代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

追悼 力石定一先生 -エコロジカル・ニューディール政策の提唱者 

2016年02月11日 | エコロジカル・ニューディール政策
 さる1月22日に力石定一先生(法政大学名誉教授、経済学・社会工学)が逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。
 私がこのブログを始めたきっかけは、力石先生が提唱された「エコロジカル・ニューディール政策」を宣伝するためでした。
 力石先生は、英米で「グリーン・ニューディール政策」と言われだす10年前の1999年ごろから、「エコロジカル・ニューディール政策」を提唱され、鉄とコンクリートの土建国家型公共事業路線から、再生可能エネルギー・緑のダム・LRTなどのクリーン・テクノロジーによる環境再生事業で雇用を吸収し、同時に創造的破壊を生み出すという、ケインズとシュンペーターとエコロジーを統合させる経済政策を訴えてこられました。
 
 私は、この政策こそ日本の閉塞状況から脱却する起爆剤になると考え、力石先生と共に活動してきました。その後、英米でもグリーン・ニューディールが提起され、いまではこうした政策の必要性は多くの方々が納得してくれると思います。ただし、1990年代の当時はそうではありませんでした。

 当時、力石先生が提言されていた政策の具体策は、力石定一・牧衷著『発想』第1号~4号、季節社刊、2000~2002年)にまとめられています。共編者の牧衷さんも、昨年逝去されています。私が師と仰いだ方々の相次ぐ訃報に、孤独感にさいなまれています。

 力石先生が有名なのは、おそらく、1948年武井昭夫、沖浦和光らと共に全学連を結成し、全学連の初期の指導者の一人であった点でしょう。力石先生らは東大入学後に、東大の共産党細胞のリーダーだった渡邉恒雄氏(現・読売グループ会長)に路線闘争を挑み、学生運動の指導権を奪って、全学連を結成したのです。

 武井昭夫さんも2010年に逝去されており、全学連の草創期のご記憶を持つ方は、もうほとんどいなくなってしまいました。
 
 力石先生はもともとマルクス経済学者でしたが、主流派のマルクス主義者とは違って、革命に依らずして、漸次的改革の積み重ねによって社会を改良していこうとする構造改革論の立場でした。後に共産党の指導者になる不破哲三氏も上田耕一郎氏も、もともとは構造改革論の立場でした。

 長州出身者として共産党主流派であった宮本顕治氏は、構造改革論を「異端思想」とみて、党内の構造改革派を弾圧し、一掃してしまったのです。(これは私が現在行っている長州史観批判につながる問題です)。私も詳しいことはわかりませんが、不破氏と上田氏は自己批判して党内に残ったそうです。

 構造改革論が日本の左翼運動の主流になっていれば、現在の共産党が遅きに失した感じで、ようやく始めた野党共闘路線も、ずっと早くから展開されていたでしょう。そうなっていれば、日本の歴史も少し違った展開になっていて、ここまでひどいことにはなっていなかったと思います。 

 力石先生は、1960年代当時から、自民党の中でもケインジアンの池田派や田中派などは共闘すべき味方として認識し、福田派(旧岸派、現在の清和会)のような新自由主義路線を葬ることを、構造改革として取り組むべき当面の目標として捉えていました。
 実際、力石先生は1967年の著作『転形期の経済思想』(徳間書店)の中で、早くもミルトン・フリードマンらの経済思想を指して「新自由主義」という言葉を使用し、当面の打倒対象としています。驚くべき先見性だったと思います。
 
 その後の歴史は、周知のように、力石先生の考えとは真逆に進み、池田派や田中派の流れが壊滅させられてしまい、新自由主義と長州的軍国主義が一体化した清和会系の一人勝ちになってしまったわけです。こうした現状に、どうしようもなく悲観的にならざるを得ません。

 しかしこうした状況だからこそ、現在、あらためて力石先生が提起された経済政策と社会運動論を世に問う意味は大きくなっていると思います。
 
 力石先生が最後の著作として2000年から02年にかけて発刊された『発想』という雑誌の1号から4号、いまでもネットでは手に入りますので、興味のある方はご参照ください。

『発想』1号 「失われた10年からいかに脱却するか」

『発想』2号 「都市の再生と自然の回復を目指して」

『発想』3号 「エコロジカル・ニューディール政策」

『発想』4号 「日本経済をどうやって救うか」

 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。