昨年12月7日、特定秘密保護法が可決された際、私は「日本の民主主義が死んだ日」という感想文を書いた。本日はそれに続いて「日本の法治主義が死んだ日」である。
集団的自衛権うんぬん以前に、憲法解釈を閣議決定で変えるなどということは法治主義の否定であり言語同断である。独裁国家だって、近代国家ならば、法の支配をタテマエに独裁政治をするものである。首相が恣意的に最高法規の条文の解釈を変えられるというのであれば、法治的独裁国家よりも悪質な、法の支配が及ばない無法国家になったということと同じである。
さらに、本当に現行憲法の条文のままで集団的自衛権が行使できると解釈可能だと強弁するのであれば、日本語という言語は論理的に情報を伝達する能力のない言語であると諸外国から評価されることにもなろう。首相は、日本語という言語に対する諸外国の信用も失墜させたのである。
日本人が日本語で表現するすべての事柄も、幾重にも解釈可能ならば、本当に信頼してよいのかどうかわからないと判断されてしまう事態を招いてしまいかねない。
敗戦後、先人たちが努力を重ねて信頼を回復し、「日本人は約束したことは守る」と思われるようになった、その苦労も、首相の軽率な行為ですべてが水泡に帰する。幕末に長州藩が国際条約を無視して下関砲台から外国商船を無差別砲撃して日本全体が国際的信用を失ったのに比肩し得る。長州藩閥の首相の軽率な行為で、日本全体が「信用できない国」という評価に変わっていくのだ。これにまさる全国民的損失などあるだろうか?
集団的自衛権うんぬん以前に、憲法解釈を閣議決定で変えるなどということは法治主義の否定であり言語同断である。独裁国家だって、近代国家ならば、法の支配をタテマエに独裁政治をするものである。首相が恣意的に最高法規の条文の解釈を変えられるというのであれば、法治的独裁国家よりも悪質な、法の支配が及ばない無法国家になったということと同じである。
さらに、本当に現行憲法の条文のままで集団的自衛権が行使できると解釈可能だと強弁するのであれば、日本語という言語は論理的に情報を伝達する能力のない言語であると諸外国から評価されることにもなろう。首相は、日本語という言語に対する諸外国の信用も失墜させたのである。
日本人が日本語で表現するすべての事柄も、幾重にも解釈可能ならば、本当に信頼してよいのかどうかわからないと判断されてしまう事態を招いてしまいかねない。
敗戦後、先人たちが努力を重ねて信頼を回復し、「日本人は約束したことは守る」と思われるようになった、その苦労も、首相の軽率な行為ですべてが水泡に帰する。幕末に長州藩が国際条約を無視して下関砲台から外国商船を無差別砲撃して日本全体が国際的信用を失ったのに比肩し得る。長州藩閥の首相の軽率な行為で、日本全体が「信用できない国」という評価に変わっていくのだ。これにまさる全国民的損失などあるだろうか?
ちょうど「長州神社の『招魂』の謎2」の議論が時事ネタになってきたので、こちらに移らせていただきます。
なんか怖い話になりそうなので、ゆる~く書いていこうと思いますがそうはいかないようです。
頭悪いもので個別の事情より一般論で行っちゃうことが多いのですが、世間にとってはわが日本はいつも例外的な存在のようで一般論が当てはまらないようですね。
私は軍事同盟ははかないもの、いつか終わると考えておりますが、それがいいことなのか、その後どうするべきかは全然わかりません。
白井聡『永続敗戦論』は敗戦日本の欺瞞について述べていますが、最近アメリカの日本占領体験がアメリカの軍事戦略を誤らせているのではないか、日本人は占領軍に抵抗を示すべきだったのではと変な考えにとりつかれています。少なくともアメリカがイラク戦争とその後のイラン占領に踏み切ったのは日本占領の成功体験で判断を誤ったからだと思ってます。
日本は日本人だけでなく、アメリカもだましているのかも。それだけでなく「平和国家」の嘘で世界中をだましている?アフガンで伊勢崎賢治さんのチームの呼びかけに応じて武装解除に応じた人たちはだまされていたのでしょうか。となると日本版「二重言語」は戦後すぐからあって、「平和と繁栄」の嘘が通用しなくなると逆方向にスイッチを切り替えたということなのか。まだ再読が必要なようです。
集団的自衛権が認められて日本はアメリカに従って中東などで戦闘して経験を積んだら、近隣諸国を攻めるのでしょうか。
アメリカが防ごうといかに画策しようと、念願であるならやっぱり日本は中国戦を始めるでしょう。
こうなるとアメリカは日本征伐をしなくてはならないはずです。
> この間に急激に実現した、(1)武器輸出制限解除。(2)海外援助ODAの軍事化。(3)日本版NSC=大本営の創設。(4)「特定秘密保護法」による情報統制治安体制の確立。・・・のセットは米軍産複合体・ネオコンの要求に応えるというよりむしろ「戦争経済・軍事経済」による経済活動の活性化とそのための国民動員体制をつくりあげたいという、ほかならぬ経済界のプッシュによるものであろうと推測します。戦争を身近に知らない世代になったエライさんたちは意識してかせずにか「経済」要因に駆られておのずから、かっての「戦時中の体制」に向かおうとしているのではないでしょうか
なるほど、この国の経済界の要望ですか。確かにこの国に「立憲主義の放棄」をさせた時点でアメリカの「民主主義」の建前もふっとんでしまいますね。もっともそんなものはとっくにない、ともいえそうですが。
どこぞのブログには、この度の閣議決定は特に何かが変わるわけではなく、安倍首相の「偉大さ」を演出するための行動である、という意見がありました。では自衛隊の派遣先はどこ、とか徴兵制がとか、国内に外国のテロが、というのは大きな問題ではなく、安倍さんにはそういう演出が必要なんだ、ということになるのでしょうか。賛成にしろ反対にしろ騒いだ人は治安当局にチェックされる仕組みかもしれません。しかしいつでも「同盟国」のために出兵できるようになった事実は変わりません。
『永続敗戦論』には小泉首相による北朝鮮との交渉が、拉致被害者の扱いをめぐってこじれた、とありますが、安倍政権は早速拉致被害者の調査・解決に動いてますね。いよいよ北朝鮮との同盟でしょうか。日刊ゲンダイは「集団的自衛権報道を吹き飛ばす」ためと見ています。陰で珍味売りしてる宗教がからんでいるのか。そして『1984年』のオセアニア国がユーラシアとの同盟を破棄して宣戦し、イースタシアと「昔から」同盟を組んだように過去をねつ造するのでしょうか。
ちなみに某首相のことを「天ぷら野郎」と呼ぶのに何で抵抗を感じるのだろう、と思ったら、ますむらひろしの漫画『アタゴオル』シリーズに出てくる少年(というか童顔の青年)テンプラが好きだからだと気が付きました。この作品の人物名(半数が猫だが)が変わっていて、
「テンプラを救うためにヒデヨシとパンツが蛇腹沼に…」てな感じになってしまう。
たんさいぼう影の会長様にご示唆いただいたことを独り合点で「経済政策としての『明治維新』論」という、おそらく何の「ロマン」も蠱惑もない面妖なことにして抱え込んだまま、無様にも目の先の課題で状況いささか逼迫しております。先の投稿のフォロー補足といいますか、取り急ぎの雑駁な「視点提起」にて遁走することをご容赦ください。影の会長様への報告に手が着くまで(いささか迂遠のままのおそれが)。
さて、きわめて即物的な言い方で申しわけありませんが、集団的自衛権という「軍事問題」が、経済学(経済政策論)の問題であることを「ホルムズ海峡機雷除去可能論」が明確に示しているのではないかと思いまして追加の補足をさせていただきます(屋上屋に?)。
政府(菅義偉官房長官)は3日のNHKの報道番組で、ホルムズ海峡が日本に原油を輸送する重要な航路だと位置づけた上で、「機雷がまかれるような事態になれば、国民生活にとって死活的な問題になる」とあらためて強調したとのことです。
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/world/ecoscience/ASG736T23G73UTFK018.html
ホルムズ海峡で機雷除去「可能」 集団的自衛権で菅氏
2014年7月4日(金)06:41 朝日新聞DIGITAL
マラッカ海峡を典型とする、「海峡防衛」というのは、はるか以前から一貫して経済界がアピールしてきた問題だと記憶しています。
いま集団的自衛権の問題としてホルムズ海峡機雷除去が提起されているのは、「経済活動の延長としての軍事行動」、機雷敷設側として想定されているイランに対する戦争が「考えられて」いること、対イラン戦争がマラッカ海峡航路を領海に持つオマーンとの「集団的自衛権」の行使としておこなわれること、を意味しています。
ちなみに機雷除去は、すでに武力攻撃としての意味を失った戦後の不発弾の処理にあたる場合を除き戦闘行動である、というのが政府側の従来からの見解であったとのことです(1997年6月16日参院内閣委 大森内閣法制局長官答弁)。
憲法明文で正面から否定されている交戦権を集団的自衛権の名のもとに認めるという政府の「決定」を受けて、ホルムズ海峡におけるイランとの戦争が真っ先にと言っていいほど出てくるのは、戦争を求めているのが経済界であるということを如実に示しています。
この「経済の生命線」としての原油問題は、「エネルギー安全保障及び電力コスト低減のための原発」の再稼働という経済界の確信犯的な、執拗な要求にもう一つの脚を置いています。米国サイドのこの間の逼迫した事情によって日本の「戦争放棄の放棄」を強要する外的圧力に呼応した内的圧力、底なしの戦争需要とそれに必要な、たとえば原発再稼働や実質的「勤労動員」(ブラック・バイトよりさらにひどい)など思いのままの日常的戦時体制社会をめざす、経済界の無意識的・意識的なドライヴが露骨にかかっていると推測します。ゆえに今般の集団的自衛権とは将に「経済問題=経済学にとっての問題」なのではありませんでしょうか?
自衛隊のPKO海外派遣においてすべてを現地自衛隊の責任と負担になすりつけたまま平然とする感覚が(ある意味で「現場の<暴走>によって国全体を引きずり回した旧関東軍」の役割をタナボタで期待しているのではないかとすら思えるほど)集団的自衛権という名の違憲交戦権にとめどなく引き延ばされたわけです。
大規模で継続的な「合法的な殺人と破壊」を公然と組織的におこなう戦争戦闘を実行する部隊の行動を、国家の基本法に組み込まれた軍法の体系でインフラ支援することなしに、間違いなく違憲になるであろう議席と公明党頼みの立法と「行政措置」でなだれ込むようにやってのけさせようとするのは、正統的な、正気の治世者のものではなく、たとえばかってのチリ・ピノチェト政権、最近ではネオ・ナチの手を借りたキエフ政権のように、背後からあやつられたクーデター政権のものであると思えます。とりあえず憲法を取り換えられないところが大きく異なりますが。ふと思い立って・・・「まことに気の毒な」自衛隊の立場に立って考えてみると、いっそクーデターへの衝動に駆られるでしょう。
ともかく、国民国家と社会に対するこのような無感覚と無責任さというのは、腐ったニシンではあっても政治家の名を張るもののものではないだろうと思えます。話は飛びますがこれは近年の「サブプライム・ショック、リーマン・ショック」で激烈如実に現れた、その本性的宿命からして当然ではある、金融がその純化したかたちで示す、経済界のものです。
安倍晋三総理はマス・メディアのボスたちは高級天ぷら寿司の類で意のままに動かすことはできますが、そんなものはありがたくも何ともない経済界のボスたちを動かすことは出来ません。逆にその言いなりです。じつはマス・メディアは、安倍晋三の背後にある経済界をおそれて太鼓を叩いているのですが。
安倍晋三は、お得意のその場限りの言い抜けをしながら庶民を無視冷笑蔑視することができますが、財界に対してそういうことが一瞬でもできるでしょうか(内閣支持率復旧のためか突如浮上した「対北朝鮮擦り寄り」はどう見ても経済的無益有害であっさり取り換えられるかも知れません)。
自民党政治が到達した「末期的な症状を呈している米国グローバル体制への統合を、土建国家・原発国家の根こそぎ新自由主義化によっておこなう」ことによる日本社会の煉獄状態が野党民主党への「政権交代」を招いて以降今日まで、さまざまのことがなぜあれ程に「再臨自民党」の思いのままになるのかひどく釈然としないままに来ました。
しかしそれは当たり前の現実、日本が大企業が主導する「企業社会」であり、ほぼ皆が被雇用勤労者とその配偶者・子女である「国民」、一人ひとりの生活の死活を直接間接に握ることによって(学生のブラック・バイトを含めて)、大企業が社会を支配し動かしているということによる、という現実にあらためて目を瞠らざるをえませんでした。しかも何の社会的理念・理想、人間的思想を抱くことなく「利潤動機原理」のみによって(人間の社会がどうしてそうなるのか、そうであるのか、経済学の大きな課題なのだろうと承知していますが・・・)。
「明治維新=企業国家実現」論(幕末には「市場社会」は藩の枠を大きく越え、藩はむしろ企業化していた、明治維新はその上に立ったイビツな「クーデター」であるという、大方の「理念的明治維新賛美者」の顰蹙を買い黙殺されるのがあきらかな見方ですが)を考えながら、否応なくその中にいる現実である「企業社会ニホン」の片隅に浮かぶ小さな渦の輻輳に溺れながら思ったことを。
「死に至る病」である絶望に対峙しながら。キルケゴールを読む時間とちからはありませんが。何とか・・・と。いまの世の中の「代替案」出現を期待しつつ。そういえば、新自由主義=サプライ・サイドの独占的市場原理主義ではなく、デマンド(消費者大衆)・サイドの本来の?「市場」原理主義を社会原理に止揚するとか。ラルフ・ネーダー的なものを大きくこえて。プロテストや批判ではなく「代替案」で。
ニュースを見ていても「掃海」にぴんと来なくて、小銃を撃ちまくっているイメージしか湧いてきませんでした。だめですねえ。
ホルムズ海峡における掃海 なるほど、「国民の命と暮らし」に直結するといえますね。
安倍首相はひょっとすると衰退したアメリカに取って代わる日本を画策している(何もかも嫌になって投げ出す、よりはましですが)みたいですが、戦時下の統制経済が懐かしい方もいるみたいですね。
「経済政策としての明治維新」ですか。
今週の「英雄たちの選択」(BSプレミアム木曜夜8時)は「徳川慶喜の大政奉還」で、予告で磯田氏が「勝利者は徳川?」と言っています。どういう意味でしょう。
慶喜はフランスから幕府の銃を購入していましたが、その代金を支払っていませんでした。それを廃藩置県のおりに新政府に押しつけちゃった、というせこい話ではないですよね。
これまでの議論で日本神話と国学についてやらなきゃと思いつつ触れられませんでしたが、伊藤浩士さんのブログをご紹介するくらいしかできませんでした。なぜ「日本は特別」「日本が一番」でなければならないのかわかりません。そりゃ誰だって自分の国が特別で一番です。
伊藤さんのところからもう一本、「建国記念日の虚構を成立させる日本書紀編纂時の焚書」をご紹介します。
http://ameblo.jp/raika2001/entry-11769846253.html
こんなに強力な「歴史のねつ造」が行われた例はないでしょう。
(どうせ捏造するなら年数などをもっと盛ればいいのに、と思うことも)
拉致問題で気になるのはこれまで日本人を散々苦しめてきた政権が、この時ばかりは「個人の人権」を尊重する不思議さです。
おそらく私がいつも読んでいる某ブログが述べるように、政府は国民を道具か家畜と認識しているのでしょう。大切にはしないが、盗まれると怒る。それにしても、やればできるのにどうして今日まで放置していたのか。奇々怪々ですね。
鎮圧するか、静観するか。鎮圧するだけなら簡単なのですが京の町を再び火の海にする可能性があり、帝に危険が及ぶかもしれない。さらに内乱に外国が介入するかもしれず、それは絶対に避けたい。
そこで、情けないぐらい徹底的に「静観策」を続けるのです。
もし鎮圧に出てそれが原因で内乱になって日本が二つになったらそれはそれで面白いかもしれません。「神武の昔」に戻った天皇中心の神秘の「西ニッポン」と、相変わらず儒教的な徳川の「東ニッポン」のどっちが繁栄するか見てみたいものです。
とりあえず再放送のお知らせということで、簡単ですみません。
この番組では慶喜を「最後の将軍」ではなく「京都幕府」(だったでしょうか)の創始者ととらえています。(小泉孝太郎が「幕府をぶっ壊す」と叫ぶ)ところで阿部正弘があと2,3年長生きしていたら、幕府を水戸か甲府に移そうとしたのではないかな、と変なことを考えてます。
あと、Eテレの「戦後史証言プロジェクト・日本人は何をめざしてきたか」が個人的に興味津々で、特に第2回「思想の科学」が面白くて深夜でなければまた見たいかなと思います。再放送は18日金曜日深夜0時。鶴見俊介さんと「思想の科学」会員とがごちゃごちゃ自由に話し合うところが魅力的でした。「声なき声の会」「ベトナムに平和を!市民連合」のエピソードも面白かった。
それから塩沢先生からご紹介がありましたジェイコブスの「発展する地域 衰退する地域」を入手しました。読み始めたばかりですが。「廃県置藩」派の皆様には「もっと早く読みたかった」という内容ではないかと。でも難しい。
水戸斉昭が主張する「大砲で勝てなくとも槍、刀で戦う」が、地上ではなく艦上に乗り込んでの話だと気が付いたのはつい最近でした。刀はともかく、槍を持った侍を乗艦させてくれる軍艦があるとは思えず非現実的ですが。
同様に、吉田松陰の言う「貿易で損した分を朝鮮を取って補う」の「貿易」が武器取引に他ならないことをついこないだ悟ったのです。松陰と勝海舟は一時近い関係にありましたから、海舟も武器を輸入すると入超になるだろうと考えていた可能性があります。彼が阿部正弘に「貿易をして利益を上げよう」という「開明的な」意見を上申したのは、何でもいいから開国して武器を入れよう、そのためにお偉方をだましてでも説き伏せようとしたのだと思えてきます。のちに日清戦争に反対するそぶりを見せますが、明治政府がハト派ばかりだったら超タカ派の勝海舟が見られたかもしれません。
『日本の独立』ブログ「日本の贋金づくり」(参考図書:「史上最大の経済改革”明治維新”」 武田 知弘著)
http://ameblo.jp/s080226/entry-11830540358.html
これによると武田知弘氏は著書の中で明治維新後まもなくだれもが朝鮮征伐を唱えていたと述べています。外国への支払いに金が用意できずとりあえず贋金で支払ったりしているのですが、このままでは外国の信用を得ることができません。そこで朝鮮王室が蓄えているはずの黄金に目を付けた。このことは教科書はもちろん、広瀬隆の『持丸長者・幕末・明治編』にも書かれていません。維新政府が金欠で大商人たちから無理やり金を巻き上げていたことはちゃんと書いているのに。当たり前な認識だったからあえて書かなかったのか、それとも金欠な政府がいきなり侵略戦争を始めると思えなかったのか。
とりあえず欲しいものを押さえてしまい、後で支払いの手立てをなんとかする、というのは薩摩藩のお家芸なんでしょうか。
うまくまとめられてるとは思えませんが、明治政府の富国強兵策とは
・輸出可能なものは何でも輸出し、輸出できないものを生産している人は輸出産業についてもらう。
・優秀な武器を輸入し、いずれはもっと高性能の国産品に置換する。他にも日本で作れそうなものは国産化、輸出を目指す。
・資源確保や生産力確保のため植民地を持つ。(しかしインフラ整備や治安維持のために経費がかかり、さらに広い範囲から収奪するために植民地を拡大する必要が出てくる。)
この国の主だった人々は明治の時点から進歩していないのではないかと思う時があります。
・組合つぶし、ブラック企業化で経費削減を図る。サービス部門の価格を引き下げれば労働者の生活費を引き下げることができ、輸出品の価格に上乗せできる。
・負けないように最先端の武器を持つ。(しかし各企業はリストラで研究部門で「遊んでいる」人を削減したので開発力を低下させている。どうする?)
・資源確保や在外日本企業の安全確保のために派兵した実績を作る。そのために紛争やテロに巻き込まれる可能性が増すので、さらに軍備を進め、先制攻撃する。
「集団的自衛権」とは、経済的植民地の後ろめたさをごまかすためのいいわけで、かつての「国際貢献」と同様だったのですね。
これを続けていくと、国土が戦争で破壊されなくてもソ連並の生活水準になってしまうのではないかと思います。地方が衰退している今はこっそりテロリストに上陸されてもわからないのではないかと心配することがあります。右翼の人が沖縄基地周辺での生活を天国のように言いふらすのも、地方に米軍基地や自衛隊基地を誘致するための伏線なのでしょうか。
>水戸斉昭の「大砲で勝てなくとも槍、刀で戦う」
吉田松陰もこれと同じ主張をしていますね。やはり松陰の発想は濃厚に斉昭と似ています。
>のちに日清戦争に反対するそぶりを見せますが、
勝海舟の場合、決定的に松陰と違うのは、その親アジア思想にあります。
極論すれば、海舟は日清戦争には反対したけど、もし生きていれば日露戦争には賛成していたかも知れない人物です。アジアと組んで西欧列強と戦うというのが彼の思想の根底ですから。
水戸を除けば、江戸公議側には、こうした親アジアの発想を持つ知識人が多かったように思えます。むしろ不思議なのは、同じ日本の中では差別を憎んでいたように見える吉田松陰が、なぜ隣の朝鮮をあれほどまでに蔑視したのかということです。
いずれにしても長薩政権の成立が、現在まで尾を引く中国・朝鮮への差別思想を生み出した根源的な要因だと思います。それで武田知弘氏の言うような状況になってしまったのだと。幕府手動で近代化していれば、こうはならなかったと思います。
おっしゃる通り、明治以来、日本は変わってませんね。絶望的なほどに・・・・・。