代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

学問の独立が失われれば民主主義は死ぬ

2020年10月03日 | 学問・研究
 私はかつて基本高水問題で日本学術会議の土木工学の分科会に酷い目にあわされたことがあるので、「学術会議、ああ権威主義が大好きな人たちの集まりね」くらいにしか思っていない。あの組織があることによって、組織にかかわれば貴重な研究時間も削がれるわけだし、まともな学者だったら入りたくないだろう。しかし、そうであっても、今回の菅首相の6人の学者の任命拒否事件はひどい。
 日本学術会議、山極寿一会長の下では、安倍政権の暴走に対する抑止力としての機能は一定果たせていたとは思う。人を得れば、それなりの機能を果たせるということだ。

 しかし、そうした人材を行政権力がブロックし、御用学者のみで組織を固めるというのであれば、政権に対するチェック機能も何も果たせなくなるのだから、もはや税金を出すに値しない。権力を監視する組織として機能すればこそ、国民が税金を払ってでも維持する価値のある組織になるのだ。
  
 日本において、中国を批判する人たちほど、その志向性はむしろ中国共産党に似ているのだから皮肉なものだ。学問の独立とか、権力の分立をもっとも嫌うのが、プロレタリア独裁の名の下に一党独裁を正当化してきたソ連共産党や中国共産党などであった。
 中国は、理系分野の研究水準こそ、そこそこ高いのに、人文社会科学分野の研究レベルがまるで酷いのは、中国共産党が今回の菅首相がやったような学問の独立を踏みにじる介入を恒常的に行っているからである。日本もこんなことをやっているようでは、ただでさえ低い人文社会科学分野の研究水準がさらに目も当てられないひどいものになり、人類に対する知的貢献など何もできなくなっていくだろう。
 中国のようになりたくないのであれば、行政権力が決して研究機関の人事に口を出せない学問の独立性を堅持しなければならない。学問の独立が脅かされるようになった時点で、民主主義は確実に死ぬ。
 日本はだんだん中国に接近してきている。お互いに、敵対すればするほど、お互いに硬直化し、軍事支出のみ増大し、全体主義化していくのだから、悪循環もよいところだ。
 
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