代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

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長州神社の「招魂」の謎(2)

2014年03月03日 | 長州史観から日本を取り戻す
 「やむにやまれぬ想い」で始めた「脱長州レジーム」プロジェクト。多くの皆様の参加を得て楽しい議論が展開されています。さまざまな人々が寄り合い、虚心坦懐に討議し、認識を発展させていくという「弁証法的な空間」をつくりたいという想いで始めた拙ブログ。まさに「これぞ弁証法」という感じがいたします。


 美智子皇后は、昨年のお誕生日の際、多摩で生まれた現行憲法に通じる内容を持つ「五日市憲法草案」の精神を評価し「地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法」とおっしゃいました。市民参加の活発な弁証法的討論こそが、「上意下達」と「官僚主導」を旨とする「長州レジーム」からの脱却を可能にするのでしょう。


 皇室を持ち上げているように見えて、じつはその御心を全く理解しようともせず、都合よく天皇を利用しているだけという安倍政権の姿勢。安倍政権の介入か、NHKなどは護憲を訴える天皇や皇太子のメッセージの肝心な部分をニュースからカットするという不敬なふるまいを繰り返しています。
 何か既視感を感じませんか? そう、「幕末」において、孝明天皇を担ぎ上げながら、天皇の御心を踏みにじって、利己的動機から偽勅を乱発した長州藩の姿勢そのものなのです。彼らは、「天皇」という存在を権力奪取のための道具としてしか考えなかった。


 前の記事の続きの議論を紹介させていただきます。水色の部分はコメント欄に寄せられた議論です。たくさん紹介していただいた本は少しづつ買い集めています。枕元に本が積みあがってきました。

***以下、コメント欄の議論の引用****


儒教と招魂 (りくにす)  2014-02-28 18:57:23

 航海遠略策については薩長公英陰謀論者さんに丸投げみたいな形になってしまいました。ありがとうございます。
 提案者が目論んでいたことと、周りの反応が私が予想したのと反対だったのですね。久坂玄端は最初から反対だったようです。

 ところで『論語』だけが儒教だと思って加地伸行『儒教とは何か』を読むと、宗教的な面が強調されてたり太極や陰陽五行が出てきたりして面食らいます。儒教が仏教、道教や民間伝承を吸収して教えを強化していった結果です。中国や朝鮮では葬儀も儒式でやりますから、魂を扱う技術が必要です。(日本でも行われたが後が続かずその墓地は「儒者捨て場」と呼ばれた)
 日本が平安時代だったころ、「朱子学」が登場してその後の儒教のスタンダードになります。それこそお釈迦様と鎌倉新仏教ぐらい隔たってしまうのです。

 それにしても、日本人は『論語』が好きですよね。『本当は危ない論語』という本はあっても『本当は危ない「大学」』が売れるとは思いません。小倉紀蔵は『新しい論語』の中で、孔子と孟子以降の儒者はぜんぜん違うメンタリティーを持っていたと述べています。孔子は普遍的な一般法則を上から当てはめていくやり方を嫌い、人と人、物と物とが美しく調和することを尊んだ、というのです。
もちろん朱子学でも『論語』は尊重されていますが。

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りくにす様:確かにその通りでした (たんさいぼう影の会長)2014-02-28 22:59:43 

 りくにす様の指摘を見て、え!?と思い調べてみると、確かに儒教に「招魂再生」の考え方があるという指摘が多数出てきました。
 儒教の「孝」を、先祖の霊に仕えて招魂再生を行うこととする解釈が見られました。そうすると確かに儒教道徳と招魂再生がつながります。
 これはどうやら、儒教・道教が成立する以前からの、中国の伝統的な死生観だったらしい。
 言われてみれば確かに、「老子」にだって「招魂」をにおわせるような話は一言も書かれていない。道教の成立過程で、民間信仰を取り込んで結びついたと考えるのが妥当でしょう。
 いずれにせよ儒教における「招魂再生」は、子孫が先祖に対して行うものであり、国家が戦死者の霊を一か所に招きよせて顕彰し利用するなどというものでないことは明らかです。
 ちなみに陰陽道は、中国から渡来した儒教・道教などと日本の民間信仰が結びついてできたそうで、それも成立は7世紀後半以降だったそうです。

****

「招魂」少考 (薩長公英陰謀論者)2014-03-03 02:35:17

 Wikipediaを見ますと、くだんの「神社」は、国会図書館の近代デジタルライブラリーにある『法令全書(明治2年)』「魂場祭典順序(明治2年6月24日、軍務官)」によれば「創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が」、東京都『東京百年史』(ぎょうせい)によれば、後に「内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した」と。

 靖国神社の「靖国神社史」によれば「1946年(昭和21年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となった」とのこと。単立宗教法人(単立神社)であるために神社本庁との包括関係には属していない。・・・と、あります。

 これにより、くだんの「神社」は、国家神道つまり国教の施設としての神社ではなく、国家直営の軍事施設であったことをあらためて確認することができると思いますが、ここで祭式化した「その教義そのもの」である(@関さん)「招魂」という糸をたぐることによって「長州史観」による国家形成と運営における、司馬遼太郎の言う無思想性(「自讃に耐えるようなものではない思想的器量」)が内包するもの見出すことができるのではないかと思います(司馬遼太郎『この国のかたち(一)』文春文庫;P21〜33。なお、このウェブログ2014年1月17日「長州史観から日本を取り戻す」への、場違いのコメント投稿だった「素晴らしい司馬遼太郎『この国のかたち(一)1986-1987』」に若干の引用が含まれています)。

 大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書、1984年)によれば(P118~120)「・・・1868(明治元)年6月、有栖川宮熾仁親王が東征大総督として主宰した江戸城大広間でおこなわれた招魂祭は、もはや御霊信仰の継承とは異質の官祭であった。第一に祭祀の対象は、勝利者である『皇御軍』(すめらみいくさ)の戦没者に限られ・・・第二に、招魂祭で祭られた霊魂は、当日の祭文に、『・・・古(いにし)え楠の朝臣が国の為に仕奉の労にも並びぬべく・・・』とあるように、功成り名遂げ、今生の世に怨念など残すはずがないものとされている霊魂であった。

 ・・・このような経過をへて、1869(明治2)年6月、東京九段の地に招魂場が創設され、招魂社と改められ、1879年6月に別格官幣社の社格が与えられ、靖国神社と改称された」とのこと。

 同趣旨のことが、小島毅『靖国史観』(ちくま新書、2007年;P97~98)に、三土修平『靖国問題の原点』(日本評論社、2005年)からの引用として示されています。
 長州の「招魂」と、靖国神社をつなぐものが、明け渡された千代田城において官軍が執り行った「招魂祭」であると考えてよいのではないかと思います。

 小島毅氏は前掲『靖国史観』で、この「招魂」には、じつは際だった特徴があると、「将軍から一兵卒まで、すべて等しく英霊として扱うという点で、この施設は文明開化を象徴する斬新な教理を打ち立てた。『天皇のために戦えば、身分や出自を問われることなく、国家によって神として祭られる』。」(P101)
 
「ここの祭神は国家(戦後は靖国神社自身)によってここで祭られるにふさわしいと認定された人たち全体であり、そこに尊卑の区別はない。生前は元帥・大将だろうが一兵卒だろうが、ここでは平等な扱いがなされている。その点ではきわめて民主的な宗教施設といえるかもしれない。その祭神の集合は『英霊』と呼ばれている」(P091)

 「ここではもはや東条英機という故人の霊が祭られているのではなく、他の数十万という死者とともに「英霊」という集合神格が祭祀対象となっているのだ」(P092)

 と、述べています(「平等で民主的」という言葉かこのようにつかわれるのに胸を突かれますが)。

 さらに「ではなぜその祭神は英霊と呼ばれるのか。靖国におけるこの語の使用は、日露戦争にはじまるという。・・・付設の展示館である遊就館によれば・・・藤田東湖という人物の詩を典拠にしてのことだという。・・・彼が、中国宋代の中心文天祥の詩に感ずるところあって詠んだ詩のなかに、この『英霊』という語が出てくるのだ」(P092~093)

 「『英霊』を祭ってその語の本場である中国から批判されているとは、なんとも皮肉な話である」(P095)と。

 そして小島毅氏は、この章(「第二章 英霊」)の終わりを「・・・藤田東湖がこの文言を引き合いに出して英霊について論じたわけではない。しかし、儒者の間ではある種の常識として、この教えは脳裏にあったはずである。・・『礼記』の祭法篇にある文言で、おそらく漢代に書かれたものと思われる。・・・この記述にもとづいて中国の後世の諸王朝が定めた制度では、・・・戦役において死んだ官僚・軍人を、忠節をつくした功により祭ることが規定されている。

 ・・・江戸城中で行われた招魂祭・・・その企画者たちが、この経典の記載をどこか頭の片隅に置いていた蓋然性は高い。『死を以て事に勤む』。勤王の志士たちは・・・『英霊』になったのである」(P136~137)と結んでいます。

 招魂が古代中国の道教または儒教の儀式であったとして、英霊が宋学起源の言葉であったとして、個々の魂を「招魂」して「『英霊』という集合神格」にして祭る、というのはおそらく「長州/靖国オリジナル」であるだろうと推察します。
 
 そこ(だけ)に存在する平等・・・というのが、マキャベリ的プラグマティズムといますか、司馬遼太郎の言う無思想性(思想的器量の欠如/凡庸さ)を表象していると見るのは牽強付会でしょうか。

 「死」→「招魂」→「英霊」という心理的装置に相応ずるものが、東京招魂社の創設者、大村益次郎の「人民の戦略」にあったのではないかと、井上勝生『日本の歴史⑱ 開国と幕末変革』(講談社学術文庫、2009年)の叙述から考えました。

 「たとえば小郡郡では、攘夷戦争の時から・・・代官の指示で。氏神神社に全郡民の「日参」や「度参り」が組織され、・・・戊辰戦争まで続けられた・・・代官は「人心を一致」すれば「・・・蒙古襲来の時ノ如ク、神風忽ニ吹起リ、夷賊軍艦ヲ覆溺ナサシメ為ハン事、疑ヒアルヘカラス」(「小郡農兵事」)と教え諭したのであった

 ・・・幕長戦争の際にも、長州藩の村民は「夷賊」と戦ったと信じ込んでいたところもある」(P324~325)

 と「長州ナショナリズム」が<神社を核にして>鼓舞形成されたことを述べてあり、この時点での「長州史観」(@関さん)がすでにその80年後の対「鬼畜米英」戦のイデオロギー(神風と神国)を先取りしていることに唖然とせざるをえません。

 その上で井上勝生氏は、幕長戦争における「大村益次郎献策」における「人民の戦略」の原文部分を引き、

 「敵兵に村落を焼き払わせて『人民の恨み』を敵に向けさせ、意図的に撤退して『人民の苦』を向けさせ、そこに攻め入って『人心の離反』をはかる」(P325、補足して要約)というのが大村長州式「人民の戦略」であることを述べています。

 井上氏が指摘するように(P326)、人民の力(活性)を認めながら、あくまでそれを操作し、組織し、統制する、人民を恨みや苦に追い込んで「人民を決死に誘われそうろう」(1865年7月、木戸孝允の大島友之允宛書簡)とするという・・・小島毅氏の上掲の言葉に走って戻りますと、まさにその限りでの「平等と民主」であるわけです。

 昨今の某氏の靖国参拝への固執を見ると、このような内包を持った招魂式「平等と民主」が、その150年後の現在に「招魂されている」のではないかと疑います。
 


*****引用終わり*******


 一連の議論の中で、中国における儒教や道教が本来の孔子や老子の教えとは全く異なる、「招魂」や「祖先崇拝」の宗教になっていったという話が出てきますので、少し私の経験を紹介しておきます(以前にも書いたことのある話です)。

 私は中国で植林の調査をしていました。以下の写真は、私が2002年と2003年に宿泊させていただいた貴州省のとある農家の仏壇の写真です。



 左右にそれぞれ三段の枠があります。向かって右上の段は右から、釈迦・孔子・老子が祭られています。左上は三皇五帝。左中段には建築の神様・魯班や酒の神様・杜康、右の中段には菩薩・観音や玄天上帝など。そして左下の段になって自分の家の先祖が祭られているという構成です。

 釈迦も孔子も老子を本来の教義とは全く関係なく、「堯・舜など古代の聖人たちよりもさらに偉い存在」ということで一括りにされていました。これら三人の開祖の教義の違いなど、全くどこ吹く風という感じです。仏教も儒教も道教も、「宗教」としては祖霊信仰と結びついてはじめて民間に広まったようです。

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「平等と民主」、う~ん (りくにす)
2014-03-05 12:59:18
「平等と民主」が保障される、ただし死後において、と言われますとアウシュビッツの門にかかったあの文句を・・・
それはさておき、幕末の頭でっかちな人々の間では、民の間から大統領を選び出すアメリカ合衆国は儒教の理想が成就した「君子国」だと思われていたようです。あの『学問のすすめ』冒頭も「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言えり・・・」と伝聞形で、平等志向がすでに拡がっていたことを示しています。

さて、「論語」や「老子」「荘子」に招魂が取り上げられない理由は、書物にするまでもなかったからかなと思います。招魂方法は家や村ごとに伝わっていて、ことさらに変化することもないと思われますので。佐久間象山暗殺メンバーに隠岐や対馬の関係者が見られますが、彼らは「招魂」を書物で知ったのか、釜山で実際に目撃したのか、そのへんが気になってきました。

もう一つしょうもない感想を述べると、薩長公英陰謀論者さんのコメントにあった「英霊は勝利者に限られる」ことがなんとも困った特徴だと思います。勝利に貪欲にならざるを得なくなるし、万一負けたら「英霊」が「英霊」でなくなってしまうではありませんか。不便ですね。
「馬鹿もん、負けることを考えるやつがあるか」とどやされそうですけど。
「招魂」少再考 (薩長公英陰謀論者)
2014-03-05 23:32:49
 関さん、なるほど、杜康さんは杜氏の親玉だったのかと頬笑みながら、やはり私では字義の判別がつかない写真を拝見しました。ありとあらゆるありがたい存在を親しみ深くならべて祖霊尊崇や亡きひとの追悼をそこに埋め込むという・・・仏壇をながめながら、くだんの招魂社とは「逆さ仏壇」なのだと思いました。

 関さんの思いの丈のこもった佐久間象山三部作にははるかまだ追いつくことができません。どうかかあしからず。

  ☆☆☆

 掛け値なく博雅のりくにすさんに、いささかなりとお役に立つのはありがたいことです。私には思いつかないところで気づかれること、追いかけてみると思いもつかなかった視野があらわれます。

 長州(の内紛)について関心を持つことになるとは思ってもみませんでした。勢いで、買ったまま置いてあった『長州奇兵隊』(一坂太郎、中公新書、2002年)を開いて見てしまいました。 「招魂場造成もお祭り騒ぎ」というところに深く感じるところがありましたので後刻に別途報告をさせてください。その前に:

 りくにすさんが上のコメントで指摘なさったことはまことにそのとおりであろうと思います(ちなみにアタマでっかちさんとはどなたがたでしょう?)。

 しかし、釈迦に説法ではありますが、誰もが欲しがる?最高額紙幣の象徴、福沢諭吉先生の「平等論」(「神さまは人間をすべて平等な者としてつくった」とは、じつは「格差・差別論」の前振りで、「勉学に励み立身出世を遂げることで人の上に立つ」ことをススメルものであったことをどうかつけ加えていただきますようお願いいたします。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html
「学問のすすめ」福沢諭吉 初編

さて、招魂社について、りくにすさんが「英霊=勝利者」ということに着目されたこと、目を瞠りました。

 「忠魂・忠霊」から「英霊」になったのは日露戦争からだというのは、村上重良氏の『慰霊と招魂 ー 靖国の思想』(岩波新書、1974年)にあるそうです(小島毅『靖国史観』ちくま新書、2007年;P092)。そこで見てみますと:

 日清戦争後、1895年12月に靖国神社で戦死者・戦傷死者を合祀する臨時大祭が行われ、天皇が靖国神社に親拝したが、日清戦争の戦没者1万3267名のうち86%を占める1万1427名の戦病死者は不名誉な犬死にとみなされて対象となってはいなかった。三年後の1898年になって、陸軍大臣、つづいて海軍大臣が、戦地での戦病死者も特旨で合祀すると告示し、日清戦争戦病死者の合祀臨時大祭が11月に行われ、天皇が靖国神社に親拝した。

 戦病死者は海軍107名以外のほとんどは陸軍であり、日露戦争を想定した陸軍の大拡張、近衛師団以下7個師団から13個師団への編成拡大が屯田兵整理で編成が遅れていた北海道第七師団を除いて発令されたのにあわせて翌月に行われたものである、とのことです(大江志乃夫『靖国神社』、岩波新書、1984年;P124〜P125)。

 ともかく、病死者が圧倒的であったことに声を出して驚いてしまいました(太平洋戦争の戦没者の過半数が栄養失調を主因とする病死者=餓死者?!であったことを関さんが記しておられたことを)。

 あわててWikipedia「日清戦争」を見て「伝染病の流行」から抜粋要約します:

 戦地入院患者で病死した13,216人のうち、5,211人 がコレラによるものであった(陸軍省編「第七編 衛生」『明治二十七八年戦役統計』)。次いで消化器疾患1,906人、脚気1,860人、赤痢1,611人 、腸チフス1,125人、マラリア542人、凍傷88人。最も犠牲者を出したコレラは、1895年3月に発生して気温の上昇する7月にピークとなり、秋口まで流行した(原田敬一『日清戦争』吉川弘文舘<戦争の日本史19>、2008年;102-125頁)。出征部隊の凱旋によって国内でコレラが大流行した(前同書;108-136頁)た。日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年は日清戦争の戦没者を大きく上回る40,241人、1896年908人(前同書;140-147頁)。

 とのこと。では、日露戦争では: 

 日露戦争後、1905年と1906年の二度にわたり戦死者6万0843名が臨時大祭で合祀されたが、戦病死者と戦闘死以外の事故災害死者が、生死不明で戦死認定が遅れた者や復員後の傷死者とともに合祀されたのは(2万4657名)1907年になっています(大江志乃夫、前同書;P126)。

 そして、

 靖国神社では「会津降伏記念日」の11月6日を秋の大祭とし、半年おいて春季大祭ということにしていたが、日露戦争の12年後、1917年に、春季例大祭を1906年の「陸軍日露戦争凱旋観兵式」の4月30日、秋季例大祭を1905年の「海軍日露戦争凱旋観艦式」の10月23日とした、とのことです(原田敬一『日本近現代史<3> 日清・日露戦争』岩波新書、2007年;P222)。

 これは、靖国神社が戦没者に弔意を示すためのものではなく「戦勝神社」そのものであることを如実に示すものであると思いました。そして、薩長明治政権は、戦いにおいて病死したものを視野に入れず、戦って死んだ者の名誉のみを認めるという戦国武士のメンタリティを持った権力である、ことを思い知りました。

 民のために安穏と平和を重んじ武力による攘夷(対外武力行使)を一度たりとも考えなかった江戸公儀を英国の最新鋭の武器を駆使し地元民に欧米式の訓練をおこなってレベルの違う圧倒的武力によって転覆したのは、戦国「首狩り族」末裔の野合集団であったようですね。

 しかしてあまりにも肝腎なことは、くだんの招魂靖国陣社は、りくにすさんが慧眼で見抜かれたように(1)「勝利と英霊」によって成り立つ「戦勝神社」であり、また(2)その勝利した英霊とその神社に対する「(万世一系の大和王家の当主である)天皇の親拝」によって成立するという明快な事実です。

 これは声を殺して言わなければならないのでしょうか・・・上記に対して、いまや、<1> 戦争には敗北し、そして敗北した戦争の実行最高責任者たちを英霊として合祀して以降、<2>「天皇親拝」が途絶えたという二つの<事実>

 ・・・くだんの「神社」は、招魂靖国神社としては存在し得ないはずなのですが。「議会によって選出された政府最高責任者(ご本人は国民が推戴する日本の最高責任者と思っているようですが)」がいくらがんばって参拝をしようが。

ちょっと脱線 (りくにす)
2014-03-07 12:24:50
博学なんてとんでもないです。恐縮しております。
福沢諭吉の「学問のすすめ」ですが、当時の読者としては競争社会になるのは望むところだったのではないでしょうか。学問が認められれば、あの横柄な象山先生だって敬意を表すわけです。中国や朝鮮はずっと前から(建前上は)そうなっていますから。どっちかというと、のちに社会主義運動を恐れて国家宗教を利用した愚民化政策を支持し「学問のすすめ」の愛読者を裏切ったこと、中国や朝鮮を軽蔑することを民衆にまで広げたことのほうが罪が重いんじゃないかと。

さて、NHKの「BS歴史館」の吉田松陰の回ですが、象山先生、みごとに登場しませんでした。一時開国論だったことにも触れていません。松下村塾の水平的な対面式、あるいは討論形式の授業はひょっとすると象山への反発からできたのかもしれません。象山は横柄なだけならまだしも人を試したり愚弄しては追い返すので感じ悪いので。

魅力ばかりが語られる松陰の授業ですが、そのせいで過激化したり、先生のほうが弟子に振り回される可能性はなかったのでしょうか。「対等」な場で、身近な危機について語り合っていくうちに意見が過激化していくとなると昨今のネット空間に似ている気がします。
福沢諭吉は見限るの簡単でしたが松陰は魅力的過ぎて嫌いになってしまうとつらいです。藩校の教授になったばかりのころは「一番講義のつまらない先生」だったそうですが。
世の中感じのいい人が正しい意見を持っていると限らないのは怖いことですね。
じつは苦手なひとばかりなので尻尾を巻いて退散します。 (薩長公英陰謀論者)
2014-03-08 00:15:13

 りくにすさんが嘆いておられた「長州陰謀史観の蔓延」に因んで珍妙なペンネームにしたのですが、じつはそのわりには有名な人物、とりわけ福沢諭吉と吉田松陰は苦手です。それから坂本龍馬。すみません。

 傑出した存在の人物像を手がかりにして歴史を考えるという回路が自分にないことに気がついて、そろそろいい加減うとまれるであろう長文投稿コメントの準備(「長州奇譚」)を中断しています。

 子供のころ、いつも酔っ払っていた塾のオーナー先生から殴られたことがあって、吉田松陰は塾の先生だというだけで敬遠していました。それに、いじけ者で松蔭や龍馬のようなスター的存在には近づかないのです。佐久間象山は、理工系で勤勉な勉強家の父の誇りでしたから、これまた遠景に置いて。

 そこでのこるは諭吉ですから、彼の時代と以降との「実学(実利学)主義」と「立身出世主義」について、関さんによる「思想と技術の切り分け」という指摘と、福沢諭吉に関する、りくにすさんのやはり博識による公平な月旦とをヒントにして、「長州史観」蔓延の手がかりを得るべく考えてみます。

 多少の経験と見聞とによれば、日本の成功したエライさんたちに「思想的」バックボーンをあたえてきたのは、諭吉や松蔭ではなく、中村天風と安岡正篤だろうと思います。ここらあたりを避けて通ることができないとすれば、どうにも土地鑑が。絶望感にかられます。
陸軍の病死問題とりあげました (関)
2014-03-09 15:37:12
 皆様、たくさんのコメントありがとうございました。りくにすさんから紹介していただいた小島毅著『近代日本の陽明学』、いま読んでいます。
 長州のみならず、水戸学、平田国学などを体系的に調べないといけないと思い直しております。専門外の私には膨大な作業・・・・。

 薩長公英陰謀論者さんの「病死」問題に触発され。日清戦争においても日露戦争においても死ななくてもよかった病死が陸軍においてあまりに多かった問題、長州システムの問題として論じ、新しい記事としてアップしました。
 長州システムが殺した兵士を長州神社で祀る・・・・。死んだ人々が浮かばれるわけがありません。
素に戻っただけだった? (りくにす)
2014-03-11 07:37:17
まだ当分お苦手な方々の話をしないといけないようです。
どうも松陰の「変節」は、素に戻っただけと考えたほうがいいのかもしれません。すでにお読みかもしれませんが、こちらのページでは松陰が父から神国思想を叩き込まれていた、と述べられています。
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj011005.html
旅に出ていろいろな人々と出会い、象山塾で開国論になったまではいいのですが、故郷で攘夷派の若者たちとしゃべっている間に地が出てきてしまったのでは。
松下村塾と「招魂」の間に、遺書「留魂録」があるような予感があるのですがこの辺は私も苦手で…
いつもだったら読み飛ばすエンディングノート的部分を調べなきゃいけないと思うとめんどくさくて。
ところで『中国化する日本』のなかで、与那覇潤氏は『近代日本の陽明学』で扱っている「動機が純粋で正しければ手段や結果はどうでもいい」風潮を「動機オーライ主義」と呼んでます。(そう言ったのは野口武彦氏らしい)
これを歓迎する風潮が民衆の間にあり、赤穂浪士の討ち入りが成功した背景にもこれがあり、近代になっても政府の弱腰外交を突き上げるという形で存続してきました。
どうも私は天孫族に対する出雲とか、吉良上野介とか、応援してはいけない方を応援する癖があるので日本人が怖いのです。
3.11 に取り急ぎ。 (薩長公英陰謀論者)
2014-03-11 13:00:25

 じつは今日は黙っておこうと、きのうあわてて幾つかでしゃばったのですが・・・りくにすさんの(もちろん関さんの)世の言説になびかない姿勢、知性をさすがだと感じ入りまして・・。

 ご投稿により学んだことのうち、参照の『吉田松蔭は思想家だったか ー思想という概念についてー』( http://www25.atpages.jp/dokushin/yoshida.htm )から以下とくにとくに深く感銘を受けたところを:

 ・・・山県大弐が勤労人民の解放という根源的発想に立っていたのに対して、松陰は国の運命(国という概念の実態は掴んでいない)という抽象的な観念形態から出発し、しかも自己の倫理をどう守るかという個人的問題にかかずらわって低迷しているのである。これは山県大弐と吉田松陰がまったく逆の方向から思想というものにアプローチしていることをはっきり示している。

 武士という同じ支配階級に属しながら、二人がこのように根本的に反対の方向から思想にアプローチした理由は、二人が同じ階級に「出身」しながら「依拠」する階級がまったく異なっていたためであると考えられる。松陰は身を切り刻むような苦しみの中で大弐の思想に導かれて、遂に幕藩体制を否定し一君万民の思想に到達して行く。しかし・・非合理主義的、神秘主義的天皇信仰に流れて彼の個人的心情論に堕している。つまりここでも松陰の視野の中には苦しみの底に喘いでいる勤労人民の姿はなかったのだ。

 ・・・彼らは師に導かれて師が最後に到達し、乗り超えようとして乗り超えられなかった一君万民の思想に到達し、そこで止った。しかもその一君万民理論は天皇に対する盲目的信仰に基づくものであり、封建支配の観念形態に代る新しい人民支配のための観念形態に過ぎなかった。人民の思想が生れないばかりか支配者の思想すら生れない。あれほどの人民に対する弾圧とアジア諸国民に対する侵略が行なわれたにもかかわらず、それは何時も曖昧な発想と杜撰(ずさん)な観念形態の混合物によって極めて中途半端に行なわれたに過ぎなかった。

 同じ弾圧や侵略にしても、それが明確な支配者の思想によって行われたものであったら、反って人民の側から明確な人民の思想が生れていたかもしれないのである。戦時中フランスやイタリーにレジスタンスが組織され、日本に何一つ抵抗の組織が生れなかった原因の一つはこの辺りにあるのではないか。
雑感あれこれ (りくにす)
2014-03-12 22:31:23
『吉田松陰は思想家だったか』は引用したページから読めずにいたので感謝いたします。
山県大弐のことは、恥ずかしながら何も知りません。彼が処刑されてしばらくすると藩政改革ラッシュが起こり、行政が民衆に歩み寄るので革命が回避される、ことは存じておりますが。労使一体のはしりかもしれません。(とはいえ
百姓一揆はまだまだあったはず)

ところで小倉紀蔵の『朱子学化する近代日本』によれば「一君万民」が意味するところは科挙を前提とした競争社会だそうです。この本には教育勅語制定の秘話が紹介されています。天皇の教育をめぐって、責任ある君主として君臨させたがる儒者と、失政によって傷つくのを恐れる国学者が争い、結局は「神聖にして冒すべからず」に落ち着くのです。そして「一君万民」が「労使一体」ならぬ「君民一体」に変えられてしまう。同じになれないものを無理やり一体にする。こうして本来ダイナミックであるはずの儒教思想が退屈な道徳になってしまうのです。

これは公儀が説明責任を果たさなかったせいかもしれませんが、松陰が関税のことを理解できなかったのは残念です。もっとも「不平等条約」を海難事故での日本人見殺しで理解していた我々も同様かもしれません。インフレと金貨流出の関係は幕府の勘定方でもない限り理解できあなかったかと思いますけど。
まとまりがなくてすみません。
またまた脱線・小倉紀蔵氏のこと (りくにす)
2014-03-14 20:54:10
アマゾンの『朱子学化する日本近代』のレビュー、まだないんですか。この著者にはちょっと癖があり、「朱子学のために不幸になっている東アジアを何とかしたい」という「高い志」があるので敬遠されているのかもしれません。
私もこの本を図書館でリクエストして読んだので表面的にしか理解できていないと思います。二週間は短すぎる。読んで損はない、と請け負う自信はありませんが面白く読めました。教育勅語問題のほかに、福沢諭吉、司馬遼太郎、三島由紀夫のネタもありましたがノートづくりが追い付かない。本当は万物は〈理〉と〈気〉からなっている、あたりから話をすべきでしょうけど略。人は天子も含めてみんな〈理〉の奴隷となり、その〈理〉は聖人(朱子)にしか解けないしくみになっており、新しい道を開拓できないこと、侵略的な「普遍」が個別を抑圧すること・・・当時のノートには「押しつけられた価値観を信奉するのをやめて、ひとと自分を序列化するのをやめてもっと幸せに生きようよ」と書いていましたが・・・難しいです。

小倉氏は民主化に向かう80年代の韓国に儒教の勉強のために留学され、韓国社会に今も生きている儒教思想を目の当たりにされました。『韓国は一個の哲学である』『韓国人のしくみ』にそのあたりの、日常にまで浸透した朱子学的考えを読み取ることができます。そして韓国の朱子学社会が息苦しいと言いながら、日本の政治には〈理〉がないとぼやくのです。
最近出た『新しい論語』は「論語」の解釈の脱朱子学化を目指していて、墨家的、道家的な「普遍」に対抗して「普遍じゃないもの」を大切にしたのが孔子だ、という本です。
乱世の中、グローバル的、普遍的な思想が生まれてきて、孔子の死後、孟子が登場してからは「論語」も「普遍」の文脈で読まれるようになりました。
一神教対多神教に似ているけどちょっと違うようです。
本居宣長の「もののあはれ」に通じるかもしれませんが、常に尊い存在の話ではありません。物と物、人と人の関係性の「調和」の話です。「仁」はフルタイムで存在するものではないようです。

韓国時代劇の背景を知るために儒教の本をあさっていたらはまってしまいました。お役に立てれば幸いですが。
たしかにいつも普遍と原理とが。そこでヘーゲル本から利いた風なことを。それに白川「孔子伝」。 (薩長公英陰謀論者)
2014-03-15 01:34:44

 関さん、すみません。りくにすさんから学んだことを、及ぶ限り関さんの問題意識に引きつけて受けとめています。
 なにしろ、りくにすさんのお名前がナデシコ科の愛らしい花を意味することを知るまで(写真を見てほんとうに)くびをかしげていたようなありさまです。お話しの展開のはやさに、土地鑑のあるなし以前にともかく、目を白黒させています。

 りくにすさん、ありがとうございます。教育勅語に福沢諭吉、司馬遼太郎、三島由紀夫と・・・これにたちまちおそれをなして、では得意の新書でと、ご紹介いただいた小倉紀蔵氏の『新しい論語』(ちくま新書、2013年)と、それから『入門朱子学と陽明学』(ちくま新書、2012年)を、いつものネット通販書店に注文したところです(なお、アマゾンは絶版・中古本のみやむをえず利用しています)。
 ちなみに最近は中国の時代劇にはまっていまして、おかげで明清時代に興味をひらかれました。本棚で異彩を放つことになるだろうこの2冊を明清への時代的興味に結びつけることにします。

 じつは・・・「一君万民」の示すところは、(ひらかれた)選抜試験をインフラにする競争社会であるというところ、考えあぐねておりました。
 これが例の『学問ノススメ』が大成功したことに呼応すると・・・なるほど、つじつまあいすぎです。すでにカルト?としての立身出世原理教が世の中をひたしていたということですね。
 少し口わるく言いますと、話題のアベ友だち一党は言うに及ばないとして、竹中平蔵先生だってやたら市場原理カルトですし、何が何でも原発再稼働(投資の回収)をしたい電力会社だって資本原理カルトとしか理解?しようがありませんしね。

 ここで、りくにすさんの「ノート」への祝福をこめて、ヘーゲル研究者の書いた新書、権左武志『ヘーゲルとその時代』(岩波新書、2013年)の「あとがき」から(同書、P213ー4):

 「2001年以後、『グローバル化』と『改革』の政策に伴い、世論が画一化するという顕著な傾向が見られたが、こうした時代体験は、1930年代と同じく、現代日本に観念論の伝統が決定的に欠けていることを改めて教えてくれた。
 観念論の立場から見るならば、現実の世界は(『グローバル化』論者が説くように)一方向に向かい必然的に進行するのではなく、様々な可能性を秘めており、・・・過去の思想から学んで、自由な想像力を働かせる思考能力を身に付けるならば、支配的思想とは異なる別の可能性を現実の中に見出し、現在をよりよく理解することができるはずだ。
 ・・・もしこうした観念論の遺産を忘れ去り、過去の思想から学ぶ知的努力を怠るならば、歴史を忘却した現在中心主義や、時代の大勢に追随する日本的歴史主義に再び逆戻りするだろう」

 ・・・じつは霊や神の存在を認めない唯物論者のつもりだったのですが、これ ↑ を読んでいっぺんに観念論者に転向しようと思いました。

 それから、白川静博士の『孔子伝』(中公文庫、1991年。原本は1972年、中公叢書)のP119(改版、2003年)にはこうあります:

 「人はみな、所与の世界に生きる。何びとも、その与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。
 体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を越えようとする。そこに変革を求める。
 思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。またその行為者でなくてはならない」

 「しかしそのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け容れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも反体制者として扱われる。
 孔子は、そのような意味で反体制者であった。孔子が、その生涯の最も重要な時期を、亡命と漂泊のうちに過ごしたのは、そのためである」

 と。 思想のちから、思想を形成することの決定的な重要性にうたれます。

 話は飛躍しますが、かの吉田松陰は白川博士的にはたしかに表面は「思想家」(に仕立てられた存在)ですが、
 権左氏によるヘーゲル的にはかならずしも「他を媒介としながら、つねにみずからの批判(自他を区別し、みずからをあらわすこと)の根拠を問う」ことである思想形成(白川静、1991年;P175)をおこなう「観念論者」ではないような気がします。やはりカルト?

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