 都合がいい上に「美しいままで去ってくれる」というんですから、嫁さんらしい仕事はしていないわけなんですが、永遠のヒロインになりおおせてくれるというわけなんです。


 う~む。そう考えてみると、『風立ちぬ』のこの「里見菜穂子」という人物って……魅力、ある?


 こうなっちゃうと映画『風立ちぬ』というフィクション作品の半分ほどを否定することになっちゃうんですが、立派に伴侶として夫の仕事をサポートして、劇中の頃にはすでにお子さんも産まれていたという、堀越二郎さんの実際の奥様をアニメに登場させたほうがよっぽど魅力的だし、よっぽど「ジブリのヒロイン」っぽいような気がするんですが……

 どうなんでしょうね。無論のこと、『風立ちぬ』は今現在も大絶賛の嵐の中でロングラン上映中なわけなんですが、この原作小説どおりに「古典的な、あまりに古典的な」人間らしくないヒロインって、歓迎されてるんですかね? これはぜひとも、女性に意見を聞いてみたいですよねぇ。私そうだいはまごうことなき男性(おっさん)であるわけなんですが、私は男でも、ヒロインのあの生き方には全然ピンときませんでした。ピンときませんよ、そんなもん。だって、そもそも「生きてない」んですもんね。
 まぁ、別にヒロインの造形だけにぶつくさ言うつもりはないんですが、周囲の女性キャラクターも、他の面では活き活きとしていても、ヒロインに関しては一様に涙を流すだけで個性がなくなっちゃうし。

 古い! 実に古いんですよ。でも、かつて『風の谷のナウシカ』(1982~94年)で徹底的に闘うバトルヒロインを、『もののけ姫』にいたってはヒロインで野獣という究極の女性キャラを存分に動かしまくっていた宮崎監督が、なぜあえてこのヒロインにスポットライトを与えたのでありましょうか。闘わないにしても、これまでのジブリ作品のヒロインにはのきなみ「母性」か「自立性」のどっちかが与えられていたような気がするのですが、菜穂子はおもしろいように全ての要素が欠落していますよね。自分で車を運転して逃走をこころみていただけ、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)のクラリス姫のほうがよほど体育会系ですよ。

 わからない……宮崎監督が行き着いた最後の長編作品のヒロインにしては、その存在があまりにも希薄でとっぴょうしもないのです。
 結局、夢を追う男が必要とするものは、そういう「自分を滅してくれる女性」ということなんでしょうか。でも、そんな人、いる? よしんばいるとしても、そんな人、近くにいて楽しいのかしら?
 まぁ、私は恋愛経験が絶無にひとしい、草食系男子にさえも相手にされずに日陰にはり付いて汲々としている「ゼニゴケ男子」なので、男女のあわいのあれこれについてはなんの発言権もないわけなんですが、どんなにおじいちゃんになっても、そういう女性にあこがれちゃうもんなんですかねぇ……男って。

 二郎と菜穂子との、雪がちらほら舞い散る中でひっそりと執り行われる結婚の儀式のはかなさは、もう言いようもなく美しいわけなのですが、その美しさがかえって浮き彫りにしてしまう「近い未来の菜穂子の死」。
 物語中盤のジブリ史上に残る名シーンであるわけなのですが、この「直接えがいていないのに裏で悲劇を色濃く予兆させる」という手法。ラストシーンに登場して、美しく弧を描きながら天空に昇っていくゼロ戦の編隊にも通じる味わいがありましたよね。

 里見菜穂子、死ぬために生き、その死ゆえに美しかった女性。私はちょっと~、好きじゃない。


 またまた、とりとめもなく話題が変わりますが、私は今回の『風立ちぬ』、なにが感動したって、声優陣の熱演の数々に大いに感動いたしました。

 今回わたくし、家に TVがないこともあってなんの前情報もなしに『風立ちぬ』を観に行きまして、パンフレットも買わなかったので、具体的に誰がどの役の声を担当しているのかを全く知らずに本編上映にのぞみました。あ、二郎の声が誰かはさすがにネットニュースで知ってましたね……

 そういう状態で観てみての感想なんですが、二郎役の庵野秀明さん、カプローニ伯爵役の野村萬斎、そして、二郎の信頼できる上司・黒川役を演じた西村雅彦さんの演技に感動しちゃいましたよねぇ、やたらと!!

 まず先に言っておきたいのですが、私自身はスタジオジブリの「声優に俳優を起用」主義はあまり好きではありません。どうやら宮崎監督は、現在活躍している声優さんたちの「存在感のなさ」や「演技の軽さ」を指摘して敬遠しているのだそうですが、そんなことは一般の俳優さんがただって同じことなんじゃないの? と思えて仕方がないからです。
 声優だって俳優だって、誰もが絶賛する飛びぬけた才能もあれば、箸にも棒にもひっかからないカスだってあるんじゃないですか? だとしたら、別にそれを選ぶのに声優だけをつまはじきにする必要なんかないはずだと思うんです。
 でも、これってジブリ作品だけに限らない興行的な問題も大きいんでしょうね……押井守監督の『スカイ・クロラ』(2008年)とか細田守監督の『時をかける少女』(2006年)以降の長編3作も、基本的に重要な役は声優さんじゃなかったし。

 んで、特に『もののけ姫』以降はプロの声優さんが活躍することがほとんどなくなったジブリ作品だったのですが、私にとっては「良くも悪くもない」というか、少なくとも宮崎監督の言うほどの効果を持ったキャスティングは別になかったような気がしていたんです。印象に残ったのは『となりのトトロ』の糸井重里さんと『もののけ姫』とかの美輪明宏さんぐらいかなぁ……あとは基本的に「あ、緊張してるんだなぁ。」って感じの声の硬さしか伝わってこないのがほとんどで。
 今回の『風立ちぬ』だって、はっきり言って菜穂子とか本庄とか菜穂子の親父とか黒川の奥さんといった面々の声は、上手ではあっても記憶に残っておりません。その自然さが監督のねらいなんでしょうかね……そんなんどうでもいいんですけど。

 そんな中での、庵野、野村、西村! このお3方は実に素晴らしかったですね。宮崎監督の言いたかった感じはこんなもんなのかと、やっとわかった気がしました。まさしく、たった一言で十二分に伝わってくる存在感。

 口さがないネット上の評判では、庵野秀明さんの主役起用を「話題づくりだけ」とか「素人まるだしの棒読み地獄」などとガタガタ言っているようなのですが、なんのなんの、あの声をさして素人と評しているあんたの耳が素人なの! もっとよく聴いてごらんなさい。

 庵野秀明という人物の声を宮崎監督が欲した本当の理由とは、その声質などという表層の問題ではなくして、誰だったら『風立ちぬ』における主人公の「夢に鋭敏で、現実に鈍感な天才」という部分に命を与えられるのか。その答えが庵野さんにあったからだと思うんです。
 でも、いくら宮崎監督の知る庵野さんがそうなのだったとしても、そういった監督の意思をちゃんと理解して、その上で演技者としてその要求にこたえられるテクニックを庵野さんが有していなければ元も子もありません。その点、庵野さんは実にうまい俳優でもあったわけなのです。だからこその、この超絶ヒット!

 私が庵野さんの演技について感服した局面はその出演シーンすべてにあったのですが、その中でもしいて挙げたいのは「菜穂子と軽井沢の湧水ポイントでの会話」と、「ラストシーンでのカプローニ伯爵との会話」、この2シーンでの二郎のセリフの絶妙さです。

 湧水ポイントでは、それまでも軽井沢で何度か会っていた菜穂子とあらためて会話をして、かつて自分と菜穂子が関東大震災やらすっ飛んだ帽子やらで面識があったことにやっと気がついた二郎が、

「あぁ~、あのときの!」

 と、やっと気がつく発言があるのですが、そのときの間の抜けた声の絶妙すぎるポンスケ感といったら、もう! ヒョロヒョロした声の割にはけっこう男らしい言動が板についていて、仕事もバリバリこなす二郎だからこそ、このシーンでの鈍感さがいいんですよね。
 私だったら、関東大震災みたいな大災害でご婦人にあんな手助けをしたら末代までの自慢話にしてしまうに違いないのですが、物語の中で二郎の印象に残ったのは、むしろ菜穂子の付き人を務めていたねえやさんの方だったらしく、そういったすれ違いがものすご~く二郎の魅力を高めていますよね。やっぱり、どっかズレてるのね。

 もうひとつのラストシーンでのセリフというのは、夢の世界で怪人カプローニ伯爵に「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね?」とたずねられたときにこたえた、

「はい……終わりはズタズタでしたが。」

 という一言でした。
 このときの、セリフに込められた無念さ、悔しさ、悲しみ!! なんの誇張もなく、これを語った庵野さんのかすれかかった声の演技には度肝を抜かれてしまいました。
 大した役者だ……その一言で、大量の若い血によってあがなわれなければならなかったゼロ戦の呪われた運命を語りつくしている。このセリフがあったからこそ、久石譲のものすごくいいフレーズにのって飛びたっていくゼロ戦の編隊と、手を振る操縦者たちのシルエットが猛烈に涙をさそうわけなのです。
 庵野秀明、恐るべし!
 何年か前に、池袋の新文芸坐のトークイベントで間近に本物の庵野さんを見たことがありましたが、好きなことの話をするときにこれほど明瞭に通る声を持っているなんて、どんだけピュアな人なんだ!? と感じ入っていました。でも、ピュアであると同時に、ほんとにいろんなことを経験したお人でもあるのよねぇ。ごちそうさまでした。

 とまぁ、まず庵野さんの話だけをしましたが、カプローニ伯爵という正体不明のキャラクターを演じた野村萬斎の「うさんくささ」も最高でしたね~。さすがは伝統に裏打ちされたうさんくささを生業とする狂言方能楽師!
 とにもかくにも、その年齢設定のよくわからない若々しく自由奔放なエネルギーがすばらしいのですが(実際の伯爵は二郎より17歳年長です)、適度に知的で適度にテキトーな伯爵をこれ以上ない魅力満載で楽しく演じていたと思います。
 それにしても、よりにもよって4歳のときに初舞台を踏んで半世紀近く芸能人生をあゆんできた萬斎さんに、

「創造的人生の持ち時間は10年だ。」

 というセリフをしゃべらせるって、宮崎監督はいったいなにを考えてるんだろうか。だって、たぶんこれからも死ぬまで狂言やってくんだぜ、この人!?
 まぁ、創造的人生=活動期間とは言ってないので、「さっさと引退したほうがいい」というわけではないのでしょうが、萬斎さんはこのセリフについてどう感じたんでしょうかね。うらやましいかもね、そう断言できる監督の「老い方」が。

 萬斎さんについてはそこまでにしておきまして、実はこの『風立ちぬ』を観たときにいちばん感心したのが、残る西村雅彦さんの演じた黒川というキャラクターの味わい深さでしたよ、ええ。
 最初、西村さんだと知らずに物語を観ていたときには誰が演じているのかわからなかったのですが、

「なんか、ちょうどムスカ大佐をやってたときの寺田農さんにものすごく似ている声なんだけど、さすがに本人じゃないよなぁ、若いし……もしかして、西村雅彦さん? いやいや、まさか……でも、もし西村さんだったら、日本の俳優界の未来も明るいよなぁ。」

 とかなんとか思いながら観ていまして、エンドロールで西村さんの名前を確認してビックリ!
 西村さん、いい年齢の重ね方をしておられますねぇ! 私個人の感想といたしましては、今回の黒川という人物は、実に『風の谷のナウシカ』におけるクロトワ(演・家弓家正)以来に大好きな男性サブキャラクターとして記憶されることとなりました。
 あれは……ツンデレとは言わないんでしょうけど、苛烈に指導しながらも二郎を実に正当に評価し信頼する見事な上司のたたずまいには激しく感動いたしました。ああいうのをカッコイイ大人っていうのよねぇ! 心の底からあこがれます、ああいう人。


 あぁ、また今回もこんくらいの文量になっちまったかい!

 ということで、まず「初回に観た」直後の印象の羅列としてはこのくらいにとどめておきたいのですが、おそらくこの『風立ちぬ』、何度観ても観るたびになんらかの発見ができる深みのある長編作品になっていますし、同時に、それを観る自分の「歳のとり方」にしたがっても、印象が大きく変わってくるものになるはずです。

 私、ジブリ作品のソフト商品を実際に購入したのは『もののけ姫』の VHSビデオだけなんですけど(それも成り行き上の購入で特に好きというわけではありませんでした)、この『風立ちぬ』は家に置いときたくなる一品になるかも知れませんね。なんか、いい! 久石譲のフレーズもよかったし。


 ああっ、音楽! 音楽といえば、エンドロールで流れた荒井由実の『ひこうき雲』!! これのこと言うの忘れてたわ! これについても感じたことがあってね。

 でも……ま、いっか!! もうたいがい長くなったし。やめときましょ。


 もしかしたら、も1回観に行くかも? 『風立ちぬ』、いい映画でしたよ~いっと。
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