文部科学省が「スーパーグローバル大学」などという「スーパー亡国プロジェクト」を始め、選定された大学の現場からはあちこちから悲鳴の声があがっている。某国立大学などでは「5年後には授業の半分を英語にし、10年後にはすべての授業を英語にする。日本の古典文学も英語で教える」などというメチャクチャを始めていて、知り合いの先生は自分の研究時間も捻出できず、ひたすら文科省に振り回されて疲弊していた。断言するが、こんなことをやったらその大学の教育と研究は滅びる。そもそもまともな親ならば、自分の子供をそんな愚かな大学に進学させたくはないと思うだろう。
学生は学問を身に着けるどころか、母国語でちゃんとした文章も満足に書けないほどに知性も劣化していくだろう。「保守(右派)」を自称する政権のもとで、このような亡国植民地化教育政策が展開されようとしていることに、私は戦慄を覚える。
100%英語の授業を受けたかったら外国に留学すればよいのだし、日本国内でそんなことをやっても、アメリカの学問研究の水準に追いつくどころか、水を空けられていくだけであろう。グローバル大学ではなく、植民地大学になるだけだ。
国際水準の質の高い研究を海外に発信したいのなら、英語で教育をすることに無駄な投資をするのではなく、むしろ日本語で教育をし、日本語でとことん考え、そこから生み出された学問研究の成果を英訳発信することにこそ投資をすべきであろう。繰り返すが、日本語で育った日本人に英語で思考し英語で研究することを強制したところで、国際的に価値のある研究成果などほとんど出てこないだろう。日本の研究水準は確実に低下する。
そう思っていたところ、最近すばらしい本が出ているのを知った。
松尾義之著『日本語の科学が世界を変える』(筑摩書房、2015年)である。
文科省の役人と安倍官邸の人々には、この本を熟読して欲しい。私はそう切望する。
本書で紹介されている、湯川秀樹も、木村資生も、益川敏英も、中村修二も、日本語で考え、日本語で研究をし、世界的業績を挙げた。彼らが英語で考えて研究をしていたら、同じ研究ができたかどうか分からない。
著者は量子力学の創始者であるウェルナー・ハイゼンベルクの次の金言を引用する。
「人間思考の歴史においては、最も実り豊かな発展は、二つの方向を異にする思想が出会う点で起こりがちである」と。ハイゼンベルクは弁証法の深淵を理解していた。これぞ弁証法的発想である。
英語で思考し英語で研究をする人々と、日本語で思考し日本語で研究をする人々が出会って、アウフヘーベンする中で、科学研究の新しい発展が生まれる可能性がある。日本語での思考、日本語での学問研究が滅び去ってしまい、この地球上から英語以外の言語での学問研究ができる機会がなくなってしまえば、みのりある発展が生まれる可能性の芽を摘み取ってしまうだけなのだ。
私たちが日本語で学問することによって、世界に対し実り豊かな貢献ができる可能性があるのに対し、日本語を捨て、大学以降に付け焼刃的に英語で学問をしたところでアメリカ人に勝てるわけもないし、かりに同水準の研究が生まれたとしても、アメリカ的発想の研究が増えるだけであり、それが何か地球人類に対して価値ある貢献になると思えない。日系人であっても、英語で考え英語で思考しているフランシス・フクヤマは、アメリカ人以上にアメリ的な発想をして、ネオコン思想にかぶれ、アメリカのみならず全世界に危機をもたらした。
文科省が行おうとしている政策は、単に亡国なだけではなく、全地球的にも大損害を与えるであろう愚行である。英語以外の言語による学問研究によって生み出される知性の可能性という、重要な選択の幅を摘み取ろうとしているのだ。
内田樹氏は、『日本辺境論』(新潮新書)などの中で、日本語で思考することの利点を指摘している。日本語は漢字という表意文字と、ひらがなという表音文字を組み合わせる特異な言語体系である。日本語を読み書きするということは、表音文字だけを使う欧米人とも、表意文字だけを使う中国人とも異なり、脳内の二か所を同時に活動させていくことになる。つまり日本語を話し、日本語で思考することは、表音文字世界とも、表意文字世界とも異なる発想を生み出す可能性があり、それが世界に貢献するかも知れないのだ。
養老孟司氏は、日本で独特のマンガ・アニメーション文化が生まれ、世界を牽引しているのは、表意文字と表音文字を同時に組み合わせるという言語的特質に負うところが大きいという。マンガの絵は表意文字であり、ふきだしは表意文字であり、これを組み合わせるのは日本人のもっとも得意とするところだからであると。
日本語の科学・学問を捨てるということは、日本の学問水準をグローバル化させるどころか、日本が今後ともグローバルな貢献をしていく素地を消失させることにつながるのだ。
学生は学問を身に着けるどころか、母国語でちゃんとした文章も満足に書けないほどに知性も劣化していくだろう。「保守(右派)」を自称する政権のもとで、このような亡国植民地化教育政策が展開されようとしていることに、私は戦慄を覚える。
100%英語の授業を受けたかったら外国に留学すればよいのだし、日本国内でそんなことをやっても、アメリカの学問研究の水準に追いつくどころか、水を空けられていくだけであろう。グローバル大学ではなく、植民地大学になるだけだ。
国際水準の質の高い研究を海外に発信したいのなら、英語で教育をすることに無駄な投資をするのではなく、むしろ日本語で教育をし、日本語でとことん考え、そこから生み出された学問研究の成果を英訳発信することにこそ投資をすべきであろう。繰り返すが、日本語で育った日本人に英語で思考し英語で研究することを強制したところで、国際的に価値のある研究成果などほとんど出てこないだろう。日本の研究水準は確実に低下する。
そう思っていたところ、最近すばらしい本が出ているのを知った。
松尾義之著『日本語の科学が世界を変える』(筑摩書房、2015年)である。
文科省の役人と安倍官邸の人々には、この本を熟読して欲しい。私はそう切望する。
本書で紹介されている、湯川秀樹も、木村資生も、益川敏英も、中村修二も、日本語で考え、日本語で研究をし、世界的業績を挙げた。彼らが英語で考えて研究をしていたら、同じ研究ができたかどうか分からない。
著者は量子力学の創始者であるウェルナー・ハイゼンベルクの次の金言を引用する。
「人間思考の歴史においては、最も実り豊かな発展は、二つの方向を異にする思想が出会う点で起こりがちである」と。ハイゼンベルクは弁証法の深淵を理解していた。これぞ弁証法的発想である。
英語で思考し英語で研究をする人々と、日本語で思考し日本語で研究をする人々が出会って、アウフヘーベンする中で、科学研究の新しい発展が生まれる可能性がある。日本語での思考、日本語での学問研究が滅び去ってしまい、この地球上から英語以外の言語での学問研究ができる機会がなくなってしまえば、みのりある発展が生まれる可能性の芽を摘み取ってしまうだけなのだ。
私たちが日本語で学問することによって、世界に対し実り豊かな貢献ができる可能性があるのに対し、日本語を捨て、大学以降に付け焼刃的に英語で学問をしたところでアメリカ人に勝てるわけもないし、かりに同水準の研究が生まれたとしても、アメリカ的発想の研究が増えるだけであり、それが何か地球人類に対して価値ある貢献になると思えない。日系人であっても、英語で考え英語で思考しているフランシス・フクヤマは、アメリカ人以上にアメリ的な発想をして、ネオコン思想にかぶれ、アメリカのみならず全世界に危機をもたらした。
文科省が行おうとしている政策は、単に亡国なだけではなく、全地球的にも大損害を与えるであろう愚行である。英語以外の言語による学問研究によって生み出される知性の可能性という、重要な選択の幅を摘み取ろうとしているのだ。
内田樹氏は、『日本辺境論』(新潮新書)などの中で、日本語で思考することの利点を指摘している。日本語は漢字という表意文字と、ひらがなという表音文字を組み合わせる特異な言語体系である。日本語を読み書きするということは、表音文字だけを使う欧米人とも、表意文字だけを使う中国人とも異なり、脳内の二か所を同時に活動させていくことになる。つまり日本語を話し、日本語で思考することは、表音文字世界とも、表意文字世界とも異なる発想を生み出す可能性があり、それが世界に貢献するかも知れないのだ。
養老孟司氏は、日本で独特のマンガ・アニメーション文化が生まれ、世界を牽引しているのは、表意文字と表音文字を同時に組み合わせるという言語的特質に負うところが大きいという。マンガの絵は表意文字であり、ふきだしは表意文字であり、これを組み合わせるのは日本人のもっとも得意とするところだからであると。
日本語の科学・学問を捨てるということは、日本の学問水準をグローバル化させるどころか、日本が今後ともグローバルな貢献をしていく素地を消失させることにつながるのだ。
ご無沙汰してます。
すでに、一度貴記事にTBとコメントをしたのですが、うまく届いていない模様のため、再度させていただきます。