塩沢由典先生から、「理論と政策」に関して以下のコメントをいただきました。リカード・モデルを理論的な前提としても、失業の発生を考慮すれば政策としての自由貿易は必ずしも肯定できなくなるという論点です。新しい記事としてアップさせていただきます。
*****以下、塩沢先生のコメントの引用*****
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/6740c7daa4a149f9785b74c3f055a407?st=0#comment-form
理論と政策 (塩沢由典)2014-06-28 21:35:58
経済学では、理論と経済像(ヴィジョン)と政策の3つが複雑に絡みあっています。うろ覚えなのですが、学派が成立する3つの要件として、シュンペータがこの三つが挙げたと聞いた記憶があります。
これがある経済学の学派の成立要件だとすると、経済学のある学派の理論を学ぶうちに、知らず知らずのあいだに、その学派がもつビジョンと政策とを学び取ってしまっている可能性があります。
国際経済論の場合、国際マクロあるいは国際金融論が出てくるまでは、国際経済学といえば貿易理論でした。この貿易理論には、リカード理論、ヘクシャー・オリーン・サミュエルソンの理論(HOS理論)の二つの大きな基礎理論がありますが、歴史的経緯から、どちらの理論も、政策としての自由貿易とセットになっていました。
その影響で、いまでもリカード貿易理論=自由貿易推進政策という公式が学校でも大学でも教えられています。しかし、理論と政策とがそのように直結することは本当はありません。結論を導く前提や、理論モデルの一部の仮定を置き換えれば、別の結論が導かれうるからです。
わたしが『リカード貿易問題の最終解決』で目指したのは、政策と切り離して、どういう状況のもとに貿易の利益が得られるのか、どういう状況では逆に不利益が生ずるのか、きちんと議論・分析する枠組みを作り上げることでした。
たとえば、完全雇用が成立するなら、貿易は貿易をしない場合より、ひとびと(この場合、労働者)に利益があるが、ただ自由化するだけで総需要が増えないと失業が生まれることが証明できます。こうしたことは、リカード貿易理論の枠組みの中できちんと言えることです。
貿易の利益・不利益も、誰にとっての利益・不利益なのかという分析も必要です。従来のリカード理論では、国を単位として議論してきた結果、この「だれに」の視点がしばしば抜けていました。この点も、あたらしい貿易理論では、産業あるいは企業単位で分析できるようになっています。たとえば、自由化の結果、ある産業は競争的でなくなる可能性があります。このとき、この産業の企業は廃業・倒産の危険にさらされます。資本家/経営者は、そのことにより損失をこうむる可能性があります。その産業で働く労働者は、失業の憂き目に会うかもしれません。
HOS理論は、その前提が一般均衡にありますから、一方で倒産や失業が生まれても、他方で投資機会と雇用が増えるので、要素価格や製品価格の変動といった問題以外に経済的不利益は生じないという「前提」になっています。
ここがリカード理論とHOS理論の大きな違いです。リカード理論は、うまく構成すれば、ケインズの構想と整合的なものになるとわたしは考えています。しかし、これはまだ『リカード貿易問題の最終解決』では示せていません。ごく簡単な構想が述べられただけです。そういう意味では、リカード理論はまだまだ発展させなければならないし、発展の可能性をもっていると信じています。
こういう状況はあるのですが、まだまだそういう新しい理解は浸透していません。これまで、貿易理論は、リカードを含めて貿易推進論者によって開発・発展されてきました。そのため、後の時代になって貿易理論を学ぶようになった人たちは、理論の根本をきちんと検討することなく、常識的に貿易自由化政策を主張するようになりました。日本の国際経済学会の状態も、こうした大きな状況の一部なのでしょう。
政策を固めには、そういう常識論として知っていることではなく、もっと深い分析と広い視野が必要です。
政策は総合的なものですから、経済学的な損得だけで結論をだすことはできません。たとえば、森林や水、景観あるいは文化や伝統といった、ふつうは経済学的想像力の視野にないことも考えなければなりません。
演劇はよく総合芸術といわれます。しかし、演劇を一人の専門家だけでやることはほとんど不可能です(さいきん、一人芝居というスタイルもあることはありますが)。
政策を考えるにも、おなじように人間生活のさまざまな場面(この中には自然環境も含まれます)を対象とする異なる専門学問のあいだの討論が必要でしょう。このような討論には、各専門家は、自分専門以外の学問についてはアマチュアとして興味と理解しようという意志を持たなければならないはずです。
やはりアマチュア精神が必要です。
****引用終わり***********
これまで、経済学者が自由貿易による失業と総需要の収縮効果について語らないので、フランスの人類学者のエマニュエル・トッドがしきりにそれを問題にしていました。エマニュエル・トッドも非常に存在意義の大きなアマチュア経済学者といえるかも知れません。
この問題を理論的に明確にしていただいたという点でも、塩沢先生の大著『リカード貿易問題の最終解決』(岩波書店)が出版された意義はあまりにも大きいと思います。
自由貿易は、生態系や文化や地域コミュニティの持続性といった非経済学的な観点から肯定できないのはもちろんなのですが、自由貿易による失業と総需要収縮効果を認めるだけで経済学的にも認められなくなります。
最近はジョセフ・スティグリッツなども、自由貿易による失業と賃金低下のスパイラルの発生を言い始めています。
*****以下、塩沢先生のコメントの引用*****
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/6740c7daa4a149f9785b74c3f055a407?st=0#comment-form
理論と政策 (塩沢由典)2014-06-28 21:35:58
経済学では、理論と経済像(ヴィジョン)と政策の3つが複雑に絡みあっています。うろ覚えなのですが、学派が成立する3つの要件として、シュンペータがこの三つが挙げたと聞いた記憶があります。
これがある経済学の学派の成立要件だとすると、経済学のある学派の理論を学ぶうちに、知らず知らずのあいだに、その学派がもつビジョンと政策とを学び取ってしまっている可能性があります。
国際経済論の場合、国際マクロあるいは国際金融論が出てくるまでは、国際経済学といえば貿易理論でした。この貿易理論には、リカード理論、ヘクシャー・オリーン・サミュエルソンの理論(HOS理論)の二つの大きな基礎理論がありますが、歴史的経緯から、どちらの理論も、政策としての自由貿易とセットになっていました。
その影響で、いまでもリカード貿易理論=自由貿易推進政策という公式が学校でも大学でも教えられています。しかし、理論と政策とがそのように直結することは本当はありません。結論を導く前提や、理論モデルの一部の仮定を置き換えれば、別の結論が導かれうるからです。
わたしが『リカード貿易問題の最終解決』で目指したのは、政策と切り離して、どういう状況のもとに貿易の利益が得られるのか、どういう状況では逆に不利益が生ずるのか、きちんと議論・分析する枠組みを作り上げることでした。
たとえば、完全雇用が成立するなら、貿易は貿易をしない場合より、ひとびと(この場合、労働者)に利益があるが、ただ自由化するだけで総需要が増えないと失業が生まれることが証明できます。こうしたことは、リカード貿易理論の枠組みの中できちんと言えることです。
貿易の利益・不利益も、誰にとっての利益・不利益なのかという分析も必要です。従来のリカード理論では、国を単位として議論してきた結果、この「だれに」の視点がしばしば抜けていました。この点も、あたらしい貿易理論では、産業あるいは企業単位で分析できるようになっています。たとえば、自由化の結果、ある産業は競争的でなくなる可能性があります。このとき、この産業の企業は廃業・倒産の危険にさらされます。資本家/経営者は、そのことにより損失をこうむる可能性があります。その産業で働く労働者は、失業の憂き目に会うかもしれません。
HOS理論は、その前提が一般均衡にありますから、一方で倒産や失業が生まれても、他方で投資機会と雇用が増えるので、要素価格や製品価格の変動といった問題以外に経済的不利益は生じないという「前提」になっています。
ここがリカード理論とHOS理論の大きな違いです。リカード理論は、うまく構成すれば、ケインズの構想と整合的なものになるとわたしは考えています。しかし、これはまだ『リカード貿易問題の最終解決』では示せていません。ごく簡単な構想が述べられただけです。そういう意味では、リカード理論はまだまだ発展させなければならないし、発展の可能性をもっていると信じています。
こういう状況はあるのですが、まだまだそういう新しい理解は浸透していません。これまで、貿易理論は、リカードを含めて貿易推進論者によって開発・発展されてきました。そのため、後の時代になって貿易理論を学ぶようになった人たちは、理論の根本をきちんと検討することなく、常識的に貿易自由化政策を主張するようになりました。日本の国際経済学会の状態も、こうした大きな状況の一部なのでしょう。
政策を固めには、そういう常識論として知っていることではなく、もっと深い分析と広い視野が必要です。
政策は総合的なものですから、経済学的な損得だけで結論をだすことはできません。たとえば、森林や水、景観あるいは文化や伝統といった、ふつうは経済学的想像力の視野にないことも考えなければなりません。
演劇はよく総合芸術といわれます。しかし、演劇を一人の専門家だけでやることはほとんど不可能です(さいきん、一人芝居というスタイルもあることはありますが)。
政策を考えるにも、おなじように人間生活のさまざまな場面(この中には自然環境も含まれます)を対象とする異なる専門学問のあいだの討論が必要でしょう。このような討論には、各専門家は、自分専門以外の学問についてはアマチュアとして興味と理解しようという意志を持たなければならないはずです。
やはりアマチュア精神が必要です。
****引用終わり***********
これまで、経済学者が自由貿易による失業と総需要の収縮効果について語らないので、フランスの人類学者のエマニュエル・トッドがしきりにそれを問題にしていました。エマニュエル・トッドも非常に存在意義の大きなアマチュア経済学者といえるかも知れません。
この問題を理論的に明確にしていただいたという点でも、塩沢先生の大著『リカード貿易問題の最終解決』(岩波書店)が出版された意義はあまりにも大きいと思います。
自由貿易は、生態系や文化や地域コミュニティの持続性といった非経済学的な観点から肯定できないのはもちろんなのですが、自由貿易による失業と総需要収縮効果を認めるだけで経済学的にも認められなくなります。
最近はジョセフ・スティグリッツなども、自由貿易による失業と賃金低下のスパイラルの発生を言い始めています。
ところで、わたしの「コメント」には誤字がありました。ほかにもあるかも知れませんが、
「政策を固めには、そういう常識論として知っていることではなく、もっと深い分析と広い視野が必要です。」
という段落の「政策を固めには」では、まつたく意味が通りません。
「政策を固めには、そういう常識論として知っていることではなく、もっと深い分析と広い視野が必要です。」
のまちがいでした。このコメント/記事を読んでくださった方方にお詫びします。