代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

「真田丸」は「真田太平記」を超えられる

2014年06月28日 | 真田戦記 その深層
 NHK大河ドラマ真田丸の放映決定を祝って、NHKのスタッフと脚本の三谷幸喜さんを応援するためにこの記事を書く。

 真田家を取り上げた時代劇というとNHKが1986年に水曜の大型時代劇として放映した「真田太平記」が真っ先にあげられる。その真田太平記がいまでも語り伝えられる傑作であるために、NHKの大河スタッフと三谷さんには大変なプレッシャーになっていると思う。何かあれば、熱心な歴史オタク層などから、「真田太平記はこうだったのに、それに比べ真田丸は・・・・」などと比較しながら批判の声が浴びせられることは目に見えているからである。

 
 真田太平記がよかったのは、何よりも池波正太郎の原作を忠実に実写化したからだったと思う。原作が面白いので、ドラマも当然に面白かった。そして役者たちの迫真の演技がすばらしかった。これを乗り越えるドラマを作るのは確かに難しいと思う。

 
 原作がすばらしかった「真田太平記」の場合、脚本づくりに相対的に苦労は少ない。しかし三谷幸喜氏の真田丸の場合、依拠すべき原作はないので、ストーリーも一から作らねばならない。そして何かにつけて池波正太郎の真田太平記と比べられることになる・・・・。かなりアンフェアな話しではある。
 このようなプレッシャーのかかる仕事をよく引き受けられたものだと、感心する。しかしそのチャレンジ精神に心より敬意を表したい。私は真田太平記を超えるドラマを作って欲しいし、超えられると思う。というわけで例によって献策をしたい。

 真田太平記、たしかに傑作である。youtubeに転がっている「真田太平記」の動画の断片として下のものをご覧いただきたい。このシーンは真田家の草の者(忍び)の棟梁である壺谷又五郎(夏八木勲)が、関ヶ原の合戦の折、大谷吉継(村井国夫)に決死の覚悟を伝えた上、家康(中村梅之助)本隊に突撃して戦死するシーン。および又五郎戦死の報を、真田忍びの向井佐助(中村橋之助。じつは又五郎の孫であるが本人はその事実を知らない)から受けた真田昌幸(丹波哲郎)が涙するシーンである。



 故夏八木勲さんと故丹波哲郎さんの迫真の演技を観て欲しい。丹波さんなど、本当に真田昌幸の霊が降臨したのではないかと思われるくらい完全に昌幸になり切っている。この丹波昌幸と比べられてしまうのだから、大河「真田丸」で昌幸役になる俳優はあまりにもハードルが高いことだと思う。 

 しかし、これを超えるドラマを作ることは可能であるし、作って欲しい。まず大事なのは脚本である。
 あえて巨匠・池波正太郎の批判をさせていただく。池波の歴史解釈はわりと平板で、真田家の実力を過小評価しているところがある。私は、歴史学者が真田家について語っているステレオタイプな言説など間違いだらけだと思っている。池波正太郎も、わりと歴史学者の平板な解釈を踏襲している。ここで歴史学者の平板な(というより間違った)解釈を踏襲せず、歴史のリアリティを追求するだけで、ドラマは格段に面白くなるだろう。

 
真田信繁の葛尾城攻めの謎

 「真田太平記」では、第二次上田合戦で徳川秀忠軍を破った後、真田昌幸は上田城から一歩も動かず何の軍事行動も起こさないという設定になっている。これは間違いである。
 先の動画でも、真田忍びが関ヶ原に決死の突撃を仕掛けている最中、真田昌幸は「こう徳川軍に囲まれていては何もできんのぉー」などとノンキなことを言いながら、ひたすら上田城に籠城している。当時高校生であったが、「えー、そりゃないだろう」と思ったものだった。

 実際には真田昌幸・信繁(後の幸村)親子は、秀忠軍を破って、秀忠が上田を去った後、攻撃の矛先を上田領に隣接する川中島の海津城主・森忠政と定め、軍を北へ向けて発進している。真田の上田領に対して、森の川中島領の最前線基地は坂城の葛尾城であった。武田信玄を二度破った北信濃の名将・村上義清の本拠地であったあの葛尾城である。この葛尾城を攻めたのが真田信繁であった。

 真田信繁は、ちょうど関ヶ原の戦いの3日後の慶長5(1600)年9月18日に葛尾城に夜襲をかけ二の丸まで攻め込み、さらにその5日後に再び葛尾城を今度は早朝に朝駆けで攻めているがあと一歩のところで落とせなかった。さすがに村上義清の城であった。二回の攻撃で簡単に落とせるような城ではない。しかし当時の上田城は徳川の残留軍に包囲される中、少数の精鋭部隊のみ率いて難攻不落の名城・葛尾城を夜襲し、落城寸前まで追い込んでいるのである。真田信繁は籠城のみならず奇襲作戦にも高い能力を有していたことがうかがわれる。
 おそらくこの攻撃の後、関ヶ原敗戦の報が上田城にもたらされらのであろう。この後、真田信繁は軍事行動を停止している。
 歴史学者たちは、この真田信繁の葛尾城攻めにどのように重要な軍事的な意味があったのかということを、全く軽視ないし無視している。


真田軍の関東侵攻計画

 関ヶ原の折、上杉軍は越後の旧領を奪還した上で真田軍と合流し、関東に進撃しようという計画を立てていた。私が書いたものでは以下の記事を参照されたい。根拠は、石田三成本人が、8月6日付け真田昌幸宛て書状で、上杉と佐竹と共同で関東に攻め込むようにと伝えているからである。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3affa311dc5168640d2c1f124c06eb9e

 西軍のシナリオはこうだった。
 上杉は最上を倒した後、越後に侵攻して旧領を奪還する。すると真田領と上杉領のあいだにあるのは森忠政の川中島領だけになる。そこで真田が森忠政さえ倒せば、上杉領と真田領は完全につながって背後を脅かす勢力はいなくなる。そうなれば上杉=真田合同軍の関東進撃が可能になる。上杉軍と真田軍は小田原城攻めの際、共同で関東に侵攻しているので、事前演習もバッチリなのである。
 このシナリオは、石田三成が真田昌幸に送った書状をつぶさに分析すれば分かることである。

 石田三成は、8月5日付けの真田昌幸・信幸・信繁宛ての書状で、越後の堀秀治はすでに西軍に味方する意志を示しているという情報を届ける。当時、越後に残留した旧上杉の地侍が一揆をおこしており、堀秀治は上杉軍が侵攻すれば耐えられないないと悟っていたと思われる。

 三成は翌8月6日にも昌幸に書状を出し、「尾張と三河のあいだで家康を討ち取るので、上杉・佐竹・真田で袴をはいて関東に乱入するように」と指示している(「袴をはいて」は昌幸に示した三成なりのせめてもの強がりであった)。
 その書状の中では、越後を上杉に返し、越後の堀には上方に代替地を与えることで同意していると伝えている。直接、昌幸と関係のない情報と思われるかも知れないが、越後の堀に背後を脅かされたのでは、昌幸が関東に侵攻することは不可能になるから、非常に重要な情報なのである。
 堀秀治にしても、一揆に悩まされながら越後に留まるよりも、上方に転封されることを期待していただろう。三成が昌幸に書いたことはホラではなく、実際に、堀は上方への転封と引き換えに西軍に味方し、越後を上杉に返すことに同意していたと思われる。堀が西軍に寝返れば、加賀の前田も西軍になびいた可能性も高い。もともと前田は反徳川なのだから。

 もっとも三成は昌幸に対し、前田利長は説得中であるがはっきりした返事がないので、堀秀治に前田をけん制するように出兵を要請したと書いている。これは西軍にとっては不利な情報であるが、昌幸に正直に伝えている。この事実を見ても、三成は、昌幸の歓心を買うための誇張はしていないことが分かる。三成も、百戦錬磨の昌幸に対し、情報を誇張までして勧誘したところで全て見透かされてしまうということは、よく分かっていたのだろう。

 越後の堀が西軍になびいているとなると、真田軍にとって関東侵攻の妨げになるのは、川中島の森忠政だけになる。石田三成と森忠政は格別に仲が悪かった。三成は昌幸宛ての書状の中で、森忠政を名指しで批判し「秀頼様を騙し領地を掠め取った」と述べるなど、森だけは絶対に許すなと、三成にしては珍しく感情をあらわにしているのである。

 
 西軍が関ヶ原であれほど簡単に負けることがなければ、真田昌幸としては、森を倒し、堀と前田を西軍になびかせ、上杉=真田=堀=前田で江戸城に侵攻するというシナリオが現実味を帯びてきたはずだったのだ。上杉=前田=真田は小田原の陣の際に松井田城攻め、鉢形城攻め、八王子城攻めなどを共同で行った戦友でもあった。

 さすがに家康は西軍の作戦計画をよくわかっていた。森忠政が真田と戦って踏ん張ることが東軍勝利の条件であると考えていたと思われる。関ヶ原の年、慶長5年だけで家康と秀忠が森忠政に出した書状は合計32通にものぼる。ストーカーなみのしつこさである。家康は、忠政に対して真田昌幸に備えるようにと重ねて指示を出している。以下のサイト参照。
http://ukikimaru.ran-maru.net/ran/tadamasasyojo.htm
 徳川としては、忠政を東軍に引き止めるために懸命だった。だからこそ忠政には後に美作一国の国持大名という地位が与えられたのだ。


三成の書状は会津に届いたのか?

 
 さて石田三成の使者は、上田に立ち寄った後、真田の護衛を受けて、沼田経由で会津にも派遣されることになっていた。慶長5年の7月30日の三成の昌幸宛ての書状では「沼田越しに会津へ遣わされ候て給ふべく候」と書かれている。三成は使者を三人派遣し、一人は昌幸の返書をもって帰陣し、残りの二人は真田の護衛と一緒に会津へ向かっている。意外に思われるかも知れないが、真田領と上杉領は隣接して地続きだったのである。真田領の沼田から片品村を経て尾瀬ヶ原湿原を超えれば、すでにそこは上杉領の会津である。
 
 このため、石田三成は沼田の真田信幸が東軍に従ってしまうことを非常に恐れていた。沼田が敵方になれば、会津への連絡が遮断されてしまうからだ。それゆえ三成は昌幸とは別に、信幸にも別途書状を出している。ちなみに、その書状は現存していない。信幸が破棄したのであろう。三成から昌幸宛ての書状は上田城明け渡しの際、すべて父から譲り受け、歴代松代城主に大切に保管させた(廃藩置県まで!)信幸であったが、三成から自分宛ての書状は残していない。この用心深さはさすがである。

 三成は7月から8月にかけて何通も手紙を真田と上杉にそれぞれ送っている。昌幸に対しては、会津の上杉景勝に使者をたてて協議のうえで作戦を実行するよう重ねて伝えている。景勝から三成に連絡がないらしく、8月10日の三成の昌幸宛ての書状では、かなり焦った様子で、「会津に使者を立て、拙者(三成)と談合するように景勝に伝えて欲しい」と昌幸に要請している。

 さて三成からの手紙と昌幸の使者は無事に「沼田越し」に会津へと届いていたのだろうか? 上杉家には三成からの書状が残っていないのである。

 
 沼田城主の真田信幸は父と別れて徳川方になっている。8月21日には徳川家康が真田信幸に書状を送っている。信幸が「会津口の守備を厳重にした」と家康に報告したことに対し、「祝着の至り」と褒めている。さすが家康である。三成が沼田経由で会津と連絡を取ることも見越していたのである。

 ここはドラマの見せ場である。信幸は秀忠軍に従軍して上田攻めに参加したので、代わって沼田城は小松姫が「女城主」となっていた。

 三成の使者を護衛して会津に向かう昌幸の忍びと、それを察知し会津との連絡を遮断しようとする小松姫の放った忍びが尾瀬ヶ原で骨肉の決闘・・・・。 書状が会津に届かなかったことが上杉の軍事行動を誤らせてしまう・・・・。 妄想しただけで、このドラマは涙なしでは観れそうにない。

*********

 ・・・というわけで、歴史を深読みしていくだけで「真田太平記」を超えるドラマを作ることは可能だと思います。三谷幸喜さんがんばってください。
   
 文中で紹介した書状については、以下の文献を参照しました。

 上田市立博物館編『真田氏史料集』1987年
 笹本正治『真田氏三代』ミネルヴァ書房、2009年

 
 
 

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3 コメント

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7月31日「英雄たちの選択・関ヶ原スペシャル」 (りくにす)
2014-08-04 12:59:06
何の説明もありませんでしたが、森忠政宛ての家康の書状が画面に写っていました。三成から「沼田越し会津宛」の使者にもちらっと触れておりましたが、この使者はどうなったのでしょうね。
番組では「小早川秀秋が寝返らなかった場合のシミュレーション」などが検討され、「三成が妄動しなかったほうが豊臣政権は長持ちしたかも」との発言が。三成は豊臣政権の中心におり、正統性はそちらにあったのですから。でも、なんだかなあ…です。
(文句は家康に関東を与えた秀吉にいえ、ですか)

話変わって、映画「のぼうの城」を見る機会がありましたが、この三成がどうも「大きな戦がしたい」だけの変な人なんですね。画面上では仕事らしい仕事もしないし。(そのかわり陣幕をまくり上げてくれる兵士が気になる)詳細に描けばいいというものでもないのでしょうけど、三成のすごいところを少しは描いてもよかったかもしません。
政権交代が絡む戦が単純なものでないことは単純ではないことが年を取るにつれわかってきます。ドラマについていけるのか…
返信する
りくにす様 ()
2014-08-06 18:44:52
 このところ多忙だったためにコメントが十分にできず、すいませんでした。最近ほとんどテレビを見ておらず、英雄たちの選択・関ヶ原スペシャルも知りませんでした。(じつは、私のかっての同僚がレギュラー出演していたりするのですが・・・・)
 でも「沼田越しの使者」にまで触れるとは、なかなか勉強している番組ですね。

 この使者が果たしてどうなったのかについて、きちんと考察している文献、私はこれまでに見たことがありません。三成と景勝の連携がちゃんと取れていたか、いなかったのかは勝敗の帰趨にも重大な影響を与えたかも知れないポイントなのに・・・・。

 上杉家に三成からの書状が残っていないのは、徳川の目をはばかって破棄したからだろうという仮説も考えられますが、「会津口の封鎖」についての家康と信幸の手紙のやり取りが残っていますので、三成の使者は沼田城主の真田信幸と信幸出陣後は小松姫に妨害され、実際に届かなかったという仮説も成り立ちます。かなりロマンのある話です・・・・。

>「三成が妄動しなかったほうが豊臣政権は長持ちしたかも
 私には、やはり戦犯は総大将の毛利輝元の優柔不断さにあったように思えます。軍師・官兵衛に出てくる毛利輝元はよく描けていると思います。あ、ここでも長州史観批判に・・・・・。

 「のぼうの城」は私も見ました。成田側から描いているので、三成の描き方はあんなものでしょう。 
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返答ありがとうございます (りくにす)
2014-08-08 22:12:53
私としては、関が原に関しては毛利の無為より、島津義弘ファンの態度にカチンと来てしまいます。ひょっとすると長州の皆さんも同じかもと思ったりして。
話はずれますがこの「関ヶ原スペシャル」に出ていた加来耕三さんは「戦国時代は豊かだった」とおっしゃっていましたが、どんな根拠でそう言うのか分かりません(八幡和郎氏は徳川目の敵だが)。諸大名が自由に海外貿易できたから、かもしれませんが、入超になるかもしれず、個別に外国の属国にされるかもしれません。豊かだったのは織田などの「勝ち組」の上層部だけだったのではないかと思いますが。
ところで資本主義批判の人の中にはオランダを諸悪の根源とみなす人がいますが、そのオランダのアジア支配の一翼を担っていた徳川政権を批判することはあるのでしょうか。

さて、『八重の桜』で大河ファンは銃に詳しくなったものと思いますが、大坂の陣の幸村は連発式の騎兵銃を持っていたそうですね。学研まんがの『真田幸村』に伊達の騎馬鉄砲隊が登場して幸村に襲い掛かるのですが、伊達軍も同様のものを備えていなかったか気になります。政宗はメキシコ貿易をもくろんでいましたから騎兵銃などを持っていそうです。

ここは『清州会議』を見てから言わなくてはならないでしょうがこれまでのドラマに描かれなかった史実を描くのか、定番の出来事のみをもっと掘り下げて描くのか悩みどころでしょう。(『天地人』はそういう史実を描くチャンスではあったが期待外れだった)
それでも大坂の陣での塹壕戦と騎兵銃はやるものと思います。
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