代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

長州(靖国)神社の「招魂」の謎

2014年02月28日 | 長州史観から日本を取り戻す

 前々回に投稿した記事「宮崎市定氏による長州史観への挑戦」に対し、またまた多くの方々からコメントをいただきました。コメント欄に留めておくにはあまりにも惜しい議論でしたので、議論の核心的な部分を抽出して、本文に再掲させていただきます。これは明治時代に長州藩閥政府が仕掛けたマインドコントロールから日本人を解き放つという課題であり、国民的議論が必要だと思っています。

 死者の魂を永遠にしばりつけ、死んだ人間の魂をも長州レジームのために働かせ、その死を美化することにより、生きた人々をさらに戦死に追いやる「装置」としての長州(靖国)神社。
 いったい長州神社の教義の核心である「招魂」の概念はどこから来たのか? それは日本の伝統的宗教観と合致するのか? なぜ長州なのか? 本当に国民的議論が必要な課題だ。

 
 私の祖父はシベリアに抑留されて亡くなっており、長州神社の名簿に名前が載っている。いままでは「どうせ祖父の魂はそんなとこにあるわけないから」と気にも留めなかった。しかし皆様の議論を聞きながら、よくよく考えていくと、「やはり祖父を分祀して欲しい。死者の魂は誰からも束縛されるべきではない、自由な存在だ。ましてや長州陸軍閥によって殺された人々(「戦死者」の60%はじつは餓死)の魂が、死んでからも長州神社に束縛され続けるなんて、そんな理不尽な話があるか。戦死者(=餓死者)の魂を新たな戦争を生み出すための装置として使われ続けるのはたまらない」と心から思うようになった。

 以下、コメント欄の議論を再掲する。

 
*********以下引用**********


「招魂とは」に目を見はりました。 (薩長公英陰謀論者)2014-02-25 02:50:16

 くだんの長州の対朝鮮密貿易から朝鮮の儒教の「招魂」の密輸入を引き出されたことに息をのみました。長州「招魂場」が靖国の起源であるということでとどまって、りくにすさんのように「招魂とはなんのことか」と思わなかったことを恥じます。

 そこでさらに、Wikipedia「招魂祭」からの類推ですが、長州式招魂は朝鮮の儒教を経由した中国の道教の招魂の輸入だったということではないかとにらみます。中国古代の『楚辞』にあるという屈原の魂に対する招魂が道教の儀式としてなされており、これがなぜか朝鮮において儒教の儀式として成立していたのではないか、そこから長州に、と。

 おそらく死者の魂云々というようなことはオリジナルの孔孟の教えにはないだろうと推測できますから。
 ただし、儒教は徹底した現世主義であるがゆえにこそ招魂儀礼によって死者が現世に再生して子孫に命をつないでゆくということになるとか。「松岡正剛の千夜千冊」で込みいった紹介がなされている加地伸行『儒教とは何か』(中公新書、1990年)にその独特の儒教論があるとのことです( http://1000ya.isis.ne.jp/1205.html )。

 長州(大村益次郎)のことですから戦死者の「鎮魂」をするのではなく「招魂」で呼び戻してまた戦わせようというくらいの発想ではなかったのかと思います。農民から徴発された兵士たちがほんとうに可哀想です。

 九段坂の旧招魂社(「靖国神社」)では、兵士だけではなく戦争の責任者を対象に含めて長州式招魂祭が継続して行われているのではないでしょうか。鎮魂ではなく招魂を!震えますね。

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長州と朝鮮 (りくにす)2014-02-25 21:55:30


 靖国式「招魂」は儒教の儀式、ということは、小島毅の『近代日本の陽明学』に示されているのですが、後期水戸学から三島由紀夫に話が行ってしまうし、朝鮮儒学の主流は陽明学ではないので相変わらずもやもやしっぱなしでした。朝鮮では自分の尊属以外は招魂しないと思うのでやはりユニークな存在と言えるでしょう。

 京都では仏式葬を嫌う公家有志が神式葬を行う「霊明社」を創建し、やはり仏式葬を嫌う長州藩の神道葬を受け持つようになり、多くの勤皇志士がここに葬られました。wikipediaによるとここは維新後東山招魂社に「没収」され、後に霊山護国神社となります。神道が何かに乗っ取られてる?

 ところで長州藩は「正義派」が実権を握る前は「航海遠略策」なる出貿易政策を提案していますが、これも密貿易説に従うと、一日の長のある長州は絶対損しないはずだ、ということでしょうか。幕末はみんな征韓論、と言われますが長州だけ朝鮮と特別な関係だったのでしょうか。

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招魂についての続き。 (薩長公英陰謀論者)2014-02-26 15:55:20
 

 今をときめく総統の出自、長州の「招魂場」→「招魂社」→「靖国神社」と変身した「招魂」、りくにすさんが首をひねられるのはもっともで、理念や思想にさおさすものではなく、むりやり徴発した農民を兵士として死地に赴かせるための便宜、プラグマティックな浅知恵にすぎないのではないでしょうか。

 目の先の利害や都合で走り回り大騒ぎする、そのための知恵はよくはたらくという、これはその後に長州を乗っ取り列島全体を乗っ取って現在にいたる「長州史観」派の一貫した特性では・・・かってに懸命、夢中になりながら、外からの狡猾なシナリオに無自覚に乗せられるので本当に迷惑ですが。

 この人たちは、実質的に「対米戦争」であった太平洋戦争に敗北し、無条件降伏というあきれ果てることになったあげく、「米占領軍・GHQ」→「米駐留軍」に屈従して、露骨卑屈にすり寄ることとなりましたが、不思議なことに「対中戦争」に負けたとはまったく思っていないのではないかと思います。
 それが親米右翼という奇矯な存在と、いまどき猖獗をきわめる中韓敵視の愛国小志士さんたちをふたたび生み出したのではないでしょうか。 

 りくにすさんの提起であわててWikipediaで見たのですが、尊攘派が長州の覇権を握る前の藩論であったという「航海遠略策」は、佐久間象山、それに変身前の吉田松陰の考え方と同一であるとのこと。見まして、密貿易利権を含む「藩益」という枠をおのずから乗り越えた、驚くべき思想といえるのではないかと思いました。それゆえに、長州藩権益をすべての上においた視野狭窄の「長州史観」派による政治的テロリズムにあったと・・・一夜にして長井時庸と彼を支持した長州の人たちのファンになりました。

 しかし、あてにした日本史専門家によれば、けんもほろろなんです:

 ・・・長州藩の航海遠略策は、他藩から「自己航海の私論」と批判されたように、長州藩一藩が幕府に接近して産物交易策を拡張し、貿易にも参加するねらいであった。(井上勝生『シリーズ日本近現代史① 幕末・維新』岩波新書、2006年;P84)

 ・・・もし仮に、この策が実現すれば、現行の通商条約は、なし崩し的に追認され、それととともに締結主体としての幕府の地位も安定し、諸藩が参加して全国の国政を審議する体制作りの機会も失われてしまうだろう。それにまた、現行条約をいくら読み替えてても、外国側から見て貿易を朝貢と理解する可能性は皆無である。その意味からすれば、長井の論は、巧妙な議論のすり替えのうえに成り立っていた。天皇や正親町三条が賛同したのは、その点を理解できないまま、「五大州の貢」といった言葉を額面どおりに受け止めたためである。(青山忠正『日本近世の歴史 明治維新 』吉川弘文館、2012年;P75~76)

 ・・・「航海遠略策」は、・・長州藩の産物交易の展開を背景にした政論であった。・・・国是を開国に変えるのも「自然の時勢」という外交論は、・・・堀田正睦らの議論とほとんど同じである。・・・朝廷が、幕府の条約締結論と同じ長井の議論を受け入れたことがむしろ問題であった。翌年、朝廷は朝廷をないがしろにしたとして長井を批判し、長井は自害させられた。長州藩の周布や木戸、高杉の政治の原点は、この開国策「航海遠略策」にあるといえよう。ただし当時のそれは。幕政改革を否定した井伊政権を継承した安藤・久世政権を攻撃する策論ではなかった。朝廷に開国を説得する論であった。そのために失敗したのだった。(井上勝生『日本の歴史 開国と幕末変革 』講談社学術文庫、2009年;P262。原本は講談社、2002年)

 と。りくにすさんが示唆された「長州の計算高さ」が裏目に出たものとして、ぼろかすに言われています。
 長井さんを「姑息な策を弄する奸臣」と憎悪して犬猿の仲だった偉大な国民的英雄、吉田松陰大先生の目のくらむ輝きが翳らない限り、長井さんに日があたることはないのでしょう。
 
 最後に・・・徳川期の「征韓論」というのはその中味はじつは「反徳川」で、豊臣に対する否定を含意した朝鮮との友好外交を重視した徳川公儀に対する反感から出てきたものだ、という説明があって妙に納得しましたが、いかがでしょうか。
 毛利は反徳川の急先鋒だったわけで、長州は朝鮮を利用しているだけのつもりだったのでは。
( http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosushohan20.html )

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招魂に関して (福寿草)2014-02-27 11:15:59

 詳しいことは忘れましたが、道教にも「招魂」ということはあったような気がして、「道教 招魂」で検索すると結構ヒットします。
Wikipediaにも「招魂祭」の項がありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%9B%E9%AD%82%E7%A5%AD

 三十年ほど前に図書館で読んだ本では、日本の神道には、天智、天武の時代から、中国の道教の影響がかなり入っていたと書いてありました。(どこかに一部をコピーしたはずなのですが、もし見つかれば本の題名もメモしたと思うので、お知らせしますが)以来、神道そのものが「まったくの日本のオリジナル」というのが、そもそも間違いなのでは?とずっと思ってきました。

 私も安倍氏は「長州閥の生き残り」ではないかと思っていましたので、「長州史観」という考え方には興味があります。今後も拝読させていただきます。

 それからこれは、やはりだいぶ前の、お笑い系(?)のTVドラマにこんなのがありました。(正月の「芸能人かくし芸大会」の中のドラマだったったような気もするのですが、はっきりは記憶していません)

 高杉晋作等、吉田松陰の門下生が、刑死した松陰の遺体を引き取り、蘭学医村田蔵六(後の大村益次郎)の手で「フランケンシュタイン」のように蘇生させるという話です。しかし生き返った松陰は、以前にも増して純粋かつ、エキセントリックな人物になってしまったので、弟子たちも扱いに困ってしまって...というドタバタ劇でした。

 私自身は若いころから司馬遼太郎の『世に棲む日日』や『花神』のファンであり、その二作を元に作られた中村梅之助が主役の村田蔵六を演じたNHK大河ドラマ、「花神」のファンでもありましたので、正直このおかしなドラマには不快でした。何故こんな奇妙でグロテスクな話を?と不可解にも思ったのですが、今になって「招魂」のことを考えてみると、妙に符合するところもあるような不思議なドラマでした。(大河ドラマの「花神」からは何年も経った頃なので、そのパロディというわけでもなかったようです)どういう人が考えたのかと思います。

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日本における招魂とは (たんさいぼう影の会長)2014-02-27 21:24:32

 日本の陰陽道にも招魂はあります。ただしこれは、死にそうな人の魂を肉体につなぎとめる儀式だったそうです。死者の招魂は邪道であり、厳しい処罰の対象だったとも聞いています。
 なお孔子は「怪力乱神を語らず」「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん」などと言ったとされており、死者の魂については語らぬことを決め込んでいました。「招魂」と儒教道徳は明らかに無関係です。


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2 コメント

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「招魂」少考 (薩長公英陰謀論者)
2014-03-03 02:35:17

 Wikipediaを見ますと、くだんの「神社」は、国会図書館の近代デジタルライブラリーにある『法令全書(明治2年)』「魂場祭典順序(明治2年6月24日、軍務官)」によれば「創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が」、東京都『東京百年史』(ぎょうせい)によれば、後に「内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した」と。

 靖国神社の「靖国神社史」によれば「1946年(昭和21年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となった」とのこと。単立宗教法人(単立神社)であるために神社本庁との包括関係には属していない。・・・と、あります。

 これにより、くだんの「神社」は、国家神道つまり国教の施設としての神社ではなく、国家直営の軍事施設であったことをあらためて確認することができると思いますが、ここで祭式化した「その教義そのもの」である(@関さん)「招魂」という糸をたぐることによって「長州史観」による国家形成と運営における、司馬遼太郎の言う無思想性(「自讃に耐えるようなものではない思想的器量」)が内包するもの見出すことができるのではないかと思います(司馬遼太郎『この国のかたち(一)』文春文庫;P21〜33。なお、このウェブログ2014年1月17日「長州史観から日本を取り戻す」への、場違いのコメント投稿だった「素晴らしい司馬遼太郎『この国のかたち(一)1986-1987』」に若干の引用が含まれています)。

 大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984年)によれば(P118~120)「・・・1868(明治元)年6月、有栖川宮熾仁親王が東征大総督として主宰した江戸城大広間でおこなわれた招魂祭は、もはや御霊信仰の継承とは異質の官祭であった。第一に祭祀の対象は、勝利者である『皇御軍』(すめらみいくさ)の戦没者に限られ・・・第二に、招魂祭で祭られた霊魂は、当日の祭文に、『・・・古(いにし)え楠の朝臣が国の為に仕奉の労にも並びぬべく・・・』とあるように、功成り名遂げ、今生の世に怨念など残すはずがないものとされている霊魂であった。

 ・・・このような経過をへて、1869(明治2)年6月、東京九段の地に招魂場が創設され、招魂社と改められ、1879年6月に別格官幣社の社格が与えられ、靖国神社と改称された」とのこと。

 同趣旨のことが、小島毅『靖国史観』(ちくま新書、2007年;P97~98)に、三土修平『靖国問題の原点』(日本評論社、2005年)からの引用として示されています。
 長州の「招魂」と、靖国神社をつなぐものが、明け渡された千代田城において官軍が執り行った「招魂祭」であると考えてよいのではないかと思います。

 小島毅氏は前掲『靖国史観』で、この「招魂」には、じつは際だった特徴があると、「将軍から一兵卒まで、すべて等しく英霊として扱うという点で、この施設は文明開化を象徴する斬新な教理を打ち立てた。『天皇のために戦えば、身分や出自を問われることなく、国家によって神として祭られる』。」(P101)
 
「ここの祭神は国家(戦後は靖国神社自身)によってここで祭られるにふさわしいと認定された人たち全体であり、そこに尊卑の区別はない。生前は元帥・大将だろうが一兵卒だろうが、ここでは平等な扱いがなされている。その点ではきわめて民主的な宗教施設といえるかもしれない。その祭神の集合は『英霊』と呼ばれている」(P091)

 「ここではもはや東条英機という故人の霊が祭られているのではなく、他の数十万という死者とともに「英霊」という集合神格が祭祀対象となっているのだ」(P092)

 と、述べています(「平等で民主的」という言葉かこのようにつかわれるのに胸を突かれますが)。

 さらに「ではなぜその祭神は英霊と呼ばれるのか。靖国におけるこの語の使用は、日露戦争にはじまるという。・・・付設の展示館である遊就館によれば・・・藤田東湖という人物の詩を典拠にしてのことだという。・・・彼が、中国宋代の中心文天祥の詩に感ずるところあって詠んだ詩のなかに、この『英霊』という語が出てくるのだ」(P092~093)

 「『英霊』を祭ってその語の本場である中国から批判されているとは、なんとも皮肉な話である」(P095)と。

 そして小島毅氏は、この章(「第二章 英霊」)の終わりを「・・・藤田東湖がこの文言を引き合いに出して英霊について論じたわけではない。しかし、儒者の間ではある種の常識として、この教えは脳裏にあったはずである。・・『礼記』の祭法篇にある文言で、おそらく漢代に書かれたものと思われる。・・・この記述にもとづいて中国の後世の諸王朝が定めた制度では、・・・戦役において死んだ官僚・軍人を、忠節をつくした功により祭ることが規定されている。

 ・・・江戸城中で行われた招魂祭・・・その企画者たちが、この経典の記載をどこか頭の片隅に置いていた蓋然性は高い。『死を以て事に勤む』。勤王の志士たちは・・・『英霊』になったのである」(P136~137)と結んでいます。

 招魂が古代中国の道教または儒教の儀式であったとして、英霊が宋学起源の言葉であったとして、個々の魂を「招魂」して「『英霊』という集合神格」にして祭る、というのはおそらく「長州/靖国オリジナル」であるだろうと推察します。
 
 そこ(だけ)に存在する平等・・・というのが、マキャベリ的プラグマティズムといますか、司馬遼太郎の言う無思想性(思想的器量の欠如/凡庸さ)を表象していると見るのは牽強付会でしょうか。

 「死」→「招魂」→「英霊」という心理的装置に相応ずるものが、東京招魂社の創設者、大村益次郎の「人民の戦略」にあったのではないかと、井上勝生『日本の歴史⑱ 開国と幕末変革』(講談社学術文庫、2009年)の叙述から考えました。

 「たとえば小郡郡では、攘夷戦争の時から・・・代官の指示で。氏神神社に全郡民の「日参」や「度参り」が組織され、・・・戊辰戦争まで続けられた・・・代官は「人心を一致」すれば「・・・蒙古襲来の時ノ如ク、神風忽ニ吹起リ、夷賊軍艦ヲ覆溺ナサシメ為ハン事、疑ヒアルヘカラス」(「小郡農兵事」)と教え諭したのであった

 ・・・幕長戦争の際にも、長州藩の村民は「夷賊」と戦ったと信じ込んでいたところもある」(P324~325)

 と「長州ナショナリズム」が<神社を核にして>鼓舞形成されたことを述べてあり、この時点での「長州史観」(@関さん)がすでにその80年後の対「鬼畜米英」戦のイデオロギー(神風と神国)を先取りしていることに唖然とせざるをえません。

 その上で井上勝生氏は、幕長戦争における「大村益次郎献策」における「人民の戦略」の原文部分を引き、

 「敵兵に村落を焼き払わせて『人民の恨み』を敵に向けさせ、意図的に撤退して『人民の苦』を向けさせ、そこに攻め入って『人心の離反』をはかる」(P325、補足して要約)というのが大村長州式「人民の戦略」であることを述べています。

 井上氏が指摘するように(P326)、人民の力(活性)を認めながら、あくまでそれを操作し、組織し、統制する、人民を恨みや苦に追い込んで「人民を決死に誘われそうろう」(1865年7月、木戸孝允の大島友之允宛書簡)とするという・・・小島毅氏の上掲の言葉に走って戻りますと、まさにその限りでの「平等と民主」であるわけです。

 昨今の某氏の靖国参拝への固執を見ると、このような内包を持った招魂式「平等と民主」が、その150年後の現在に「招魂されている」のではないかと疑います。

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記録のために:戦後70年「英霊」たちを招魂した「 Students Emergency Action for Liberal Democracy - s 」。 (薩長公英陰謀論者)
2015-07-26 13:53:55

 多くの方がそう感じられたことと察することができますことからいたく気がひけるのを押して、本記事に関連する記録として引用投稿いたします。

 自分のいのちを生きることができなかった若き英霊たちが戦後70年にして招魂されたのは、九段の玉砂利の上ではなく桜田門外から内堀通り、手製のプラカードを手に立ち上がった若者たちがあくまで平和的理知的に行動しようとしているアスファルトの路上でした。
 鬼哭啾々たる英霊たちが、いま等身大の叫びで戦争を拒む「同年代の」若者たちのなかに生き返ったと・・・

    ☆☆☆

「学生デモ、特攻の無念重ね涙」と題された、加藤敦美さん(京都府 86歳)の7月18日 朝日新聞 大阪本社版「声」への投稿:

 安保法案が衆院を通過し、耐えられない思いでいる。だが、学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時、特攻隊を目指す元予科練(海軍飛行予科練習生)だった私は、うれしくて涙を流した。体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。オーイ、特攻で死んでいった先輩、同輩たち。「今こそ俺たちは生き返ったぞ」とむせび泣きしながら叫んだ。

 山口県・防府の通信学校で、特攻機が敵艦に突っ込んでいく時の「突入信号音」を傍受し何度も聞いた。先輩予科練の最後の叫び。人間魚雷の「回天」特攻隊員となった予科練もいた。私もいずれ死ぬ覚悟だった。

 天皇を神とする軍国で、貧しい思考力しかないままに、死ねと命じられて爆弾もろとも敵艦に突っ込んでいった特攻隊員たち。人生には心からの笑いがあり、友情と恋があふれ咲いていることすら知らず、五体爆裂し肉片となって恨み死にした。16歳、18歳、20歳・・・。

 若かった我々が、生まれ変わってデモ隊となって立ち並んでいるように感じた。学生さんたちに心から感謝する。今のあなた方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ。

      ☆☆☆

そして、

りくにすさま:

 申しわけないことに、その「共同体から切り離された近代的個人として強い国家を求めている市民」ではなく、りくにすさまのご認識の範囲には入らない反近代的なプレ・ネット・ウヨクにすぎないであろうことから、つよく逡巡しながら白状しますと

 ・・・自分自身を含めてだれも、国家の命令で無数の見知らぬひとびとを殺し、その暮らしを破壊することに何らかのかたちで手を下すことになってはならないと思いまして、身の程知らずに反戦側でものを考えております。
 身の回りの人びとを含めてだれも国家の戦争によって無体に苦しみ、無惨に殺されるようなことはあってはならない、と思いますし。

 贅沢わがままを言えば、「国民を他国の民の殺戮とその暮らしの破壊に追いやり、そのために自国民の死をいとわないひとびと」に統治支配されることをのぞまないのです。
 まして、おこぼれの多寡有無にかかわらず、そのような「強い国家」建設の側に与するには残念ながらあまりに不器用すぎます。するとおそらく「非国民小右翼」になるのでしょうか。

 それに、戦争に反対なのは・・・戦争の真の動機かつ目的は次の二つであるのではないかと、ごくごく狭い範囲のわずかの見聞経験のなかで体感してきたことによります:

(1)経済の行き詰まりを打開するため。

(2)国内統治の危機を顕在化させないため。

 率直に言って、経済と政治を差配する人たちにとって戦争は、この二つのために決定的に有効な(かつ矜持をかなぐり捨てた安易な)手段であると思います。人間というものに対して絶望的になる程に。

 むろん、招魂された若き英霊たち ↑ とともに地を踏みしめて歩む人びとが湧き起こす希望は別として。

<ご参考>

 (1)に関連する「経済的」戦争待望論の「カジュアルな」例:

 「そろそろどこかで戦争でも起きてくれないことには、日本経済も立ちゆかなくなってきますなあ・・・」
 
 ・・・「もう10年以上昔」つまりリーマン・ショック以前に、この「カジュアルな」発言をしたエラいさん ↓ は、アベ・シン政権の後ろ盾の要人であり、NHK会長に現任の籾井勝人氏を推挙した人であると言われる、JR東海の代表取締役名誉会長さんであるとのことです。

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 じつはかって、現在の姿からはとうてい想像がつかない経営危機にあったトヨタが、朝鮮戦争による韓国軍向けのトラック特需で一気に息を吹き返したことがあった、ことに思いあたりますと、暗澹たる気持ちにかられます。
 https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section7/item2.html

 むろん、国民につけが回る国家資金の投入による「経済効果」の甚大な事業は、ご承知のとおりダム・港湾・道路・架橋をはじめとする公共建設工事と、それを含む原発があるわけですが、
 米国軍産複合体が示すように軍需というのはさまざまの意味でオカネのかけ方の次元が異なります。垂涎の事業なのでしょう。
 原発はより軍需に近いような感じがいたしますけれど。
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